1955年6月7日、平塚らいちょうらの呼びかけで東京・豊島公会堂で第1回母親大会が開催された(参加者2千名)ことにちなんで制定された。
キツイナァ
1954年、ビキニ環礁での水爆実験実施をうけ、日本婦人団体連合会は国際民主婦人連盟に原水爆禁止を提案し、世界母親大会がスイスで開かれた。
これに先立ち第1回日本母親大会が開催された。
「生命を生みだす母親は、生命を育て、生命を守ることをのぞみます」のスローガンの下に、生命と暮らし、子供と教育、平和、女性の地位向上等に関する分科会や講演会等が開催される。
3つの柱
・「暮らしと子供」
・「平和」
・「女性の地位の向上」
「生命を生みだす母親は、生命を育て、生命を守ることをのぞみます」のスローガンの下に、生命と暮らし、子供と教育、平和、女性の地位向上等に関する分科会や講演会等が開催される。
3つの柱
・「暮らしと子供」
・「平和」
・「女性の地位の向上」
6月7日の出来事:「 レースと言えば、黙ってられない社長たち 」
1936年:第1回全国自動車競走大会開催
日本初の本格的な自動車レースとなった第1回全国自動車競走大会が開催された。
開会式には大日本帝国陸軍の将官が列席し、多摩川沿いという、都心から遠く離れた僻地での開催にもかかわらず1万人以上の観客を集めるなど大きな注目を集めた。
当時横浜市にある工場で生産されていたフォードや、三井高公男爵が輸入したブガッティやベントレー、インヴェィクタやハップモビルなどの様々な外国車のみならず、カーチスの航空機エンジンを搭載した改造車、日産自動車などの日本の大手自動車会社もワークス体制を組んで参戦した。
当時横浜市にある工場で生産されていたフォードや、三井高公男爵が輸入したブガッティやベントレー、インヴェィクタやハップモビルなどの様々な外国車のみならず、カーチスの航空機エンジンを搭載した改造車、日産自動車などの日本の大手自動車会社もワークス体制を組んで参戦した。
このレースには、後に本田技研工業を創設する本田宗一郎も自製の「浜松号」(エントラント名は「ハママツ」)で参戦したが、突然、ピットから進路に割り込んできたクルマを避けきれず大転倒、車外に放り出される。ドライバーの本田は軽傷で済んだが、同乗メカニックの弟・弁二郎は、脊椎骨折の重傷を負った。
国産自動車部門で優勝したのは当時三井物産の傘下にあったオオタ自動車工業が手作業で組み上げたレース専用マシンの「オオタ号」であった。
当日、スタンドからレースを観戦していた日産自動車の鮎川義介社長は敗北に激怒、社員に号令をかけ3ヶ月後の第2回大会に雪辱を期した。で、優勝。
6月7日生まれの「 元・金持ち 」
1949年:岸部岸部シロー(俳優、歌手)
アイドルだった
日刊スポーツさんより
「オレを誰や思てんねん! 元・金持ちやぞっ!!」
1億円で夏目雅子に迫ったともいわれる怖いもの知らずの元金満アイドル
6月7日の誕生花:「 梔子(くちなし):幸せを運ぶ、私は幸せ、胸に秘めた愛、楽しい日々、洗練、優雅、私はあまりにも幸せです 」 なんかすごいですね
一重の花は実をつけるが、実が熟しても口を開けないため「くちなし」。
乾した果実は漢方生薬の山梔子(さんしし)
「山梔子」「梔子」どちらもクチナシと読む。
初夏の風に乗って漂うクチナシの甘い香りが「喜びを運ぶ」の由来。
「あまりにも幸せです」は、アメリカで女性をダンスパーティーに誘うときに
乾した果実は漢方生薬の山梔子(さんしし)
「山梔子」「梔子」どちらもクチナシと読む。
初夏の風に乗って漂うクチナシの甘い香りが「喜びを運ぶ」の由来。
「あまりにも幸せです」は、アメリカで女性をダンスパーティーに誘うときに
クチナシの花を贈ることから、誘われた女性の気持ちを表しているとも。
日本ではクチナシの花が「嫁のくち無し」につながると、
日本ではクチナシの花が「嫁のくち無し」につながると、
女の子のいる家には植えないほうがいいと言われる。もちろん迷信。
では f-o-q
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