12個の季節

管理人フロートがダラダラ書きます。過去記事ほぼ黒歴史。とはいえ検閲する時間も手間も惜しい。よって黒歴史公開継続中。

寄港

2019-07-11 21:34:00 | 01・日常(2012/10/1~現在)
何日か前から、会社への通勤の際にチラチラと見えてたのですが、今日の仕事終わりにちょっと近くまで行ってみました。
 
 
 
LST-4002
海上自衛隊輸送艦「しもきた」
 
おおすみ型輸送艦の2番艦、海上自衛隊では初のアイランド構造物を持つ艦。
就役当初はその見た目から、侵略の意図をもった空母だとか一部の人達から騒がれた艦です。
実際は、ヘリ格納庫もヘリ運用のためのエレベーターもないので、あくまでドッグ型揚陸艦なんですが。
本格的なヘリ空母機能を持つひゅうが型護衛艦やいずも型護衛艦の就役とともに、空母だと騒がれることもなくなりましたね。
 
なんかの訓練でなのか、釧路に寄港してました。
調べてみたら、昨日今日と一般公開されてたみたいです。
昨日休みだったから行ってくればよかったな。
 
実はおおすみ型輸送艦、ここ数年釧路に度々寄港してるんですよね。災害派遣訓練とか陸自部隊の輸送訓練とかで。
耐震旅客岸壁の整備のおかげですね。
以前は、数年に一度西港岸壁に南極観測船しらせが入港とかあったものの、護衛艦や輸送艦の入港はあまりお目にかかれなかったですからね。
 
釧路港と言えば、海上保安庁の第一管区釧路保安部のお膝元。巡視船「そうや」、「いしかり」、「えりも」、かつては「りしり」。
巡視船の一般公開はお祭りの際には恒例行事。市内の小学校の社会科見学なんかでも定番。
ですが、やはり護衛艦の大きさは普段見慣れた巡視船のスケールより大きく、惹かれるものがあります。
 
今後も、どんどん釧路港への入港お待ちしております。笑

釧路町の新道で

2019-07-10 20:12:20 | 01・日常(2012/10/1~現在)

2019年07月08日

ホコ天にぎわう/釧路町で初イベント

https://www.news-kushiro.co.jp/news/20190708/201907081.html

釧路町の新道を歩行者天国にしたイベントがこの前の日曜に開かれました。

我が家も、妻の実家からの帰り道に話題に出たので急遽行ってきました、

新道突き当りの丁字路からイオン釧路店や丸亀製麺のある交差点までの直線区間が歩行者天国になっており、キッチンカーや飲食店の出す屋台販売がいくつか並んでいました。

ホーマックが出店していた動物とのふれあいブースには結構人が集まり賑わいを見せていました。

リクガメや鷹やアヒルなど珍しい動物も来ていて、直に触れ合える貴重な体験。うちの娘も大喜びでした。

数百円で餌やり体験や鷹を腕に乗せる体験ができるようです。

その他には、巨大なバルーン遊具や木製アスレチックなどの子供が喜びそうな遊具も。

また、一番大きなスペースを使って催されていたのはフリーマーケット。

随分とフリーマーケットに行く機会もなかったので、年甲斐もなく子供のようにいろんな店をじっくり見て回ってしまいました。

ぱっと見、趣旨やメイン企画がイマイチはっきりとしないイベントではありましたが、出ているブースを考えると子供のいる家族向けのイベントだったのかな。

時代の中でなくなってしまった水面貯木場、そこを埋め立てて交通の利便性を高めた新道、そして新しく人が集まるイベントの開催。

家族との団欒の一ひとときの中で、街の移り変わりを感じた週末でした。


教科書「くしろ」

2019-06-23 17:32:00 | 01・日常(2012/10/1~現在)
実家で懐かしいものを見つけました。
その名も「くしろ」。
 
 
釧路市教育委員会が発行している、小学生向けの教科書の一つで、
同年代で釧路市内の小学校に通っていた方は、絶対見たことある教科書。
低学年から中学年くらいまでの、生活とか社会の授業時間に使ってた記憶があります。
これって今もあるんだろうか。
 
