
先週末、祖父が他界しました。
戒名に「寿」の文字を入れてもらったくらいの大往生だったから、葬儀に来てくれた方も口々に
「きれいな顔しとるねえ」「変わらん人じゃねえ」と声をかけてくださった。
1歳から5歳までの5人の曾孫たちも皆で見送ることができた。
父の挨拶の中で、「(祖父が)10年くらい前に、煙草を吸いながら『わしは120まで生きるんじゃ』と言っていた」
という話があって、そう!そんなこと言よった!と私も元気な頃のじいちゃんを一気に思い出した。
そんなに生きて何をするのか、と父が問うとじいちゃんはニヤリと笑っただけで答えなかった。
そしてそれにはあと20年ちょっとというところで、結局その答えは教えてくれなかった。
そんなことはよくあって、聞いた方が「何それ!?」みたいな反応をするとただ無言でニヤリといたずらっぽく笑っていた。
私が小学生の頃、家に遊びに来ていた友達と居間で話していたら無言で入ってきて
通りすがりにおならをして(音ありの確信犯)無言で出て行った。その事はしばらく語り種になった。
晩ごはんの時、ばあちゃんに「お前の作った味噌汁は不味い」と言ってマジギレしたばあちゃんに
「ならお食べな(食べるな)や!!!」と怒られて黙ってしまった。そりゃそうだ。
テレビとお酒と巨人が好きで、そのチームが負けた時には「だーくそー!!」とテレビを叩きつけるように消して
寝室へ入っていた。
靴は「わしはこれがええんじゃ」とコンバースのスニーカーを愛用していて、
90になった頃でもおめかししてJRで高島屋の初売りに出かけて行くようなおしゃれさんだった。
戦争も経験している人だったから、私が中学生の頃はよく地図を出してきて話をしてくれた。
デイサービスに通っていた頃の写真を見ると変顔で写っているのが何枚もあって、
そうそう、家でもいっつもこんな顔しよったなあとお調子者の一面を思い出す。
認知症のばあちゃんを、連れて帰ってわしが面倒みる!と何度も言っていた。2人で旅に出る、と言っていたことも。
勿論いい時ばかりじゃなくて、父や祖母との怒鳴りあいのケンカはしょっちゅうだったし
困るなあ、ということもよくあったと思う。でももうそんなのは何でもないことになった。
元気で派手な親父でした、と父が言っていた。うん、ほんとに元気な人だったなあ。


そして孫の私にできることといえば、じいちゃんのことを思い出したりお墓まいりをしたり、
毎日ごはんを作って子供に食べさせて家族で恙無く暮らすことくらい。
楽しい思い出をたくさんもらって、私はじいちゃんの孫でよかったよ。ありがとう。
施設ではよくチャンネル争いをしていたらしいじいちゃん。これからは、見たいテレビをゆっくり見てね。