お城へ行こう!

気ままなお城めぐりの旅の記録と写真を公開しています。

伴野城

2013-05-30 05:07:59 | 長野県
 伴野城

2013/5/3  信州北部遠征(3泊4日)

長野県佐久市のお城めぐり

 高く立派な土塁が残る伴野氏の居城

≪ お城の概要 ≫

城名: 伴野城
よみ: トモノ
別称: 野沢城・伴野館
所在地: 長野県佐久市野沢
現状: 城山公園・大伴神社
築城年代: 鎌倉時代
築城者: 伴野六郎時長
形式: 館
遺構: 土塁・堀・櫓台・土橋
規模: 80m×110m
文化財: 県指定史跡
訪城日: 2013/5/3


≪ 訪城記 ≫

信州北部遠征(3泊4日)  初日、龍岡城から伴野城へ向かう。

五稜郭であいの館駐車場を出て来た道を逆に戻る。龍岡橋南信号を右折、次の三叉路を左折、三分三叉路信号を右折、JR八ヶ岳高原線踏切を渡り、大きく左に曲がったら臼田駅前信号を右折、千曲川を渡り、城山北三叉路信号を右折、国道141号臼田バイパスを北上し、野沢西交差点信号を右折、県道145号を東へ進み、野沢本町交差点信号を右折、約200m南下した路地を左折、約150m狭い道を東へ行くと大伴神社があり、道路脇に路駐する。

大伴神社東側に城山公園入口があり、入口が土橋跡で説明板がある。公園を入った右側のトイレと池の間に伴野城跡城址碑があり、大伴神社側に伴野城跡の説明板が建てられている。
南北に長い城跡の北側と西側、東側の半分に高く立派な土塁跡が残り、北西角が櫓台跡だそうです。
単郭の縦に長い四囲の周りには堀跡の水堀が残っています。


≪ 歴 史 ≫

鎌倉時代に伴野氏によって築城され、戦国時代初期に規模を拡大したが本拠を前山城に移す。
天正十年七月 (1582) 徳川家康配下の依田信蕃の一族依田肥前守によって攻略され破壊される。
その後、米蔵や陣屋が置かれたりして明治維新を迎えている。


≪ 写 真 ≫


伴野城入口の土橋跡


伴野城址碑


伴野城主郭


北東側の土塁


西側の土塁


東側の土塁


北側の土塁と堀跡


大伴神社

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR八ヶ岳高原線中込駅から西へ1.4km徒歩約25分。
<車>
中部横断道佐久南ICで降りて国道142号を南東に進み、跡部交差点信号を直進、国道254号を進み野沢本町交差点信号を直進、約200m南下した路地を左折、約150m狭い道を東へ行くと大伴神社があり、道路脇に路駐する。


≪ 位置図 ≫

伴野城(城山公園)


紹介したお城の数 73城



城めぐりがもっと楽しくなる!お城の地図帳 (タツミムック)
クリエーター情報なし
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龍岡城

2013-05-29 05:05:25 | 長野県
 龍岡城

2013/5/3  信州北部遠征(3泊4日)

長野県佐久市のお城めぐり

 信州にあるもう一つの五稜郭

≪ お城の概要 ≫

城名: 龍岡城
よみ: タツオカ
別称: 五稜郭
所在地: 長野県佐久市田口
現状: 田口小学校
築城年代: 慶応三年(1867)
築城者: 松平乗謨
形式: 平城
遺構: 水堀・石垣・土塁・現存台所
規模: 300m×300m、標高728m
文化財: 国指定史跡
訪城日: 2013/5/3


