<見晴らしの良い草道を行く>
歩いて巡る中山道六十九宿(第15回);第2日目(2);鏡の里と藤原宿
(五十三次洛遊会)
2012年11月16日(金)~19日(月)
第2日目;2012年11月17日(土) (つづき)
<鏡の里・大篠原地図>
↓ 鏡の里詳細図
※街角の案内図から引用転載
<竜王町に入る>
■草付きの小径
横関橋を渡って日野川の左岸沿いの堤防道を西北西に歩く.両側を灌木や草花に覆われた心地よい小径が暫くの間続く.相変わらず雨が降り続いているが,しっとりと濡れた木々の緑が私達の心を和ませてくれる.
何時も顔を合わせている仲間だが,後ろ姿だけでは,誰か直ぐには分からないが,派手な赤のヤッケと黄色のザックカバーの人が私の前を歩いている.渡しは咄嗟に交通信号を連想する.辺りの緑を合わせれば,交通信号の「赤」「黄」「青」が全部揃っている.
“また,馬鹿な連想をしているな・・・”
私はすぐに変なことを連想する自分自身がおかしいなとニタニタしながら,この交通信号三の後に続く.
<心地よい草付きの道>
■若宮神社
やがて草道は堤防から離れて,西横関の集落に入る.
11時16分,進行方向右手にある若宮神社に到着する.立派な鳥居とその奥に社殿が見えている.
境内に立ち寄って参拝を済ませる.ついでに2~3分の立ち休憩を取る.
<若宮神社>
■浄泉寺
続いて,11時21分,若宮神社と道を挟んで反対側のすぐ先にある浄泉寺参道入口を通過する.地図を見ると,写真に写っている白い自動車のすぐ先に浄泉寺があることは分かってはいるが,雨の中,たったこれだけの路地でも,わざわざ入る気がしない.まあ,いいや・・・で,素通りする.
結局,浄泉寺の由来などは分からずじまいである.また,雨だと調べる気にもならない.
地図を見ると,浄泉寺の直ぐ側に正蓮寺という寺があるはずだが,ここもパスする.
<浄泉寺入口>
■伊勢道道標
11時26分,信号西横関で国道8号線の5差路を渡る.5差路から先,300メートルほどは国道8号線に沿って歩くことになる.
五叉路を渡ったところに伊勢道道標が立っている.「是よりいせみち」と刻字した石の道標が立っている.
<伊勢道道標>
■雨にも負けず・・・
暫くの間,国道8号線を歩いた後,11時34分,右折して旧道に入る.資料4(p.64)には,新聞販売店を目印にして右折するような図面になっているが,私達が見た範囲では,肝心の新聞販売店が見当たらないので,少々まごつく.
国道を離れると車の騒音から解放される.旧道は直ぐに田んぼが広がる田舎道になる.人通りも全くないので,傘を挿しながら道幅一杯に広がって楽しく(?・・やけくそかな?)歩き続ける.
<雨にも負けず・・・>
<鏡の里に入る>
■鏡の里の面影
やがて一面の田園地帯を抜けて「鏡」の集落に近付く.いよいよ鏡の里へご到着である.
鏡の里は,古来から東山道,中山道の宿場であり,源義経元服の地として有名なところである.私は心の中で.
“いよいよ「鏡の里」だな・・”
と雨で沈みがちな自分の心に“渇”をいれる.
11時35分,「亀や跡」の案内板を見掛ける.また,直ぐその先で「京屋跡」の案内板の苗を通過する.
■郵便局
11時36分,郵便局を通過する.この郵便局は,どうやら国土地理院の25000分の1の地形図には掲載されていないようである(最新版では掲載されているかもしれないが・・).
<郵便局>
■道祖神群
11時37分,進行方向右手に祀られている道祖神群を見物する.後ろに塀があるので,ボンヤリ歩いていると,道祖神群が塀に隠れて見えないので,見落としそうである.
この道祖神群は,地元に方から大切に扱われているらしくて,色とりどりの花が供えられてる.
見ているだけで心が和む道祖神群である.
<道祖神群>
■吉田屋跡
11時31分,信号鏡口に到着する.ここからまた国道8号線に沿って西へ歩き続ける.
11時40分,吉田屋跡を通過する.
<信号鏡口> <吉田屋跡>
■真照寺
11時40分,真照寺に到着する.天台宗真照寺派の寺である.
