お城へ行こう!

気ままなお城めぐりの旅の記録と写真を公開しています。

大和高田城

2013-10-27 07:19:06 | 奈良県
 大和高田城

2013/10/12

奈良県大和高田市のお城めぐり

 大和の有力豪族高田氏の居城

≪ お城の概要 ≫

城名: 大和高田城
よみ: ヤマトタカタ
別称: 高田城
所在地: 奈良県大和高田市旭北町
現状: 常光寺
築城年代: 室町時代初期
築城者: 高田兵庫頭為貞
形式: 平城
遺構:
規模: 約200m四方
文化財:
訪城日: 2013/10/12


≪ 訪城記 ≫

高取城から大和高田城へ向かう。

壺阪寺南側の駐車場を出て県道119号を戻り、清水谷三叉路信号を右折、国道169号中街道を北上、小房交差点信号を左折、近鉄橿原線の陸橋を登り、頂点で側道に降りて、すぐ陸橋下四条町西信号を右折、陸橋をくぐったらすぐに左折、国道166号を西進、曲川町東の橿原バイパス交差点を直進、今里交差点信号を右折、次の旭北町信号を直進すると左側に大きな池がある。池の北終わりを左折、西進した突き当りを左折、道の東側が片塩小学校で片塩小学校内に車を駐車させてもらう。

片塩小学校西側の道を南に歩くと、すぐの突き当りの空き地が大和高田城跡で常光寺の北側になります。
空き地の中央に高田城趾碑と説明板があり、南側の常光寺内に中世高田城主當麻三河守為長公の墓があります。
この常光寺から東側の池あたりまでが城跡のようです。
ちなみに常光寺の説明板によると「八百屋お七」のモデルとなった「しち」の墓があったそうです。


≪ 歴 史 ≫

室町時代初期に高田(當麻氏)兵庫頭為貞によって築かれる。
文安四年 (1447) 越智、古市、布施氏に高田城を攻められる。
永禄十一年 (1568) 布施氏に高田城を攻められる。
天正八年 (1580) 織田信長の一国破城令に従わず、筒井順慶に攻められる。
天正十一年八月 (1583) 筒井順慶に攻められ、高田城主一族は滅んだ。


≪ 写 真 ≫


常光寺北側の空き地


高田城趾碑


常光寺


常光寺にある高田三河守為長公の墓

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR桜井線高田駅から徒歩約10分。
<車>
南阪奈道路葛城ICで降りて国道24号大和高田バイパスを東進、東室交差点信号を左折、国道166号下街道を北上、近鉄南大阪線ガード下をくぐり片塩ロータリー三叉路信号を右折、今里交差点信号を左折、次の旭北町信号を直進すると左側に大きな池がある。池の北終わりを左折、西進した突き当りを左折、道の東側が片塩小学校で車を駐車させてもらうと良い。


≪ 位置図 ≫

大和高田城


紹介したお城の数 142城



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クリエーター情報なし
ニコン

高取城

2013-10-26 08:15:56 | 奈良県
 高取城

2013/10/12

奈良県高取町のお城めぐり

 標高583mの山頂に築かれた石垣造りの山城 日本三大山城 日本100名城

≪ お城の概要 ≫

城名: 高取城
よみ: タカトリ
別称: 芙蓉城・鷹取城・高取山城
所在地: 奈良県高市郡高取町高取
現状: 山
築城年代: 南北朝時代
築城者: 越智氏
形式: 山城
遺構: 本丸・二の丸・三の丸・壺坂口郭・吉野口郭・天守台跡・国見櫓跡・十三間多聞跡・十五間多聞跡・太鼓櫓跡・新櫓跡・大手門・壺坂口門・壺坂口中門・吉野口門・二の門・千早門・宇陀門・松ノ門・矢場門・石垣・井戸・堀切・水堀
規模: 狭義の城内400m×540m、広義の城域1.5km×1.6km、標高583m、比高390m
文化財: 国指定史跡
訪城日: 2012/9/25・2013/10/12


