
自転車で秩父に着いて、秩父神社にお参り。
秩父は諏訪と縁のある土地だ。有名な秩父夜祭りでは、諏訪神社の前を通るときには祭神に敬意を払うためお囃子を止め、静かに通る「お諏訪渡り」の神事があった。一般には、治水などの技術をもった集団が諏訪から秩父へ移住したと言われている。
平良文は妙見信仰の持ち主で、その後千葉へ移住し、千葉は妙見信仰が盛んになる。坂本龍馬も修した北辰一刀流は千葉周作が創始した流派だけれど、この北辰こそ妙見である。

江戸時代までこの神社は「秩父大宮妙見宮」と呼ばれていたのだ。
北辰と摩多羅神(あるいは後戸の神)が結びつくものであることは少林山達磨寺を見るとよくわかる。詳しくは、達磨寺で芸能について考えたりしちゃってみたりを見て下さいな。
一方秩父に土着した武士団は秩父平氏と呼ばれ、その流れを汲むのが豊島氏。彼らは東京にやって来て石神井城を気づく。石神井。シャクジ、シュクジン、ミシャクジなどと呼ばれる諏訪に残存した、日本古層の神がここに顔を出す。この神は実は妙見とも結びついている神だ。かつて日本には石神信仰と星宿信仰があった。この信仰を持っていた人たちは縄文当時、日本全国に分布していたけれど、やがて大陸から渡来した人々の支配下に入ることになった。西日本の多くの場所でシュクジン信仰と被差別集落が結びついている(水本正人「宿神信仰と被差別」)のもそうした事情による。新しい支配層は征服した民の星宿信仰を嫌ったのだろう。日本はほかの国に比べて星宿信仰のきわめて少ない特異地域だ。
そんな宿神信仰が亡ぶことなく、延々受け継がれてきたのが諏訪だ。最近、諏訪では自分たちが縄文人の末裔であることを誇りに思い、そのことから様々なメッセージを発信している人たちがいる。こうした縄文系の人たちは、諏訪の他、アイヌや沖縄に繋がっている。アイヌ文化は続縄文時代から擦文文化時代を経て生まれた断絶のない縄文文化であるし、沖縄の御嶽に現れる信仰にも縄文時代からの古層の信仰が脈々と流れている。

やはり、ここは諏訪とつながるスポットだった。