資料5には「当初は天台宗で月鏡山無量寿院と号した.開基は月鏡山楞厳院の僧と言われている.文明年間(1469~87)西教寺の円戒の巡化によって天台真盛宗の末寺となった.延宝3(1675)年長栄のとき再建され,明治初年亮哲の時に本堂の改築が行われた.昭和12(1937)1月,不審火によって焼失.昭和17(1942)年亮寛のとき本堂を再建した.(『竜王町史』)」という説明がある.
<真照寺>
■枡屋(?)
11時41分,枡屋(跡?)に到着する.ここの案内板には「跡」という字が入って居ないので,ちょっと戸惑う.多分,「跡」だとは思うが・・・
でも,白壁がはげ落ちた土蔵の風情に,なんともいえない“わび”を感じるので,デジカメに収める.
<枡屋>
■源義経宿泊の館跡
11時43分,石塔のある空き地に到着する.石塔には「源義経宿泊の館跡」と刻字してある.
<源義経宿泊の館跡>
■本陣跡
11時44分,本陣跡に到着する(写真はボケてしまった).
雑草が生え繁る空き地に,本陣跡を示す案内板が立っているだけで,昔を偲ぶ縁もない.
<本陣跡>
<鏡神社参拝>
■立派で厳かな雰囲気の参道
緩やかな登り坂が続く.
11時46分,鏡神社に到着する.ここから少し先に道の駅があるためか,先頭が鏡神社を通過しようとする.
私は,先頭を呼び止める.
「鏡の里では,この鏡神社が目玉でしょう・・・ここだけは見ておきましょう・・・」
このとき,私は例え一人になってでも,断固,ここだけは見ておきたいと決心する.前回,平将門墓を無念にも通過してしまった無念が心の中で湧出してくるのを押さえられない.
幸いなことに,全員が鏡神社を見学することになる.私は内心で“ホッ”とする.
<鏡神社の参道>
■鏡神社本殿
荘厳な雰囲気の参道を登り詰めると森に囲まれた本殿に到着する.
境内の掲げられている「鏡神社由緒」によると,創建された年代は不詳.主祭神天日槍尊(アメノヒホコノミコト).
牛若丸は京都鞍馬から奥州への旅の途中,鏡の里に宿泊する.そして,鏡神社境内宮山の清水を烏帽子につけて元服する.このとき義経は16才.
鏡神社の本殿は明治34年に重要文化財に指定されている.また境内にある宝篋印塔,石灯籠も重要文化財である.
<鏡神社本殿>
■源義経烏帽子掛けの松
11時52分,鏡神社の直ぐ近くにある源義経烏帽子掛けの松に到着する.
傍らの案内板の説明によると,鏡の宿で元服した牛若丸は,この松枝に烏帽子を掛け鏡神社へ参拝し源九郎義経と名乗りをあげ源氏の再興と武運長久を祈願した.明治6年(1873年)の台風で,この松は折損したため幹の部分を残して保存している.
<源義経烏帽子掛けの松>
■謡曲「烏帽子折」
私は残念ながら謡曲の知識はゼロ.全く分からないが.鏡神社の境内に掲示されている説明文によると.謡曲に「烏帽子折」というのがあって,鞍馬山から脱出して奥州に向かった牛若丸が,この地鏡の里で盗賊を退治し元服,そして,鏡の里を出発してから,赤坂の宿で熊坂長範(くまさかちょうはん)に襲われるが撃退し奥州に下るところまでを主題にsているという.
資料6には,「熊坂長範(くまさか ちょうはん)は,平安時代の伝説上の盗賊.室町時代後期に成立したとされる幸若舞『烏帽子折』,謡曲『烏帽子折』『熊坂』などに初めて登場する.牛若丸(源義経)とともに奥州へ下る金売吉次の荷を狙い,盗賊の集団を率いて美濃青墓宿(または赤坂宿)に襲ったが,かえって牛若丸に討たれたという.源義経に関わる大盗賊として広く世上に流布し、これにまつわる伝承や遺跡が各地で形成され、後世の文芸作品にも取り入れられた.」と説明されている.
私には「幸若舞」などという難しいことは分からないので,自分の知識のなさにイライラするが,これ以上の詮索はヤメにしよう.
<鏡の里道の駅>
■道の駅に到着
11時56分,ほぼ予定通りの時間に鏡の里道の駅に到着する.ここまで車で来て道の駅を利用する人が多いので,店内は結構混雑している.