≪ 訪城記 ≫

自宅から高取城に向かう。

自宅を出て国道8号を南下、彦根市に入り外町交差点信号を左折、国道306号を名神高速彦根IC方向へ向かい、名神高速に乗らず、そのまま道なりに国道306号を南下、多賀交差点信号を直進、国道307号を南下、日野町に入り日田交差点信号を直進、日野水口グリーンバイパスを通り、国道1号の高架下をくぐり、そのまま南下、山川橋交差点信号を直進、野洲川に沿って西進、水口に入り水口大橋北詰信号を左折、野洲川を渡り南下、信楽を通り過ぎ、京都府に入る。国道307号のまま山の中を西進、郷之口下町三叉路信号を左折、山城大橋東詰交差点信号を左折、木津川沿いの国道24号を南下、木津IC横を抜けると奈良県に入る。そのまま国道24号を南下、途中に平城宮跡を右手に見ながら道が大きく曲り、そのまま奈良バイパスを南下、郡山ICを過ぎたあたりから京奈和道に入り、橿原インターを降りてそのまま南下、曲川町東交差点信号を左折、国道166号下街道を東進、小房交差点信号を右折、国道169号中街道を南下、清水谷三叉路信号を右折、県道119号を山の中へ登っていくと壺阪寺へ着く。道沿いの壺阪寺南側にお里茶屋跡があり、その道沿いに駐車場がある。ここに車を駐車させてもらう。

ここから徒歩で舗装路を約700m登ると壺阪峠があり、峠の三叉路を左折、山の中へさらに入って行く。約1.8km歩くと道の右側に壺坂口へ入る登城道があり、大きな説明板が建っている。ここまで約40分。
壺坂口への登城口を入るとすぐに右側に石垣が残る段々曲輪跡、壺坂口門跡、壺坂口中門跡を通り、三の丸、二の丸の苔むした石垣の間を通り、大手門の石垣、十三間多聞櫓跡の桝形虎口を通って二の丸へ、二の丸へ入ると東側に新しく積みなおした太鼓櫓と新櫓の石垣が目に入る。この櫓前に高取城の沿革が書かれた説明板が建っている。
十五間多聞櫓跡から入り、東側奥に本丸跡の素晴らしい天守台高石垣がそびえている。この前に高取城址碑が建っている。
本丸の桝形虎口を入り、広い本丸跡へ出る。北西隅に天守台跡がある。本丸の石垣を堪能した後、大手門に帰り、芋峠方面へ降りていくと、井戸跡が二か所あり、北側斜面の石垣群が、さらに吉野口門跡まで行くと大きなみろく堀切が見られる。
もう一度、大手門まで帰り、二の門方面へ向かう。まず千早門跡、宇陀門跡、松ノ門跡、矢場門跡、国見櫓跡、そして二の門跡へ着く。二の門跡には山城に珍しい水堀に現在でも水が満ちている。また引き返し、二の丸の新櫓西側から降りると井戸跡と石垣が見られる。
日本三大山城の石垣を十分に堪能させてもらった。


高取城の詳細は ……… ここをクリック

≪ 歴 史 ≫

越智氏が南朝方で活躍した時期に高取山に砦を築いたのが始まりです。
天文元年 (1532) 南都の一向一揆に追われた興福寺僧徒や国衆が高取城に立て籠もり、一揆勢を撃退する。
天正八年 (1580) 織田信長の一国破城令で高取城も破却される。
天正十二年二月 (1584) 筒井順慶が高取城を復興するも同年八月死去、定次が跡を継ぐ。
天正十三年 (1585) 筒井定次が伊賀へ移され、豊臣秀長が入国、高取城には脇坂安治、次いで本多正俊が入る。
天正十七年 (1589) 秀長の命で本格的工事が始まる。
文禄四年 (1595) 秀長の養子秀保が亡くなり増田長盛が入国、高取城はそのまま本多氏が残る。
寛永十七年 (1640) 本多氏が断絶後、植村家政が入り、幕末まで植村氏の高取藩が続く。


