仙台街探(まちたん)プラス

仙台のグルメ・カフェ・イベント・etc.街の話題をご紹介。プラス岩手、山形、福島の街ネタも。

”辻標”八十八か所巡り㉜ 78番「一本杉/保春院前丁」81番「行人塚/古城」周辺を街探

2025年02月20日 | 仙台城下辻標八十八か所巡り

街探”辻標”八十八か所巡り、旧市内東部エリア若林区にやってきました。

78番辻標「一本杉(いっぽんすぎ)/保春院前丁(ほしゅんいんまえちょう)」は、貨物線高架の先、若林区区役所前にあります

「一本杉(いっぽんすぎ)」

聖ウルスラ学院の敷地に、数百年を経た老杉があり、この付近を一本杉と呼んだといわれています

「保春院前丁(ほしゅんいんまえちょう)」

伊達政宗の御母堂の菩提所「保春院」が、貨物線高架の先にあります、保春院の13回忌に伊達政宗が建立した寺で、仙台七刹のひとつといわれていました

歴史ある古いエリア、縦横無尽に流れていた堀の名残が、散歩道「薬師高砂堀通り」となっています

聖ウルスラ学院の東側、うなぎ卸の「中嶋商店」があります、うなぎ弁当など店頭販売もあるようです(予約制)

「若林城跡」に向かいます

辻標とは別に、きっちりとした石碑が建ってました、今は宮城刑務所ですが、伊達政宗の隠居城と言われていた若林城、めぐらした塀の痕跡や石垣など、しっかり城の役目を果たしていたのでしょうね

 

81番「行人塚(ぎょうにんづか)/古城(ふるじろ)」

「行人塚(ぎょうにんづか)」

かつてこの場所に榎の老木の下に行人塚という小塚があり、広瀬川の水害を鎮めるために人柱になった行人(山伏)を祀るために築いた塚といわれています

「古城(ふるじろ)」

まさしく先ほどの若林城跡のことで、政宗の晩年の居城です、8年間にわたり使われましたが、政宗の死後、遺言により、堀一重を残し、廃され、周辺が古城と呼ばれました

静かな住宅街を抜け、区役所方面にもどります

「鞍配堀」でしょうか、今も活躍しています

一部暗渠となっている”七郷堀”を越えて区役所にもどりました

参考資料・引用

「辻標」 仙台市文化財パンフレット第三十五集 編集発行 仙台市教育委員会文化財課

「仙台城下の町名由来と町割」定価1,500円(税別) 著者 古田義弘 発行所 本の森

 

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仙台城下町”辻標”八十八か所巡り㉛ 32番辻標「江戸町(えどまち)/坊主町(ぼうずまち)」周辺を街探

2024年12月03日 | 仙台城下辻標八十八か所巡り

 街探”辻標”八十八か所巡り、「大崎八幡宮」周辺の第3弾は、32番辻標「江戸町(えどまち)/坊主町(ぼうずまち)」周辺を街探しました。今は暗渠となっているあの四ツ谷用水がすぐ目の前に!

大崎八幡宮の大鳥居を過ぎてすぐ、

郷六方面から続く四ツ谷用水に架けられた橋から右手を見ます

民家の境の中を通っているので上から暗渠を眺めるだけですね、迂回しながら32番辻標を目指すとマンションの入り口付近にありました

「江戸町(えどまち)」

仙台開府の頃、江戸の大工がこの周辺に住み、職人町となりました、出身地江戸にちなんで江戸町と称されます。同じように、すぐとなりには石切町があり、石工が多く住んでいました

「坊主町(ぼうずまち)」

八幡町の北側が坊主町、もともとは亀岡八幡宮の周辺を住まいとしていた坊主衆が龍宝寺の東に移されてきて形成された町 坊主とは、藩政時代、城内の案内や接待等に奉仕、自ずと礼儀作法にも通じていました

さらに東に進むと、見落としそうな「仙塩工業用水道導水路」という看板があり

これが現在の四ツ谷用水で、かつての生活用水から工業用水としての役目を果たしています

「四ツ谷用水」本流跡の標柱も見えました

さらに東に続きます

この先、春日神社周辺で四ツ谷用水は、へくり沢と交差し、さらに東へ向かい、仙塩工業エリアの工業用水として重要な役割を担っています 

へくり沢周辺を歩いたブログは こちらです

 

