お城へ行こう!

気ままなお城めぐりの旅の記録と写真を公開しています。

有子山城

2013-05-11 10:16:01 | 兵庫県
 有子山城

2013/4/27 但馬遠征(2泊3日)

兵庫県豊岡市のお城めぐり

 但馬山名氏が築いた石垣造りの最後の居城

≪ お城の概要 ≫

城名: 有子山城
よみ: アリコヤマ
別称: 有子城・高城
所在地: 兵庫県豊岡市出石町伊木1
現状: 山
築城年代: 天正二年(1574)
築城者: 山名祐豊
形式: 山城
遺構: 本丸・第二曲輪・第三曲輪・第四曲輪・第五曲輪・第六曲輪・千畳敷・石垣・堀切・竪堀・土橋・土塁
規模: 250m×100m、標高321m、比高310m
文化財: 市指定文化財
訪城日: 2013/4/27


≪ 訪城記 ≫

但馬遠征(2泊3日) 初日のお昼前に出石城前の有料駐車場に到着。

舞鶴若狭道福知山ICを降りて国道9号山陰道を西進、羽合付近から北上、牧川を越えて牧三叉路信号を左折、国道9号山陰道をそのまま西進、野花三叉路信号を右折、国道426号を北上、京都府から兵庫県へ入り、ひたすら道なりに進み登尾トンネルを抜けて、さらに道なりに進み出合三叉路信号を左折、国道426号をそのまま進み、乙女橋三叉路信号を右折、出石川堤防沿いの道を北上、1.7㎞進んだところで川を渡り、すぐの交差点の次の三叉路を右折、東へ約250mで賑やかな出石城の城下町跡に着く。突き当りに豊岡市役所出石支所の有料駐車場がある。ここに車を駐車する。他にも周辺に有料駐車場有。

出石支所の南側に出石城があり、その左側に稲荷神社の参道がある。有子橋を渡り真っ赤な鳥居の参道道を登っていく、途中に出石城の石垣を見ることができる。
稲荷神社の入り口に手水があり、その左側に「有子山登山口」の看板が建っている水道施設の横を山に登っていく。ここに有子山城址碑が建っている。
ここから急峻な尾根道をひたすら登る。あと720m地点で堀切、土橋、竪堀跡を見ることができる。さらに登ってあと240m地点で削平地らしき曲輪で登り道が右へ折れて、山の裾を歩くつづら折れの道になり、しばらく行くと右の崖下に苔むした石垣跡が残っている。
さらに登っていくと段曲輪になった所に出る。削平地と石垣跡が残っている。第6、第5、石切り場、第4曲輪と登っていくと、石垣が良く残っている第3曲輪へ出る。第3曲輪に残り長い石垣の右側を通って、さらの進むと本丸と千畳敷の間に大きなV字型堀切があり、この堀切の左上が本丸で、右上が千畳敷です。
堀切を登って本丸跡へ、一番高い場所が本丸跡で東屋の休憩所と説明板があり、台地状の削平地南側に土塁跡らしき盛り上がりが残っている。本丸北回りに壮大な石垣が良く残っている。北方向の見晴しが良く絶景のパノラマです。本丸から西の一段下が第2曲輪で、その下が第3曲輪で、降りていくと第3曲輪の左側に出られます。
もう一度、第3曲輪の長い石垣横の道を通って堀切に出て、今度は右側を登っていくと広い千畳敷に出ます。東へ三段の曲輪です。
稲荷神社まで下山し、ここから出石城へ


≪ 歴 史 ≫

永禄十二年 (1569) 羽柴秀吉による但馬攻めで山名氏の居城此隅城が落城し、その後、天正二年(1574)に山名祐豊が子の氏政と共に大規模な石垣を何段にも構えた有子山城を築く。
天正三年 (1575) 丹波の荻野直正が但馬へ攻め入り、織田信長に助けを求める。
天正五年 (1577) 羽柴秀吉による第一次但馬征伐が始まる。
天正八年 (1580) 第二次但馬征伐で有子山城も攻められ、有子山城主山名氏政は因幡へ逃げ、父祐豊も病死する。
天正十三年 (1585) 前野長康が城主となるが、関白秀次事件に連座して子の長重とともに殺される。
文禄四年 (1595) 小出吉政が出石に移され、有子山城主となる。
慶長九年 (1604) 岸和田城主小出秀政が死に吉政が岸和田城主となり、出石には子の吉政が城主となり、山麓に出石城を築くまで有子山城は残っていた。