≪ 写 真 ≫


壺坂口門跡への入口


壺坂口門跡への入口すぐの石垣


壺坂口門跡


壺坂口中門跡


二の丸と三の丸の間の石垣通路


大手門


大手門から二の丸への虎口


十三間多聞跡の虎口


二の丸


高取城址碑


天守台高石垣


太鼓櫓と新櫓


本丸高石垣


本丸


天守台


吉野口の井戸


吉野口の石垣


吉野口門跡


みろく堀切


千早門跡


宇陀門跡


松ノ門跡


松ノ門跡の石垣


矢場門跡


国見櫓跡


二の門跡


二の門跡の水堀


二の丸南斜面の井戸


二の丸南斜面の石垣


現地案内板地図(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
近鉄吉野線壺阪山駅から奈良交通バスで壺阪寺前下車、徒歩約40分。
<車>
南阪奈道路葛城ICを降りて国道24号大和高田バイパスを東進、四条ランプ南を直進して小房交差点信号を右折、国道169号中街道を南下、清水谷三叉路信号を右折、県道119号を山の中へ登っていくと壺阪寺へ着く。道沿いの壺阪寺南側にお里茶屋跡があり、その道沿いに駐車場がある。


≪ 位置図 ≫

高取城


高取城壺坂口門跡への入口


紹介したお城の数 141城



日本100名城公式ガイドブック―日本の文化遺産「城」を見に行こう (歴史群像シリーズ)
福代徹,日本城郭協会
学習研究社

小泉城

2013-04-02 22:08:48 | 奈良県
 小泉城

2013/3/23

奈良県大和郡山市のお城めぐり

 小泉氏の居城跡に片桐且元の弟貞隆が構えた陣屋

≪ お城の概要 ≫

城名: 小泉城
よみ: コイズミ
別称: 小泉陣屋・小泉館・片桐城
所在地: 奈良県大和郡山市小泉町
現状: 高林庵・住宅街・小公園・小泉神社
築城年代: 室町時代、陣屋は元和九年(1623)
築城者: 小泉氏・片桐貞隆
形式: 平城
遺構: 復興隅櫓・移築城門
規模: 620m×500m(外郭)
文化財:
訪城日: 2013/3/23


≪ 訪城記 ≫

大和郡山城から小泉城へ向かう。

郡山城ホール前の三叉路を左折、すぐの近鉄橿原線踏切を渡り、大和郡山城を左手に見ながら西進、県道9号を道なりに南下する。県道249号大和中央道を横断して西へ進み、富雄川を渡り、アップダウンのある道を約700m行くと交差点信号の右側にコーナンがある。ここの駐車場に車を駐車させてもらう。

ここから徒歩でコーナン前の交差点を斜め右、東へ約60mで南へ路地を入って行くと池があり、この池沿いの対岸に櫓風の建物が見られる。この建物群は片桐且元の弟貞隆が起こした小泉藩代々の居城跡で、現在は石州流茶道宗家の居宅「高林庵」で子孫の方が住まれているようです。
池の終わりで左折し、住宅街の中を東へ約200m進むと、突き当りを左折、すぐに右折すると小泉城址碑のある小公園に着きます。この公園に城址碑と説明板があり、さらに東へ降りる階段があり、この位置が小高い丘の上だとわかります。階段を下りた路地を進むと県道123号に出ますが、この角の片桐城址碑がひっそりとあります。
小公園から来た道を帰り、池の西側の道を約200m南下すると小泉神社があり、この神社の南からの入り口に小泉城の移築城門があります。


≪ 歴 史 ≫

十五世紀末に奈良興福寺の衆徒についた小泉氏の城郭化した居館で長禄三年(1459)に小泉館を筒井順永んい攻められ、城を破却される。文明七年(1475)にも落城し、破却されている。
天文年間には小泉秀元が筒井順昭の姪を娶り、筒井氏に属する。
天正八年 (1580) 羽田長門守が陣屋を置く。
慶長六年 (1601) 片桐且元の弟貞隆が大名に列し、元和九年(1623)に小泉に入部して陣屋を構える。