≪ 訪城記 ≫

信州北部遠征(3泊4日)  初日、小諸城から龍岡城へ向かう。

懐古園有料駐車場を出て東のしなの鉄道沿いの道を南東に進み古城三叉路信号を直進、弁慶橋信号を左折、鉄道に架かる橋を渡り、次の南町交差点信号を右折、国道141号を南東へ進み、四ッ谷東三叉路信号で国道18号に出て東進、平原交差点信号を右折、国道141号を南下、佐久北ICを通り過ぎ、城山北三叉路信号を左折、千曲川を渡り、臼田駅前三叉路信号を左折、道なりに右に曲がったら八ヶ岳高原線の踏切を渡り、県道93号を東進、次の三分三叉路信号を左折、次の三叉路を右折、龍岡橋南信号を左折、約250m行った三叉路を斜め右に曲がり、約250m東に進むと五稜郭の星形の先端石垣が見えてきて、隣に「五稜郭であいの館」があり、ここの駐車場に車を駐車する。

水堀沿いに南へ歩くと大手門跡に橋が架かっていて中に入れ、入ると田口小学校の運動場で南側に校舎が建っています。
大手門橋の入口に龍岡城址碑と説明板があり、水堀、石垣、土塁がセットで北、東、南に残っていて、西側にも石垣と土塁が残っています。運動場の西側には現存する台所の建屋が残されていて中を見学できます。
見事な陵堡式の星形が地上でも良く分かり、この五稜郭は、函館の五稜郭の4年後に完成しているそうです。
帰りに五稜郭であいの館で資料をもらいました。


≪ 歴 史 ≫

文久二年 (1862) 三河奥殿藩主松平乗謨は徳川幕府の許可を得て三河奥殿から田野口村へ居を移し、田野口藩と改める。
文久三年九月 (1863) フランスの築城家ボーバンの陵堡式城塞を採用して縄張を開始、十二月に着手。
慶応二年十二月 (1866) ほぼ完成し、翌三年四月に新殿も完成した。
明治四年 (1871) 廃藩置県により廃城となる。


≪ 写 真 ≫


北側星形先端部の水堀と石垣


大手北側クランク部分


大手前の龍岡城址碑


大手橋


南東側星形先端部の水堀と石垣


東側の土塁


大手橋と水堀


南西側の土塁


現存台所


南西側の石垣


北西側の土塁


五稜郭であいの館


現地説明板縄張図(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR八ヶ岳高原線龍岡駅または臼田駅から東へ徒歩約20分。
<車>
中部横断道佐久南ICで降りて国道142号を南東に進み、跡部交差点信号を右折、国道141号臼田バイパスを南下、城山北三叉路信号を左折、千曲川を渡り、臼田駅前三叉路信号を左折、道なりに右に曲がったら八ヶ岳高原線の踏切を渡り、県道93号を東進、次の三分三叉路信号を左折、次の三叉路を右折、龍岡橋南信号を左折、約250m行った三叉路を斜め右に曲がり、約250m東に進むと五稜郭の星形の先端石垣が見えてきて、隣に「五稜郭であいの館」があり、ここに駐車場がある。


≪ 位置図 ≫

龍岡城(五稜郭)


五稜郭であいの館


紹介したお城の数 72城



長野の山城ベスト50を歩く
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サンライズ出版

小諸城

2013-05-26 05:07:00 | 長野県
 小諸城

2013/5/3  信州北部遠征(3泊4日)

長野県小諸市のお城めぐり

 武田信玄、仙石秀久が大修築を施しためずらしい穴城

≪ お城の概要 ≫

城名: 小諸城
よみ: コモロ
別称: 穴城・酔月城・鍋蓋城
所在地: 長野県小諸市丁
現状: 懐古園・小諸公園
築城年代: 長享元年(1487)
築城者: 大井伊賀守光忠
形式: 平山城
遺構: 天守台跡・本丸・二の丸・三の丸・北の丸・南の丸・三の門・大手門・二の門跡・黒門跡・石垣・空堀・土塁
規模: 350m×500m、標高650m
文化財: 国指定史跡
訪城日: 2011/6/18・2013/5/3


