「白秋」に想ふ―辞世へ向けて

人生の第三ステージ「白秋」のなかで、最終ステージ「玄冬」へ向けての想いを、本やメディアに託して綴る。人生、これ逍遥なり。

感性に裏付けられた理性―『沈黙の春』<再読>、映画《レイチェル・カーソンの感性の森》

2011年03月06日 | Ecology
☆『沈黙の春』(レイチェル・カーソン・著、新潮文庫)<再読>、映画《レイチェル・カーソンの感性の森》(クリストファー・マンガー・監督、カイウラニ・リー・脚本・出演)☆

  『沈黙の春』を初めて読んだのはいつだったのか、ほとんど記憶にない。後付けを見ると「昭和五十三年五月十日八刷」とある。物理学や天文学に対する興味を持ち続けながら、生態学や環境問題にも関心を深め始めていた時期だ。『沈黙の春』を手に取ったのも、そんな流れの中でのことだったのだろう。
  少し思うところがあって、『沈黙の春』をざっと読みなおしてみた。DDTなどの農薬使用に対する警告の激しさに、あらためて驚かされた。警告は著者レイチェル・カーソンの単なる推測に基づいたものではない。広範に資料を収集し、科学的な根拠で裏付けられている。その広さと深さにも、あらためて目を見張った。
  『沈黙の春』は化学物質の無制限な使用に警鐘を鳴らしたが、警告や批判だけで終わってはいない。農薬などによる化学的防除に代わる、生物学的防除による「別の道」も提言している。天敵による害虫の駆除は、農薬に頼らない生物学的な防除の典型的な例といえるだろう。カーソンは自然と人間との関係を生態系の中で捉えていた。農薬などの化学物質の使用は、人間の自然に対する傲慢さの表れとカーソンは見ていた。しかし、生物学的な防除は、正常な生態系の枠内での関係性として認識していたのだろう。



  そんな折、「レイチェル・カーソンの感性の森」という劇映画が上映されると聞いた。カーソンには『センス・オブ・ワンダー』という叙情的なネイチャー・エッセイの作品がある。「感性の森」というタイトルから、自然描写を主とした『センス・オブ・ワンダー』のような映画を勝手に想像していた。ところが実際に観たところ、『沈黙の春』の執筆を終え、ガンを患いながら晩年―といっても、50代半ば―を迎えたカーソンが自らの生涯を振り返りながら、『沈黙の春』や『センス・オブ・ワンダー』に込められたメッセージを独白形式で(カメラに向かって)語りかける内容だった。
  カーソンを演じたカイウラニ・リーは『センス・オブ・ワンダー』の一人芝居を世界各地で演じ続けている女優だとのこと。日本でも先年、愛知万博で上演されたという。この作品は、彼女の一人芝居の映画版といったところなのだろう。実際のカーソンの晩年の写真を見たものとしては、リーはややふくよかな感じがして少々違和感があった。
  カーソンはモナーク蝶を見て自らの死を想ったといわれているが、映画にもこのシーンが出てくる。この話を知らない人にとっては、このシーンの意味するところがよく理解できなかったかもしれない。その意味では、カーソンや彼女の作品について予備知識があった方が良いように思う。とはいえ、カーソンのことを何も知らない人が観るとも思えない。たまたまなのかもしれないが、観客のほとんどが自分以上の年代の人たちで、20代や30代の若い人はごくわずかだったようだ。何らかのかたちでカーソンや『沈黙の春』などについて知り、思うところがある人たちなのだろうか。
  「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要ではないのです―カーソンの言葉である。映画のチラシにも引用されている。この言葉の意味するところは深い。一方で非常に誤解を招きやすい言葉でもある。人間は自然の中に身を置くことで、自然との関係性を体感する。これは感性の働きといっても良いだろう。人間は一方で、理性や言葉によって自然や環境を理解し、自らの世界を構築してきた。科学はこの最たる営みである。しかし、理性や科学の偏重は人間の傲慢さを助長し、社会にさまざまな歪みを生じさせてきた。環境問題もその一つである。
  『沈黙の春』は生態系の重要性や農薬の危険性を「知る」ことに焦点が当てられているように見える。しかし『沈黙の春』の底には、『センス・オブ・ワンダー』のような「感じる」ことの重要性を説くカーソンの思想が流れている。科学者であるカーソンは「知る」ことの重要性を十分に認識していたはずである。それでも「感じる」ことの重要性を強調した背景には、幼少時から親しんできた自然体験をもとにして、科学技術による自然破壊を食い止める術を感性の働きに求めたからのように思える。
  人間と自然との共生を願うカーソンの思いと、科学的な緻密さを蔑ろにしない科学者としてのカーソンの姿を、『沈黙の春』の中にあらためて見た。映画「レイチェル・カーソンの感性の森」はカーソンのメッセージを観客にどの程度伝えられたのか疑問に思うところもある。しかし、いまの時代に、カーソンを振り返る一つのきっかけを作ってくれているようには思う。レイチェル・カーソンはけっして過去の人ではない。いまもレイチェル・カーソンの現代的意義が問い直されている。

  

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