≪ 写 真 ≫


櫓風の高林庵


小公園の小泉城址碑


片桐城址碑


小泉神社の移築城門

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR関西本線大和小泉駅より徒歩約10分。
<車>
西名阪道大和まほろばスマートICを降りて県道108号大和中央道を北上し、県道9号と交差する信号を左折、西へ進み、富雄川を渡り、アップダウンのある道を約700m付近の高林庵と住宅街が小泉城跡で駐車場はない。


≪ 位置図 ≫

高林庵


小泉城址碑のある小公園


小泉神社


紹介したお城の数 49城



ビジュアル百科 日本の城1000城 1冊でまるわかり!
大野 信長,加唐 亜紀,有沢 重雄
西東社

大和郡山城

2013-04-01 21:23:10 | 奈良県
 大和郡山城

2013/3/23

奈良県大和郡山市のお城めぐり

 秀吉の弟豊臣秀長100万石の居城

≪ お城の概要 ≫

城名: 大和郡山城
よみ: ヤマトコオリヤマ
別称: 郡山城
所在地: 奈良県大和郡山市城内町2-18
現状: 柳澤神社・柳澤文庫・郡山高校・郡山城跡公園
築城年代: 天正八年(1580)
築城者: 筒井順慶
形式: 平城
遺構: 天守台・本丸・二の丸・三の丸・曲輪・石垣・内堀・櫓台跡・極楽橋跡・復元大手門(梅林門)・復元大手向櫓・復元多聞櫓・復元大手東隅櫓
規模: 625m×490m、標高(天守台)80m、比高30m
文化財: 奈良県指定史跡
訪城日: 2011/6/27・2013/3/23


≪ 訪城記 ≫

筒井城から大和郡山城へ向かう。

キリン堂駐車場から県道108号を北上、北郡山交差点信号を左折、約300mで城跡が前方左に見え、三叉路を左に郡山城ホール側に曲がり、約300mの交差点を右折して近鉄橿原線の踏切を渡ると鉄門跡の石垣が出迎えてくれる。鉄門跡を過ぎてすぐに内堀が見え、細い路地になった三叉路を右折、内堀沿いに北上すると大手門前に5~6台くらい駐車できる無料駐車場がある。ここに車を駐車させてもらう。

来る途中に見た大手東隅櫓と満開の桜が綺麗だったのが気になり、城山城ホール前の歩道から線路沿いに見る大手東隅櫓を最初に見に行きました。
大手門前に駐車場に戻り、内堀の石垣に見とれ、大手向櫓と大手門を見上げ見とれてしまいました。
大手門をくぐり虎口を抜けて、西側には古い図書館跡の洋館があり、その裏に先ほどの大手東隅櫓があります。
洋館裏手の北側には高い土塁跡と深い空堀跡があります。この土塁ずたいに西へ行くと本丸堀沿いに散策路があり、堀越に天守台跡を眺められ、深い水堀と高い石垣に感動します。
ぐるっと一周すると郡山高校前に出て、高校前に堀に架かった竹林橋があり、入り口に鳥居があり、橋を渡って柳澤神社へ、この神社の裏側に天守台跡があります。以前来たときには天守台の上に登れたのですが、今は封鎖されて登れません。この天守台の北側の石垣にはお地蔵さんの石が多く使われていて、特にさかさに埋められた「さかさ地蔵」が祀られています。
竹林橋の入り口を右手に門をくぐって柳澤文庫へ行く堀沿いに極楽橋の架かっていたところがあり、そこから見える本丸側の橋の石垣は必見です。
郡山高校前の道を西へ行くと松蔭門跡の石垣があり、北側を見ると松蔭堀があり、ここの石垣は整然としていて見ごたえがあります。
松蔭門の西、道の突き当りの郡山城跡公園があり、南に行くと右側に鰻池が、左側に鷺池があり、この鷺池から高校の敷地に櫓台跡の石垣が二か所見られます。