≪ 訪城記 ≫

信州北部遠征(3泊4日)  初日、自宅から小諸城へ向かう。

ゴールデンウィークを利用して信州北部のお城を見て回る。
自宅から名神高速、中央道、長野道、上信越道を通って小諸ICで高速道路を降りて県道79号を南東へ、飯綱山公園付近で大きく右へ曲がり南下、諸入口交差点信号を直進、国道141号に突き当たる三叉路を斜め左折、国道141号を南下、本町交差点信号を右折、西へ進みしなの鉄道線の踏切を渡った懐古園入口交差点信号を左折してしなの鉄道線沿いに南下すると懐古園に着く。入口を右折した先に懐古園の有料駐車場がある。ここに車を駐車する。

懐古園が小諸城跡で駐車場の通路を通って三の門前の入場券売場に行ける。
まずは三の門を見て入場券売場から二の丸へ、入園料300円です。
入ってすぐ感じることですが、土地的に周りの市街地よりも土地の高さを低く感じます。
二の丸の石垣が通路の北側にあり、南側に水櫓跡、そのまま進み二の門跡の桝形、門を入った右側の石段を登った一段高い場所が二の丸跡で奥に土塁跡があります。二の門を過ぎ、北側に北の丸跡、南側に南の丸跡、真ん中の通路を進むと黒門跡で黒門橋の下は深い空堀です。黒門橋を渡った突き当りが本丸の石垣で左手に進むと本丸跡です。本丸跡には懐古神社があり、神社の裏側を通って天守台跡へ行けます。懐古神社には山本勘助が愛用した鏡石も飾られています。
黒門跡へ戻り、本丸石垣を右手に行くと本丸石垣と天守台跡の石垣を見られます。天守台の石垣はかなり孕んでいます。
天守台の北側に武器庫、酔月橋の下の地獄谷の空堀も大きくて深いです。さらに水の手展望台から千曲川方向は断崖絶壁です。本丸西側は馬場で千曲川側に土塁と空堀が見られます。
動物園に渡る白鶴橋の下の空堀もすごいです。
三の門まで帰り、鉄道の地下通路を東へ渡った先が三の丸跡で、公園に現存の大手門があります。


小諸城(懐古園)の詳細は ……… ここをクリック

≪ 歴 史 ≫

長享元年 (1487) 大井伊賀守光忠が築いた鍋蓋城が小諸城の前身で、光忠の子光為が築いた支城の乙女城(白鶴城)、周辺に手城塚城、与良城、七五三掛城、富士見城などを築く。
天文二十三年 (1554) 武田信玄が山本勘助に縄張を命じて、小諸城を鍋蓋城を取り入れた大要塞に拡大し、小山田備中守昌行に守らせた。
天正十年 (1582) 武田氏が滅亡し、小諸城は武田信豊の代官下曽根入道覚雲から織田信長の家臣森長一に引き渡され、滝川一益の所領となり、道家彦八郎正栄が入城する。
本能寺の変後、小諸城は小田原北条氏の領有となり、大道寺政繁が置かれている。
その後、北条氏と徳川家康が佐久地方の領有を巡り戦い、家康の領有することとなり、戦死した依田信蕃の子康国が小諸城主となる。
天正十八年 (1590) 小田原城攻めの軍功により仙石秀久が小諸を与えられ、小諸城の大改修を行う。
元和八年 (1622) 仙石秀久の子忠政が上田城に移され、徳川家光の弟松平忠長が入城する。その後、青山宗俊、酒井忠能、西尾忠成、松平重政が入城し、城主が次々と代わる。
元禄十五年 (1702) 牧野康重が入城し、以後牧野氏が十代続き明治に至る。
明治四年 (1871) 廃藩置県によって廃城となる。