中を見てみると、写っている釧路の街並みは恐らく90年代頃。
釧路の最盛期、人口が一番多く、市街面積も格段に広がった時期です。
産業の分野に目を向けると、太平洋炭鉱が健在。
水産業も、90年代までは水揚げ高日本一が度々、林業も水面貯木場がまだ稼働していて、釧路川を丸太を引いたボートが行き来していた時代。
 今の日本製紙と王子製紙の両工場もフル稼働し、中心街には百貨店を始めとした店が軒を連ね、人も車も往来が激しかった、活気のある時代。
 
 
色々な要素が絡んだとはいえ、この2〜30年で釧路がどれだけ変わったか実感させられます。
 
人も街もどんどん変わっていく、とは某有名ゲームのなかの台詞にもありますが、いい変化も悪い変化も、その街に住む市民だけのものです。
娘が大人になった時に、昔より良くなったと思ってもらえるような街を作っていきたいものです、

近況そのに

2019-06-16 01:44:00 | 01・日常(2012/10/1~現在)
前回、いろいろありながらも出産が近付いてるってとこで終わったと思います。
今回はその続きから書いていきます。
 
色々と問題にぶち当たりながらも、なんとか乗り切ってきた妊娠期間。
切迫早産の危機が5月で、そこから3ヶ月ほど経った8月中旬。
予定日が近付きながらも、なかなか生まれる気配が見えない我が子。
この頃の妻は、身重ながらも近所に散歩に出かけたり、友人とバーベキューしたりと、思いの外活動的でした。
病気なわけでもないし、子どもにとってもある程度動いた方が生まれやすいから当然とは妻の段。
男からすると、身体が重いのによく動くという驚き半分、転倒でもしないかという不安半分。
そんな日々の中で、その日は唐突に訪れました。
 
お盆前日、2016年8月14日。
暦上は日曜で、世間一般にはお盆休みの真っ只中。
しかし、自販機の管理・補充の仕事で、完全に休みの日がない仕事をしている私。
飲食業に近いものがあり、パチンコ店やレジャー施設、ショッピングモールなどは休みの日ほどよく売れます。
なので、年末年始もGWもお盆も、常に交代で誰かは出勤し、自販機を回る。そういう仕事なのです。
 
この日も私は仕事でした。
予定日が迫っていたこともあり、それまでにも増してそわそわしながら仕事をしていました。
今でも不思議ですが、何故かこの日は特に仕事のペースが早かった。
普段より2時間ほど仕事が早く片付き、午後2時ぐらいにはその日の仕事の約8割が終了。
少し余裕があったので、妻に様子を電話で聞いてみました。
この時はまだ、陣痛などもなく普通に過ごしていたようでした。
 
午後4時過ぎ、早いペースのままで普段よりもかなり早い時間に会社に戻ってきました。
翌日補充分の製品を積み込み、その日補充した自販機の売上金の精算も済ませ、2Fの事務所に上がったのが午後5時頃。
事務所に戻ると所長から声を掛けられました。予定日が近いこともあり、妻の様子を尋ねられました。
昼過ぎに電話した時の様子を話したのですが、それでも気になったのか、今もう一度連絡するよう言われ、再度妻に電話をかけてみることに。
 
電話をかけると、最初は普通に話していた妻の様子が段々変わっていきました。今この瞬間、陣痛が始まり出したようでお互い大慌て。
 
電話を切り、所長に今の状態を説明したところ、残りの事務処理は別の人に頼むので今すぐ帰宅していいとの事。
大慌てで着替え、今までで一番の速さで妻の実家へ向かいました。
 
妻の部屋に飛び込むように入ると、布団で辛そうにしている妻と、そんな妻の腰を摩っている義母の姿が。
ひとまず状態を聞き、すぐさま妻を乗せて病院へ。
既に座るのも辛いようで、シートを完全に倒して寝そべるような状態で車を走らせました。
 