≪ 歴 史 ≫

室町時代後期に郡山衆と称される武士団の居館が大和郡山城付近に点在していたようで、筒井氏と越智氏の争いで居館が城郭化、永正期の赤沢朝経の来襲や永禄期の筒井・松永氏の抗争で郡山城が筒井方の最後の城だったようです。
天正五年 (1577) 松永久秀が信貴山城で自害し、筒井順慶が大和一国を手に入れる。
天正八年 (1580) 筒井順慶が織田信長から大和一国の支配を許され、郡山城以外の城を破却し、郡山城に入城、築城工事を行う。
天正十年 (1582) 本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれ、中国攻めから大返しをした羽柴秀吉との天下分け目の戦いに筒井順慶は明智光秀から出陣を求められたが郡山城に籠城したまま動かなかった。これが日和見の語源となった「洞ヶ峠」です。こののち秀吉から大和一国を安堵される。
天正十一年四月 (1583) 天守が完成する。
天正十二年八月 (1584) 順慶が二十八歳の若さでこの世を去り、小泉氏から養子に入った定次が跡を継ぐ。
天正十三年 (1585) 定次が伊賀国に転封となり、秀吉の異父弟豊臣秀長が入城し、大規模な改修を行い、城下町の整備も行う。
天正十九年 (1591) 秀長が没し、養子の秀保が跡を継ぐが文禄四年(1595)に急死し、代わって五奉行に一人増田長盛が入城する。
慶長五年 (1600) 関ヶ原の戦いで西軍に属した増田長盛は改易され、郡山城には大久保長安、山口駿河守、筒井主殿が入れ代わり在番する。
元和元年 (1615) 大坂夏の陣後、水野勝成が入城し、城を復旧する。以後、松平氏、本多氏と続く。
享保九年 (1724) 甲府から柳澤吉里が入り幕末まで居城とする。
昭和五十五年 (1980) 追手門、向櫓、多聞櫓が復元される。


≪ 写 真 ≫


桜と大手東隅櫓


大手向櫓


大手門(梅林門)


鉄御門跡


内堀と石垣


洋風の図書館跡


北側の空堀


内堀と天守台


竹林橋


柳澤神社


天守台跡


さかさ地蔵


極楽橋跡の石垣


柳澤文庫


松蔭堀と石垣


鷺池西の櫓台跡


鷺池東の櫓台跡

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
近鉄橿原線近鉄郡山駅より徒歩約7分。
<車>
西名阪道郡山ICを降りて国道24号奈良バイパスを北上し、横田町交差点信号を左折、国道25号を西進、筒井町交差点信号を右折、県道108号を北上、北郡山交差点信号を左折、約300mで城跡が前方左に見え、三叉路を左に郡山城ホール側に曲がり、約300mの交差点を右折して近鉄橿原線の踏切を渡ると鉄門跡の石垣が出迎えてくれる。鉄門跡を過ぎてすぐに内堀が見え、細い路地になった三叉路を右折、内堀沿いに北上すると大手門前に5~6台くらい駐車できる無料駐車場がある。


≪ 位置図 ≫

天守台(柳澤神社)


大手門


紹介したお城の数 48城



日本の城 (山川Mook 1)
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山川出版社

筒井城

2013-03-29 21:57:22 | 奈良県
 筒井城

2013/3/23

奈良県大和郡山市のお城めぐり

 織田信長に大和一国の支配を任された筒井氏の本城

≪ お城の概要 ≫

城名: 筒井城
よみ: ツツイ
別称:
所在地: 奈良県大和郡山市筒井町
現状: 畑・住宅街・菅田比売神社・八幡宮
築城年代: 永享元年(1429)
築城者: 筒井順覚
形式: 平城
遺構: 堀跡・井戸跡
規模: 570m×380m
文化財:
訪城日: 2013/3/23


≪ 訪城記 ≫

滋賀県の北から奈良県へ行くには、高速道路を通って行くルートと、一般道を通って行くルートを比較すると、所要時間がほぼ同じで高速道路の通行料金が余分に必要になり、無駄な出費だと思うので一般道を選択しました。

