仙台街探(まちたん)プラス

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仙台城下町”辻標”八十八か所巡り㉖ 「石切町」は青葉城石垣の石工の町、すずめ踊りのルーツ!?

2024年02月26日 | 仙台城下辻標八十八か所巡り

八幡一丁目交差点から北上し、カーブを右に曲がると石橋があり、このたもとに、

38番辻標「石切町(いしきりまち)/覚性院丁(かくしょういんちょう)」が設置されています。

「石切町」周辺は、1660年寛文年間には、石切御職人の住居エリアでした。また、八幡町に至るこの道は、城下と石巻や山形を結ぶ要路だったようです。石切御職人の子孫「小梨石材店」が往時を偲ばせます。

橋は、左手から右手に流れるへくり沢の上にかけられていました。

「覚性院丁」は、土橋通から石切橋までの間を呼んでいました。もともと覚性院は、東六番丁小学校の地にありましたが、東照宮造営にあたり、一時東照宮の仮宮とされ、この地に移されました。のち明治の初めに廃寺になりましたが、地域住民の方々は、春日神社の整備と共に地域の名称として誇りを持たれています。

石切橋の左手に「瀬田谷不動尊」がありますが、逸話・縁起らしきものが見当たりません。

そう言えば、春日神社のへくり沢散歩道案内板④に手がかりがありました。仙台城築城に貢献した石工たちがこの「瀬田谷不動尊」や「大崎八幡宮」で奉納した「ハネコ踊り」「仙台雀踊り」のルーツというのです。諸説いろいろあるのでしょうが、さもありなんですね。

参考資料・引用

「辻標」 仙台市文化財パンフレット第三十五集 編集発行 仙台市教育委員会文化財課

「仙台城下の町名由来と町割」定価1,500円(税別) 著者 古田義弘 発行所 本の森

 

 

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仙台城下町”辻標”八十八か所巡り㉕ 「榴ヶ岡」は歌枕にも詠まれたツツジの名所。

2024年02月15日 | 仙台城下辻標八十八か所巡り

61番辻標「榴ヶ岡(つつじがおか)/二十人町(にじゅうにんまち)」は、榴ヶ岡の婦人会館・NPOプラザ入口付近に設置されています。

もっとわかりやすく言うと、榴ヶ岡公園の北西角の向かい側、電柱と電柱の間です。

「榴ヶ岡」は、古くは、歌枕にも詠まれたツツジの名所、また、源頼朝の平泉攻めに備え、藤原泰衡は陣を置いた場所ともいわれています。藩政時代にはこの付近には米蔵もありました。

”名称榴ヶ岡”の碑もあります。

元禄の頃には、藩主伊達綱村が、馬場の両サイドに、京都からシダレザクラなど千本取り寄せ植え込み、その後開放しています。仙台の桜の名所ですね。公園内の歩兵第四連隊の兵舎は、県内最古の木造洋風建築で、現在、仙台歴史民俗資料館として活用されています。

「二十人町」は、二十人衆と呼ばれた足軽鉄砲組が置かれたことに由来します。名掛丁の東端、旧小田原車町東角から榴ヶ岡までの通りを指しています。

通りの中ほどに矢先神社が祀られていて、この境内が砲術の稽古場でもありました。またこの道筋は、まっすぐ仙台城大手門に通じる道筋でもあり、町割りを鈎型にしたり、道幅を狭くするなど、城下町特有の街づくりをしています。明治以降は、少しずつ商店街を構成しつつも、戦後の再開発で仙台駅東側は、風景が一変しました。

参考資料・引用

「辻標」 仙台市文化財パンフレット第三十五集 編集発行 仙台市教育委員会文化財課

「仙台城下の町名由来と町割」定価1,500円(税別) 著者 古田義弘 発行所 本の森

 

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仙台城下町”辻標”八十八か所巡り㉔ 細横丁は藩政時代、幅3ⅿの”本当の細横”でした。

2024年02月09日 | 仙台城下辻標八十八か所巡り

冬の晴天、ほんとうに寒いですが、歩くには夏の暑さよりはマシですので、中心部を引き続き”街探”しています。

17番辻標「北三番丁(きたさんばんちょう)/細横丁(ほそよこちょう)」は、木町通小学校の南、北三番丁公園の南東角地に設置されています。

「細横丁」が、晩翠通と呼ばれるようになって久しいですが、年配の方には、やはりまだ”細横”がしっくりきそうですね。藩政時代は、大町三丁目から北五番丁までは、幅3mの細い通りの侍屋敷で、仙台藩最初の学問所が、北三番丁西南角にありました。明治以降各種小売店が並び庶民のマチとなり、明治29年に日本聖公会の教会が設置され、名物となりました。

「北三番丁」は、西は土橋通南端から上杉山通りを越えて、宮町まで武家屋敷がならんでいました。この付近にも堀が作られ、四谷用水から分水された水で、町を潤していました。

かつての東北地方整備局の跡地には、タワマンができて、1Fにはイオンが出店。北山トンネルができて、泉方面からの車が仙台中心部に流れ込み、南北を結ぶ幹線道路になりました。

参考資料・引用

「辻標」 仙台市文化財パンフレット第三十五集 編集発行 仙台市教育委員会文化財課

「仙台城下の町名由来と町割」定価1,500円(税別) 著者 古田義弘 発行所 本の森

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仙台城下町”辻標”八十八か所巡り㉓ 仙台駅を挟んで東西3か所を”街探”。