20分ほどで通院していた病院の救急外来の窓口へ。
たまたま通りかかった、勤務明けの看護士さんが車椅子を持ってきてくれ、妻は車椅子で産婦人科病棟へ。
病棟内の出産時に使う個室に移動しいざ分娩が始まりました。
 
隣の部屋でも別の家族が分娩中にようで、声が漏れ聞こえてきていました。
陣痛から出産までの時間は結構人によって個人差があるらしく、長いと一晩がかりにもなるとのこと。
また、初産婦と経産婦でも違う傾向があるそうで、初産婦の妻は長期戦も覚悟した方がいいと聞いていました。
緊張している私が出来たことは、声をかけることと摩ることぐらい。
もっと他にもしてやれた事があったんじゃないかと改めて思います。
 
いつ終わるのかもわからないまま、力んで息を吐いてを繰り返す妻。
助産師さんと妻がラストスパートをかけていることが隣にいる私にも感じられました。
 
そして陣痛が始まってから約3時間後の19時47分。
ついに我が子がこの世に生まれました。

近況そのいち

2019-06-04 22:02:00 | 01・日常(2012/10/1~現在)
最後の更新で、
結婚したってことと転職したってことは書いたと思います。
そこからの近況報告ってことで書いていくよ。
 
結婚して、転職もした。別海から釧路に帰ってきた。
しかし、大した貯金がなかったから住む場所が無い!!
そこでひとまず私の実家(?)を頼ることに。
実家暮らしで貯金を作って、晴れて独立!!という計画。
 
ということで別海から戻り、祖父母と孫夫婦の2世帯同居となりました。
最初はそこそこ上手く行ってたんだよね。お互い気遣い合いながら、妥協しながら。
でも、段々とお互い積もり積もったものが燻り始めて、気付いたらお互いに同居がストレスに。
何事も最初は上手くいくのに、時間が経つと綻びって出てくるものですよね。
このため、予定を前倒しして貯金を作り、不動産屋に足繁く通い、お部屋探しが本格始動。
 
そんな中、妻の妊娠が発覚。今度こそは、って二人して張り詰めながら経過を見守り、ようやく安定期に。
物件もなんとか決まりまして、あとは正式に契約してお金振り込んで、子供が生まれるのを新居で待とうと二人で話してました。
 
そんな妊娠30週が近くなった5月某日、気分転換で行った厚岸牡蠣桜まつりの帰り道、急にお腹が張り出したとのことで急遽病院へ。
すると切迫早産の恐れアリという診断。当然緊急入院。
あまりにも急な展開に、頭も心も付いていけませんでした。
このときはホントに参った。妻が一番不安だったでしょうが、私もかなり不安でした。
母子ともに危険って事で、二人とも失ったらこの先どう生きてけばいいんだろうとか本気で悩みました。
今のところ、この時ほど神に祈った事はないですね。
 
その後、妻と子どもの頑張りでなんとか持ち直し、2ヶ月ちょっとの入院を経て無事退院となりました。
しかし、この入院により賃貸借りる予定で貯めていた貯金が空っぽに。
実は、妻がそれまで入ってた保険が満期になり、別な保険に入ろうとしてた矢先の入院だったのです。
当然ながら、入院費を踏み倒すわけにもいかないので、賃貸契約用の貯金を切り崩し、不動産屋さんには契約を白紙に戻してもらいました。
 
結局また、住む場所をどうするかという問題に直面しました。
 出産が近いこともあり、ストレスを溜めないように&何かあったときすぐ対応できるようにするため、妻はひとまず自分の実家へ。
私は変わらず私の実家から仕事に行く事に。
かくして同じ街の中で、出産までは里帰り出産的な別居状態を過ごすことに。
 
そうこうしている間にも時間は過ぎ、出産の日が近付いていました。
 
長くなったので、ひとまずここで一旦切ります。
フロートでした。続く。