≪ 写 真 ≫


稲荷神社登り口の有子橋


有子山城登城口


登城口にある有子山城址碑


急峻な尾根道


尾根道途中の堀切


尾根道途中の土橋


登り道途中の崖下の苔むした石垣跡


第5曲輪付近の石垣跡


石切り場の土塁跡


第3曲輪の石垣


第3曲輪の道沿いの長い石垣


本丸と千畳敷の間の大きな堀切


本丸跡


本丸の土塁跡


本丸西北側の石垣


本丸東北側の石垣


広い千畳敷


現地案内板の縄張図(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR山陰本線豊岡駅からバスで出石下車、本丸跡まで約1時間。
<車>
舞鶴若狭道福知山ICを降りて国道9号山陰道を西進、羽合付近から北上、牧川を越えて牧三叉路信号を左折、国道9号山陰道をそのまま西進、野花三叉路信号を右折、国道426号を北上、京都府から兵庫県へ入り、ひたすら道なりに進み登尾トンネルを抜けて、さらに道なりに進み出合三叉路信号を左折、国道426号をそのまま進み、乙女橋三叉路信号を右折、出石川堤防沿いの道を北上、1.7㎞進んだところで川を渡り、すぐの交差点の次の三叉路を右折、東へ約250mで賑やかな出石城の城下町跡に着く。突き当りに豊岡市役所出石支所の有料駐車場がある。他にも周辺に有料駐車場有。


≪ 位置図 ≫

稲荷神社登り口の有子橋


稲荷神社からの登城口


本丸跡


紹介したお城の数 59城



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クリエーター情報なし
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三木城

2013-04-15 22:41:44 | 兵庫県
 三木城

2013/3/30

兵庫県三木市のお城めぐり

 「三木の干殺し」で有名な三木合戦の舞台となったお城

≪ お城の概要 ≫

城名: 三木城
よみ: ミキ
別称: 釜山城・別所城
所在地: 兵庫県三木市上ノ丸町5-45
現状: 三木城跡上ノ丸公園・稲荷神社・保育所・金物資料館・市立図書館
築城年代: 十五世紀後半
築城者: 別所則治
形式: 丘城
遺構: 天守跡・本丸跡・二の丸跡・かんかん井戸
規模: 600m×500m
文化財:
訪城日: 2013/3/30


≪ 訪城記 ≫

明石城から三木城へ向かう。

図書館前の有料駐車場を出て東へ約300m、信号交差点を左折、錦城中学校前を通り過ぎ、白水東交差点信号を左折、県道21号を西へ進み、森友交差点信号を右折、国道175号を北上、福井ランプ交差点信号を左折、鶯谷三叉路信号を斜めに左折、県道20号を道なりに北上し、本町交番前信号を道なりに右へ曲がりながら直進、神戸電鉄粟生線を越えたところを大きく右へ曲がり、次の信号から約100m地点で細い路地に右折、神戸電鉄の下をくぐって細い道をくねりながら登っていくと上ノ丸公園と保育所へ入って行く坂道があり、坂道を登りきった所の保育所前の空き地に駐車できる。ここに車を駐車させてもらう。

車を降りた目の前に別所長治公の騎馬像があり、その右側にこんもりと一段高い場所があり、ここが天守跡で階段を登った上には辞世の歌碑が建てられている。
天守跡の北側には三木合戦図や説明板が建てられていて、北西角には「かんかん井戸」が残っている。西側は断崖で北側と西側には土塀が復元されている。
城域としては、天守跡や保育所、稲荷神社、金物神社付近が本丸跡で、道を隔てた南側の図書館付近が二の丸跡です。
この地で約二年におよぶ悲惨な籠城戦で有名な「三木の干殺し」があったとは思えないほど静かな場所です。

本丸跡から南へ約250m行ったところに別所長治公の首塚がある雲龍寺があります。


≪ 歴 史 ≫

明応年間 (1492-1501) 東播磨守護代別所則治によって築かれる。
天文七年 (1538) 同八年の二度にわたり尼子晴久の攻撃を受ける。
天文二十三年 (1554) 三好長逸に攻められ、和睦して三好氏の麾下となる。
永禄十一年頃 三好三人衆をみかぎり、織田信長と結ぶ。
天正六年 (1578) 織田信長を裏切り毛利氏と手を組んだため、羽柴秀吉に三木城を包囲され支城を次々と落され、一年十か月の悲惨な籠城戦「三木の干殺し」によって、天正八年(1580)一月十七日、別所長治一族が自害して開城した。
天正十三年 (1585) 中川秀政が入城するも文禄元年(1592)の朝鮮の役で事故死すると、弟の秀成が跡を継ぐ、三年に移封となり、以後豊臣氏の直轄地となり代官が置かれる。
慶長五年 (1600) 池田輝政が姫路城に入り、三木城はその支城となる。
元和元年 (1615) 江戸幕府の一国一城令によって廃城となり、古材を明石城の築城に使われたといわれている。


≪ 写 真 ≫


別所長治公騎馬像


天守跡


別所長治辞世の句碑


かんかん井戸


本丸跡


二の丸跡


雲龍寺


別所長治公首塚


現地三木城址案内図(リンク付サムネイル)


現地三木城想像図(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
神戸電鉄粟生線三木上ノ丸駅より徒歩約3分。
<車>
山陽道三木東ICを降りて三木東インター入口を左折、県道85号を南下、奥田橋東詰交差点信号を右折、県道38号を西進し、本町1丁目の信号を直進、約100m地点で細い路地に左折、神戸電鉄の下をくぐって細い道をくねりながら登っていくと上ノ丸公園と保育所へ入って行く坂道があり、坂道を登りきった所の保育所前の空き地に駐車できる。図書館前にも駐車場がある。