大津市まで湖岸道路を通り、瀬田唐橋を渡り、唐橋西詰信号を左折して、瀬田川沿いの国道422号を南下、鹿跳橋西詰を直進し県道3号を瀬田川沿いに進み、瀬田川に架かる曽束大橋を渡って右折して県道3号を進み、宇治川と合流する地点の宵待橋を渡ったところを左折、県道62号を南下し、郷之口下町三叉路信号を直進して国道307号を南下、木津川に架かる山城大橋の山城大橋東詰交差点信号を左折して国道24号を木津川沿いに南下する。道なりに国道24号を進み奈良県に入り、奈良バイパスを大きく右に曲がり、今度は平安京を右手に見ながら大きく左に曲がり、そのまま道なりに南下、横田町交差点信号を右折して約1.4km西進した筒井町交差点信号を右折、約150m北進した道路西側にある八幡宮の駐車場に駐車させてもらおうと思っていたが、駐車場がいっぱいだったので、もう少し北に行ったキリン堂の駐車場に車を止めさせてもらいました。

キリン堂から道路沿いに南へ少し行ったところで、路地を西へ入り、突き当りを右折、北上すると三叉路の真ん中に小さな社のがあり、そこを左折すると菅田比売神社がある。さらにこのまま西へ進むと変速三叉路を左折した住宅街と畑の間でたくさんの人が寄っているところがあり、なんだろうと近寄ると、なんと筒井城の発掘調査の見学会をしているではないか。
偶然にも見学会の日に筒井城を訪問、ちゃっかり資料をもらって井戸跡と2条の堀跡を見学させてもらった。堀跡には「かわらけ」がたくさん出土した状況も見させてもらった。
この場所が筒井城の本丸跡だそうです。
さらに少し南に行くと溜池と畑の境に西へ行く畑道があり、この道が住宅地に入る住宅角に筒井城址碑が建っています。
あと八幡宮の東奥に「筒井順慶公碑」が建てられていて、その横に由来の石碑もあります。


≪ 歴 史 ≫

永享元年 (1429) 大和国の豪族筒井氏の筒井順覚の代で筒井城が初めて文献に登場する。
永享六年 (1434) 越智氏に筒井城を攻められる。
文安元年 (1444) 越智氏に筒井城を攻められる。
文安四年 (1447) 古市氏に筒井城を攻められる。
文明九年 (1477) 応仁の乱が終り、筒井氏が没落し筒井城を自ら焼き払う。
文明十五年 (1483) 越智氏の家臣堤氏が筒井城に入る。
明応六年 (1497) 越智氏を破り、筒井氏が所領を回復する。
その後、赤沢朝経、柳本賢治、木沢長政らが大和へ侵入する。
筒井順昭の代に大和をほぼ平定するが天文十九年(1550)に亡くなり、跡を継いだ順慶は幼いため叔父の順政が後見人となる。
永禄二年 (1559) 松永久秀が大和へ侵入し、筒井城を奪われる。
永禄九年 (1566) 松永久秀から筒井城を奪い返すも永禄十一年(1568)の織田信長上洛時に松永久秀が信長の配下となり、ふたたび城を奪われる。
元亀二年 (1571) 辰市の戦いで松永勢に勝利し、ふたたび城を奪い返す。
天正四年 (1576) 順慶が織田信長より大和の支配を任される。
天正五年 (1577) 松永久秀が織田勢に攻められ、信貴山城で自害する。
天正八年 (1580) 信長の大和一国破城令により郡山城を残して全ての城を破却し、筒井城も破却される。


≪ 写 真 ≫


筒井城址碑


筒井城本丸発掘現場


発掘現場の堀跡


発掘現場の井戸跡


八幡宮


八幡宮にある筒井順慶公の碑

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
近鉄橿原線筒井駅より徒歩約5分。
<車>
西名阪道郡山ICを降りて国道24号奈良バイパスを北へ約600mの横田町交差点信号を左折、約1.4km西進した筒井町交差点信号を右折、約150m北進した道路西側にある八幡宮の駐車場が近い。


≪ 位置図 ≫

筒井城址碑


本丸跡発掘場所


八幡宮


紹介したお城の数 47城



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大野 信長,加唐 亜紀,有沢 重雄
西東社