参考資料・引用

「辻標」 仙台市文化財パンフレット第三十五集 編集発行 仙台市教育委員会文化財課

「仙台城下の町名由来と町割」定価1,500円(税別) 著者 古田義弘 発行所 本の森

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仙台城下町”辻標”八十八か所巡り㉚ 85番辻標「伊勢堂下(いせどうした)/半子町(はんこまち)」周辺を街探

2024年11月08日 | 仙台城下辻標八十八か所巡り

街探”辻標”八十八か所巡り、「大崎八幡宮」周辺の第二弾、85番辻標「伊勢堂下(いせどうした)/半子町(はんこまち)」周辺を街探しました。幕末、仙台藩で唯一、新政府軍に抵抗して孤軍奮闘した細谷十太夫の菩提寺を訪ねることができました

細谷十太夫が着用し、からす組と呼ばれ復元された陣羽織が、東北歴史博物館に展示されているのを思い出し、後日、東北歴史博物館にやってきました。奥には、奥羽越列藩同盟の旗が展示されています

「半子町(はんこまち)」は、北八番丁と土橋通の北西に町割りされた旗本足軽屋敷です。

後に、足軽衆の中から大筒組に取り立てられるものもいて、町名の由来はこの大筒組が後髪を残す剃り方「半髪(はんこう)」に由来しています

通りには、円形の山門が特徴の寿徳寺があり、旧半子町のランドマーク的存在。

「伊勢堂下(いせどうした)」は、伊達政宗が伊勢神宮の両宮を分霊を勧請し、神明社をこの地に建立し、伊勢堂山と命名したことに由来しています

伊勢堂下の通りを下ると、竜雲院に突き当たります、名だたる人々が墓所としていて

特に、あの「海国兵談」を表した林子平、幕末、新政府軍を震撼させた「からす組」で有名な細谷十太夫の墓があります

お寺の左側にお堂ともに林子平のお墓があります

 

その手前に細谷十太夫の墓があり、幕末の激動期を乗り切り、明治維新後も北海道の開拓や日清戦争にも従軍、ここ龍雲院の住職となり、戦没者を弔いました。

幕末の動乱期に、百姓、町人、さらには渡世人などを糾合し、官軍に戦いを挑む十太夫の奮闘ぶりを作家大佛次郎著「細谷十太夫 からす組(上下)」(徳間文庫刊)でいきいきと甦ります。細谷十太夫をメインキャラクターにした映画、ドラマは確認できませんでしたが、これだけの人物はなかなかいません、是非映像化してほしいものです

龍雲院の側、和菓子の「子平堂」さんが頑張って営業中でした、子平まんじゅうをお土産に帰宅しました

参考資料・引用

「辻標」 仙台市文化財パンフレット第三十五集 編集発行 仙台市教育委員会文化財課

「仙台城下の町名由来と町割」定価1,500円(税別) 著者 古田義弘 発行所 本の森

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仙台城下町”辻標”八十八か所巡り㉙ 仙台城下の西端「大崎八幡宮」周辺を街探

2024年10月01日 | 仙台城下辻標八十八か所巡り

今年の夏は暑かったですね・・・6月以来控えていた街探”辻標”八十八か所巡り、再開です。

大崎八幡宮の大鳥居の左隅に、目立ちませんが、60番辻標「八幡町(はちまんまち)/作並街道(さくなみかいどう)」が設置されています。

「八幡町(はちまんまち)」は、桃山時代の様式の国宝大崎八幡宮(慶長12年落成)の門前町、伊達政宗の仙台城下の町割りの西端に位置し、歴史ある町並みです、かつては市電が八幡宮前までのびていました