≪ 位置図 ≫

三木城(上ノ丸公園)


市立図書館


雲龍寺


紹介したお城の数 54城



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明石城

2013-04-14 21:40:31 | 兵庫県
 明石城

2013/3/30

兵庫県明石市のお城めぐり

 西国大名への備えとして小笠原忠真が築いたお城 日本100名城

≪ お城の概要 ≫

城名: 明石城
よみ: アカシ
別称: 喜春城・錦江城
所在地: 兵庫県明石市明石公園1-27
現状: 県立明石公園
築城年代: 元和四年(1618)
築城者: 小笠原忠真(忠政)
形式: 平山城
遺構: 現存巽櫓・現存坤櫓・天守台・本丸・二の丸・東の丸・稲荷郭・艮櫓跡・石垣・中堀・薬研堀・桜堀・箱堀・土塁・大手門桝形
規模:
文化財: 現存巽櫓・坤櫓は国指定重要文化財
訪城日: 2012/9/16・2013/3/30


≪ 訪城記 ≫

山陽道三木東ICを降りて三木東インター入口交差点信号を左折、県道85号を南進、西盛口交差点信号を直進、県道83号を南進、高和橋交差点信号を右折、明石川を越えたところの信号を左折、明石川沿いに南下、西戸口三叉路信号を左折、国道175号を南下、第二神明道路玉津ICを越えて、森友交差点信号を左折、県道21号を東進、明石川を越えて、山陽新幹線、伊川を通り過ぎ、次の白水東交差点信号を右折、カーブしながら南下、錦城中学校前を通り過ぎ、次の交差点信号を右折、住宅街を西に約300mで明石公園内にある県立図書館の有料駐車場に着く。この駐車場に車を駐車する。

駐車場から徒歩で図書館西側の道を南へ迂回すると、球技場との境付近の脇道南に石垣跡が木々の中に見えるところがあり、石垣見たさに入って行くと門の石垣のようで道の両側に石垣が残っている。そのまま谷を下へ降りていくと桜堀に出て、本丸や二の丸の高石垣がそびえている。このまま中堀沿いに二の丸高石垣の下を東へ行くと薬研堀から東の丸へ入る桝形石垣を通って東に丸に入る。
東の丸、二の丸を通って本丸へ入る土橋を渡ると左隅に現存巽櫓、本丸中央のこんもり土を盛った所が人丸塚で、その西側、西南隅に現存坤櫓がある。3月は坤櫓の公開中で中を見学できた。ほかに5・9・11月も公開されている。4・10月は巽櫓が公開されているようです。
坤櫓の北側に天守台があり、ここに天守は建てられなかったようです。
さらに本丸北東隅には艮櫓跡があります。
もう一度、東の丸まで帰り、薬研堀の石垣を見て、南面高石垣下の広場へ降り、大手桝形から出て外堀沿いを歩きました。
大手を出たところがJR明石駅です。


明石城(明石公園)の詳細は ……… こちらをクリック

≪ 歴 史 ≫

元和三年七月 (1617) 小笠原忠真が明石十万石を賜り、二代将軍徳川秀忠の命により、翌四年から築城を開始する。資材には廃城となった三木城、高砂城、船上城、枝吉城の解体資材が利用される。
寛永八年正月 (1631) 本丸御殿を失火により焼失。
寛永九年十月 (1632) 小笠原忠真が北九州の豊前小倉に移封となり、姫路の本多忠政の子忠義と孫政勝が一か月交替で在番をする。
寛永十年四月 (1633) 信濃松本から松平康直が入部する。
寛永十六年 (1639) 美濃加納から大久保忠職が入部する。
慶安二年 (1649) 丹波篠山から松平忠国が入部する。
延宝七年 (1679) 本多政利が入部する。
天和二年三月 (1682) 越前大野から松平直明が入部して明治維新を迎える。
明治四年 (1929) 廃城となる。


≪ 写 真 ≫


本丸北側の高石垣


二の丸北側の高石垣


東の丸へ入る桝形虎口


東の丸の土塁


東の丸


現存巽櫓


天守台


現存坤櫓


艮櫓跡


本丸


二の丸から本丸への橋


二の丸


薬研堀


二の丸南側の高石垣


天守台の石垣


南側公園広場から見た坤櫓


南側公園広場から見た巽櫓


南側公園広場から見た現存坤櫓・巽櫓


現地明石公園案内図(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR山陽本線明石駅、山陽電鉄本線山陽明石駅から徒歩約5分。
<車>
第二神明道路大蔵谷ICを降りて県道21号を西進して、白水東交差点信号を左折、カーブしながら南下、錦城中学校前を通り過ぎ、次の交差点信号を右折、住宅街を西に約300mで明石公園内にある県立図書館の有料駐車場に着く。


≪ 位置図 ≫

県立図書館


明石城


紹介したお城の数 53城



日本100名城公式ガイドブック―日本の文化遺産「城」を見に行こう (歴史群像シリーズ)
福代徹,日本城郭協会
学習研究社