≪ 写 真 ≫


三の門


二の丸石垣


水櫓跡


二の門枡形


二の丸


二の丸土塁


北の丸


南の丸


黒門橋


黒門橋下の空堀


黒門跡


本丸石垣


本丸跡の懐古神社


懐古神社


山本勘助愛用の鏡石


天守台跡


天守台石垣


本丸西側の石垣


武器庫


地獄谷の空堀


水の手展望台からの千曲川の眺め


馬場の西側にある空堀


白鶴橋下の空堀


本丸南西の石垣


大手門


現地案内板(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
しなの鉄道またはJR小海線小諸駅から徒歩5分。
<車>
上信越道小諸ICで高速道路を降りて県道79号を南東へ、飯綱山公園付近で大きく右へ曲がり南下、諸入口交差点信号を直進、国道141号に突き当たる三叉路を斜め左折、国道141号を南下、本町交差点信号を右折、西へ進みしなの鉄道線の踏切を渡った懐古園入口交差点信号を左折してしなの鉄道線沿いに南下すると懐古園に着く。入口を右折した先に懐古園の有料駐車場がある。


≪ 位置図 ≫

小諸城(懐古園)


大手門


紹介したお城の数 71城



日本100名城公式ガイドブック―日本の文化遺産「城」を見に行こう (歴史群像シリーズ)
福代徹,日本城郭協会
学習研究社




長野の山城ベスト50を歩く
クリエーター情報なし
サンライズ出版

田辺城

2013-05-25 05:08:10 | 京都府
 田辺城

2013/4/29  但馬遠征(2泊3日)帰り道

京都府舞鶴市のお城めぐり

 関ヶ原の戦いで細川幽斎が籠城したお城

≪ お城の概要 ≫

城名: 田辺城
よみ: タナベ
別称: 舞鶴城
所在地: 京都府舞鶴市南田辺
現状: 舞鶴公園
築城年代: 天正十三年(1585)
築城者: 細川忠興
形式: 平城
遺構: 復元城門・模擬隅櫓・天守台跡・石垣・井戸
規模: 560m×900m
文化財: 市指定史跡
訪城日: 2011/11/2・2013/4/29


≪ 訪城記 ≫

但馬遠征(2泊3日)帰り道  3日目、綾部城から田辺城へ向かう。

綾部駅の駐車場を出て駅前の府道を東に向かい、由良川に架かる丹波大橋を渡り、東詰の味方三叉路信号を左折、国道27号を北上、西舞鶴市内へ入り大手千日前交差点信号を右折、次の二の丸交差点信号を左折、約100mで田辺城跡のある舞鶴公園に着く。さらに100m北へ進むと道の東側に舞鶴市南田辺有料駐車場がある。ここの車を駐車する。

徒歩で南に戻ると舞鶴公園北西角の隅櫓、正面に復元された立派な城門がある。この城門の2階部分は無料の資料館で、隅櫓内にも田辺城の模型が飾ってある。
城門を入って右側に天守台跡、隅櫓前に井戸跡や石垣が残っている。さらに公園北東隅に細川幽斎ゆかりの「古今伝授の碑」のある心種園がある。
公園東側にはJR舞鶴線が通っていて城跡が分断された形になっている。


≪ 歴 史 ≫

天正八年 (1580) 一色義道の治める丹波国を細川藤孝・忠興父子が織田信長の命で攻略、七月丹波国を賜る。
天正十年 (1582) "本能寺の変で忠興の奥方(ガラシャ)が明智光秀の娘であったため、豊臣秀吉に嫌疑をかけられぬように奥方を山中に隠し、難を逃れた。
一色義道の子義俊を宮津城で誘殺し、丹後国を一統した。"
天正十三年 (1585) 田辺城を築城する。しかし、天守台には天守閣は造られないまま終わる。
慶長五年 (1600) 細川忠興は関ヶ原の戦いで東軍に属し、田辺城は西軍の大野木重勝らの大軍に攻められ、細川幽斎は籠城する。歌人として優れた幽斎と「古今伝授」が潰えるのを案じた朝廷が停戦の勅命によって幽斎は開城する。関ヶ原の本戦は東軍の勝利に終わり、戦功により忠興は豊前小倉三十九万石の領主となる。
慶長六年三月 (1601) 信州伊那から京極高知が入城する。高知が卒去後は、次男高三が田辺城を継ぐ。
寛文八年八月 (1668) 三代高盛の時、但馬国豊岡に移封される。その後に牧野親成が入城し、明治四年(1871)、廃藩置県まで牧野氏が治める。
平成四年 (1992) 城門が復元される。