しばらくぶりに社殿に向かいます、手前の橋は、四谷用水の上にかけられています 

よく整備された参道で、外国人観光客もちらほら

七五三のお参りですね

数年前から舞台ができて、タイミングが合えば、神楽が奉納される場面に遭遇できるかも。

鶏が5羽放し飼いされていますが、実は、神社と鶏は深い関係にあり、神社の入り口に建つ門を”鳥居”というように、神様からのお使いでもあったということです

「作並街道(さくなみかいどう)」は、仙台城下の北目町から愛子、熊ヶ根、作並を通り、関山峠を越えて山形に至る道でした、峠は急峻で馬も通れず「嶺渡り」という難所でもありました

以前作並街道(関山街道)の歴史散策したときのブログは こちらです

大鳥居の前から牛越橋方面に下り降りる途中の来迎寺入口に、21番辻標「北五十人町(きたごじゅうにんまち)/滝前丁(たきまえちょう)」が設置されています

「北五十人町(きたごじゅうにんまち)」は、来迎寺前から東の角五郎表町につながる町で、古くは旗本足軽五十人衆が住んでいました、今は閑静は住宅街ですね

「滝前丁(たきまえちょう)」 かつて、八幡宮の西北にあった観音堂の大きなため池から、流れ落ちる滝のような川の流れが広瀬川にそそいでいました、滝のほとりにある町で、滝前丁(たきまえちょう)と称されました

作並街道を少し進むと、鶏橋が架けられています、ここが鶏沢の滝です。川のようですが、よく見ると、急峻な崖で広瀬川にそそぐあたりは、落差のあるちいさな滝のようです、機会があれば、広瀬川への注ぎ口を確認してみようかと思います

作並街道を進むとお馴染みの40番辻標「唸坂(うなりざか)/山上清水(さんじょうしみず)」が設置されています

「唸坂(うなりざか)」

仙台城二の丸造営のとき、国見峠付近から石材を牛にひかせてこの坂を下り川内まで運びました。この山上清水付近におりる急峻な坂を牛は唸りながら下り下りたという話。

「山上清水(さんじょうしみず)」

この辺は、崖からしみ出る清水がいたるところから湧き出て、名水”山上清水”が地名にもなりました。八幡宮門前の茶屋町でもあった理由がわかります。また山際には、四ツ谷堰の源となる水路があります。弘法大師がこの地を訪れ、錫杖を尽きたてたところ清水が湧き出たとする伝説も残っており、近くに弘法山、そして弘法大師堂が建てられています

弘法山、弘法大師堂など、以前周辺を歴史散策したブログは こちらです

参考資料・引用

「辻標」 仙台市文化財パンフレット第三十五集 編集発行 仙台市教育委員会文化財課

「仙台城下の町名由来と町割」定価1,500円(税別) 著者 古田義弘 発行所 本の森

 

 

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仙台城下町”辻標”八十八か所巡り㉘ 大きく変貌した仙台駅東口に藩政時代の記憶

2024年06月12日 | 仙台城下辻標八十八か所巡り

 仙台駅から北東へ歩いて15分ほど、鉄砲町和光公園内に、51番辻標「鉄砲町(てっぽうまち)/明神横丁(みょうじんよこちょう)」が設置されています。

「鉄砲町(てっぽうまち)」は、藩政時代、城下の東口に位置し、鉄砲足軽組が置かれたことに由来、二十人町の北側、小田原車町からかつて榴ヶ岡にあった釈迦堂下までを鉄砲町と呼んでいました、総勢百四十人近い足軽が居住し、それぞれ組ごとに屋敷割され、信仰する神社を中心に結束をはかっていました

東口の再開発で大きく変貌しましたが、ここ鉄砲町和光公園は、神社と共に地域に親しまれています

「明神横丁(みょうじんよこちょう)」は、鉄砲町と二十人町を南北に結んでいる横丁名で、グーグルマップにも表示されます、大坂の陣から凱旋した鉄砲町の足軽が町内の守り神とし勧進した和光明神がのちに和光神社と改められ、横丁に明神の名が残されました

公園の西端には、アンティーク雑貨カフェ 「TiTi(ティティ)」があります

「TiTi(ティティ)」を訪問した時のブログは こちらです

 

参考資料・引用

「辻標」 仙台市文化財パンフレット第三十五集 編集発行 仙台市教育委員会文化財課

「仙台城下の町名由来と町割」定価1,500円(税別) 著者 古田義弘 発行所 本の森

 

 

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