2024年01月23日 | 仙台城下辻標八十八か所巡り

仙台駅を挟んで日々ダイナミックに変化する駅前エリア、東西3か所の辻標周辺を”街探”しました。

52番辻標「東七番丁(ひがししちばんちょう)/柳町通(やなぎまちどおり)」

仙台駅東口は、ヨドバシカメラ仙台第一ビルのオープンで、昨年さらにパワーアップ、人の流れも大きく変わりました。52番辻標「東七番丁(ひがししちばんちょう)/柳町通(やなぎまちどおり)」は、ビルの東側、バスの発着所そばに設置されています。

東七番丁は、二十人町と荒町の間を結ぶ南北の長い丁。北が侍屋敷、南が足軽町。今はとても信じられませんが、もともとは湿地帯で、”谷地小路”とも呼ばれていたそうです。

柳町通は、ご存じのように、柳町の大日如来付近から東の考勝寺付近までを結んでいました。鉄道開業によって東五番丁から七番丁間はほぼ失われています。ヨドバシカメラの駐車場南側と駿台予備校の間に、仙台駅で分断された道の名残をみることができます。

66番辻標「東八番丁(ひがしはちばんちょう)/八ツ塚(やつつか)」

新寺通・北目町ガードを潜って、S字で卸町方面に向かう五差路の角に設置されています。

東八番丁は、東七番丁の東側に平行して割り付けられた足軽屋敷群。ここも北は二十人町、南は荒町につながります。

八ツ塚は、東八番丁の東側、寺院が多く集まっているエリアを「八ツ塚」と称していました。古くは、一面の野や畑であったその中に、由来のわからない古塚が八つあったのでこの名がつきました。寛永年間、元寺小路から一部の寺院をこの周辺に移したので 、新寺小路と呼ばれるようになりました。

43番辻標「六道の辻(ろくどうのつじ)」

JR東日本仙台ビルの向かい側、植栽帯の中に半分埋もれています。角地にタワマンが建設中で、また景色が変わるでしょう。

もともと旧北目町ガード付近は、宮町からの東六番丁と北目町通りの四辻でしたが、東五番丁が平行して割込み、旧清水小路が水堀によって二筋に分けられ、計六本の道が集まります。また、幕末に龍川院跡(仙台国際センター付近)に残されていた六地蔵をこの地に移し、六道の辻と呼ばれました。

明治20年の鉄道開通や昭和40年代の再開発、最近は、東西自由通路、さきほどのヨドバシカメラオープンなどで、仙台駅周辺は大きく様変わりしましたが、街の記憶につながる辻標の存在は、ますます重要になってきていますね。

参考資料・引用

「辻標」 仙台市文化財パンフレット第三十五集 編集発行 仙台市教育委員会文化財課

「仙台城下の町名由来と町割」定価1,500円(税別) 著者 古田義弘 発行所 本の森

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仙台城下町”辻標”八十八か所巡り㉒ 宮町から上杉公園付近を”街探”。

2023年12月18日 | 仙台城下辻標八十八か所巡り

門前町の宮町から仙台の静かな住宅街上杉を”街探”しました。

86番辻標「宮町(みやまち)/宝蔵院(ほうぞういん)」は、

宮町の門前通りと北六番丁通りの交差点に設置されています。

宮町は、ご存じのように、徳川家康をご神体とする仙台東照宮の門前町です。

1654年、東照宮が造営された際に町割りされました。

昭和30年代までは昔ながらの商店や農家が点在する静かな町でした。

かつては、御宮町、権現町ともいわれました。

 

中央奥に、仙台東照宮の鳥居が微かに見えます。

宝蔵院は、東照宮の別当寺として建立された仙岳院の塔頭のひとつ、

現在の延寿院と梅田川の間にありましたが、その後廃絶、地名にその名が残りました。

仙台北東部から市内中心部への車列が続きます。

※仙台東照宮については、以前参拝しましたのでこちらを。

仙台東照宮に参拝し,骨董市に行ってきました。 (goo.ne.jp)

3番辻標「北一番丁(きたいちばんちょう)/二本杉通(にほんすぎどおり)」は、

上杉コミュニティーセンターに隣接する上杉公園内に設置されています。

北一番丁は、広瀬川崖の上の支倉町から東に一直線、宮町に至る侍丁です。

最初は二日町、次いで二本杉通、最終的に東照宮がある宮町まで延長されました。

当時としては、大通りで、大身や中堅武士の屋敷が多く、敷地が広いので明治以降は、

学校や役所が設置され、静かな環境が残されたのでしょう。

二本杉通は、現在の空堀丁付近から、北七番丁までの通り。

二代藩主忠宗のとき、仙台城下北東の町割りの際、「杉山」の名がつく通りができ、

小身の組士が置かれた侍丁でした。また、通りの北端には、

町名の由来ともされる朝日神社があります。源頼朝の奥州征伐にさかのぼり、

姥杉、翁杉と朝日巫女の伝説など興味がつきません。あらためて、確認してみようかと思います。

上杉公園は、都心にありながら、広々として静かな空間です。

辻標と並んで、「東北中学校開校の地」という石碑も設置されていました。

今の東北高校の前身が東北中学校、さらに明治三十年代に

「仙台数学院」としてこの地に創設されたということです。

創立九十周年に設置されたんですね。辻標ならずとも、

目に見える形で、歴史を刻み残すことは、ほんとうに大事ですね。

参考資料・引用

「辻標」 仙台市文化財パンフレット第三十五集 編集発行 仙台市教育委員会文化財課

「仙台城下の町名由来と町割」定価1,500円(税別) 著者 古田義弘 発行所 本の森

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