≪ 写 真 ≫


隅櫓


復元城門


舞鶴公園碑と城門


公園内からの隅櫓


天守台跡


井戸跡


登り階段と石垣


古今伝授の碑


北東側の石垣


田辺城址碑


現地舞鶴公園案内図(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR舞鶴線西舞鶴駅から徒歩約5分。
<車>
舞鶴若狭道西舞鶴ICを降りて府道27号を西進、国道27号に出て北上、西舞鶴市内へ入り大手千日前交差点信号を右折、次の二の丸交差点信号を左折、約100mで田辺城跡のある舞鶴公園に着く。さらに100m北へ進むと道の東側に舞鶴市南田辺有料駐車場がある。


≪ 位置図 ≫

田辺城(舞鶴公園)


紹介したお城の数 70城



ビジュアル百科 日本の城1000城 1冊でまるわかり!
大野 信長,加唐 亜紀,有沢 重雄
西東社

綾部城

2013-05-24 05:06:53 | 京都府
 綾部城

2013/4/29  但馬遠征(2泊3日)帰り道

京都府綾部市のお城めぐり

 江田行範が築城、羽柴秀長に攻められ開城したお城

≪ お城の概要 ≫

城名: 綾部城
よみ: アヤベ
別称:
所在地: 京都府綾部市上野町
現状: せんだん苑南保育園
築城年代: 永禄八年(1565)頃
築城者: 江田行範
形式: 平山城
遺構:
規模: 標高104m、比高60m
文化財:
訪城日: 2013/4/29


≪ 訪城記 ≫

但馬遠征(2泊3日)帰り道  3日目、猪崎城から綾部城へ向かう。

綾部城の所在地がわからない、とりあえずJR山陰本線綾部駅を目指す。
三段池公園駐車場を出て県道74号を東へ向かう。舞鶴若狭道を通過して犀川に架かる橋を通り、栗町交差点信号を斜め右に曲がり、由良川を越えたところで南下し、JR山陰本線の踏切を渡り、次の鳥ヶ坪交差点信号を左折、約2km東に進むと綾部駅があり、駅の東側にある有料駐車場に車を駐車する。

綾部駅前の西側に観光案内所があったので、ここで綾部城の所在地を聞くと「大手門の看板」だけがあるそうで、場所の地図をいただき、あまり遠くないということで徒歩で向かう。
駅前通りを東に約400mで西町の信号を右折して、約250m南に行き左折、約30m東に進み右折、約200m南へ進み登り坂になったところの左側のコンクリート壁に「綾部城大手門跡」の看板のみがある。
大手門跡の看板のある坂の上に「ぜんだん苑南保育園」があり、この付近一帯が城跡のようです。


≪ 歴 史 ≫

永禄八年頃 (1565) 江田兵庫頭行範が綾部城を築き居城とした。
天正七年五月 (1579) 羽柴秀長によって開城され、城主江田行範は八上城で討死した。


≪ 写 真 ≫


綾部城大手門跡の看板


ぜんだん苑南保育園

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR山陰本線綾部駅から徒歩約20分。
<車>
舞鶴若狭道綾部ICを降りて府道77号を南下、由良川に架かる白瀬橋を渡り、橋の南詰の信号を左折、道なりに大きく右にカーブして直進、川糸三叉路信号を右折、西へ約850mで綾部駅に着く。ここから徒歩で駅前通りを東に約400mで西町の信号を右折して、約250m南に行き左折、約30m東に進み右折、約200m南へ進み登り坂になったところの左側のコンクリート壁に「綾部城大手門跡」の看板がある。


≪ 位置図 ≫

綾部城大手門跡


紹介したお城の数 69城



城めぐりがもっと楽しくなる!お城の地図帳 (タツミムック)
クリエーター情報なし
辰巳出版