1820年4月8日、オスマン帝国統治下のエーゲ海のメロス島の農夫ヨルゴス・ケントロタスがヴィーナス像を発見。彼は、官吏に見つからぬようにヴィーナス像を隠していたが、トルコ人の官吏に発見され没収された。
後に、フランス海軍提督ジュール・デュモン・デュルヴィルは、この像の価値を認め、フランス大使に頼みこんでトルコ政府から買い上げた。これは修復された後にルイ18世に献上された。
ルイ18世はこれをルーヴル美術館に寄付し、現在でもそこで管理されている。
このミロのヴィーナスは、紀元前130年頃に作られたとされるギリシア神話における女神アプロディーテーの像と考えられている。高さは203cm。材質は大理石。
発見時は碑文が刻まれた台座があったが、ルーヴル美術館に持ち込まれた際に紛失している。
1900年頃にルーヴルで一度だけ型取りされており、現在もその型を元にレプリカや縮小モデルが作られている。
以後、ルーヴルを出て海外へ渡ったことはただ1度、1964年4月 - 6月、日本の東京都(国立西洋美術館)および京都府(京都市美術館)で行われた特別展示のみである。
この際、日本への輸送時に一部破損が生じ、展示までに急遽修復されている。
1186年:捕えられ鎌倉に送られた源義經の愛妾・静御前が源頼朝、北條政子の前で義經恋慕の「賤や賤…」の舞を披露する。
4月8日、頼朝に鶴岡八幡宮社前で白拍子の舞を命じられた静は、
「しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」
と義経を慕う歌を唄い、頼朝を激怒させるが、妻の北条政子が「私が御前の立場であっても、あの様に謡うでしょう」と取り成して命を助けた。
と義経を慕う歌を唄い、頼朝を激怒させるが、妻の北条政子が「私が御前の立場であっても、あの様に謡うでしょう」と取り成して命を助けた。
『吾妻鏡』では、静の舞の場面を「誠にこれ社壇の壮観、梁塵ほとんど動くべし、上下みな興感を催す」と絶賛している。
4月8日生まれの「 独立武家政権の祖 」
1147年:源 頼朝は、鎌倉幕府初代征夷大将軍。
清和源氏の一流たる河内源氏の源義朝の三男として生まれ、父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ配流される。
北条時政、北条義時などの坂東武士らと平家打倒の兵を挙げ、鎌倉を本拠として関東を制圧する。弟たちを代官として源義仲や平家を倒し、戦功のあった末弟・源義経を追放の後、諸国に守護と地頭を配して力を強め、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼす。
1192年に征夷大将軍に任じられた。
藤原隆信画『神護寺三像』左から伝源頼朝、伝平重盛、伝藤原光能
ただし足利直義、足利尊氏、足利義詮という説も
伝頼朝像と伝重盛像の太刀の柄に「桐紋」があり、これは足利氏の紋。
源頼朝や平重盛は「桐紋」は使わないことから。
源頼朝や平重盛は「桐紋」は使わないことから。
朝廷と同様に京都を中心に権勢を誇った平氏政権とは異なる、東国に独立した武家政権が開かれ、後に鎌倉幕府と呼ばれた。頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は、北条義時の嫡流(得宗家)が鎌倉幕府の支配者となった。
気付いたら時は過ぎて
失くし物 見つからない
さようならも言わないで
行かないで
失くし物 見つからない
さようならも言わないで
行かないで
では f-o-q
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