私達は鰻の寝床のように長い席に座らせられる.
<鏡の里道の駅に到着> <ズラリと並んで座る>
■ラーメンを賞味する
私はラーメンを注文する.ここ2~3年,カロリーが高いという理由で,ラーメンを敬遠してきたので,本当に久々のラーメンである.
<久々のラーメン>
<藤原宿>
■源義経元服池
道の駅で昼食を終えて,12時44分,道の駅を出発する.
相変わらず雨が降っている.
12時46分,道路を挟んで反対側にある源義経元服池を眺める.見頃を迎えた紅葉が,池の上に被さるように繁茂している.
800年余りも後の世に,自分が元服した池が観光地になっているとは・・・源義経はこれっぽっちも想像していなかったろうに・・・
そんなことを連想しながら,小さな池の写真を撮る.
<源義経元服の池>
■明治天皇聖跡
12時48分,明治天皇聖跡に到着する.小さな空き地の奥に巨大な石碑が立っている.
<明治天皇聖跡碑>
■藤原宿の盛衰
この辺りで鏡から続いていた集落は途絶える.
傍らに立つ案内板の説明によると,鏡の里からこの辺りまでは古い中山道の主かが下を止めているが,この辺りは古代の東山道もほぼ同じところを通っていたという.
ここ藤原には,東山道時代に駅家が置かれ,15頭の馬が配備されていた.そして藤原駅として栄えていたが,鎌倉時代になると次第に藤原宿は衰え,宿場は鏡の方に移っていったという.
<大篠原>
■平宗盛・清宗終焉地
暫くの間,集落は途絶える.私達は西南西に向けて歩き続ける.相変わらず雨は降り続いている.
12時56分,「平宗盛終焉地」と刻字された案内杭を見付ける.ここに大きな墓石が2基並んでいる.これらは平宗盛(清盛の子,平家最後の総大将)・清宗墓である.
傍らの案内板に壇ノ浦の合戦の様子が記述されている.二人は壇ノ浦の合戦で源義経に捕らえられる.そして,鎌倉に護送される途中,この地で斬首され,首は京都に護送され,三条河原でさらし首にされた.また,二人の胴は一緒にこの地に埋められたという.
<平宗盛・清宗墓>
■蛙不鳴池
13時01分,蛙不鳴池(かわずなかずいけ)が見下ろせるところに到着する.
先ほどの平宗盛・清宗墓にあった案内板によると,二人が斬首されたことを哀れんだこの池の蛙達はその後鳴かなくなったと伝えられている.
雨はしつっこく降り続いている.川面に雨粒の波紋が無数に広がっている.
“クソ~ッ! 馬鹿雨め!”
何時までも降り続く雨は,歩いている人間にとっては,実に不愉快である.
<蛙不鳴池>
■東池
蛙不鳴池を過ぎると,また単調な道が続く.道路の両側には新しく作られた家が並ぶ.
地図を眺めながら,そろそろ東池の湖畔沿いの道を通っているはずだと思うが住宅に遮られて,池はまったく見えない.
13時05分,浄勝寺交差点に到着する.
先頭は素通り使用とするので,またもや呼び止める.
「この交差点を左折するとすぐに東池です・・・一目見ておきましょう」
と促す.
交差点からほんの50メートルほど緩やかな坂を登ると東池が見渡せる.一旦見てしまうと,特段どうと言うこともない池だが,一目見ればそれで納得する.
<東池>
■浄勝寺
再び浄勝寺交差点に戻る.
交差点の角に建つ浄勝寺の本堂が,仲間の傘越しに見えている.雨の中,この寺に立ち寄る気分にもなれないので,そのまま通過する.
浄勝寺の由来だが,雨の日に歩いたので,意気消沈,調べる気にならない.
<浄勝寺交差点>
■見当たらない立場跡と読めない道標
浄勝寺交差点から国道8号線の北側に分岐する旧道に入る.道の両側には大篠原の集落が続く.
地図を見ると,もう暫くで大藪原村立場跡があるはずだが,見付けられないまま,それらしき場所を通過してしまう.残念だがやむを得ない.
13時13分,古い道標を見付ける.「是より■・・・・■」と刻字してあるが,私には殆ど読めない.
<古い道標>
■笠原神社入口
13時14分,笠原神社と刻字した大きな石柱の前に立つ.参考にしている地図には,この神社に該当するところに神社のマークがないので,どこに本殿があるのか,正確な位置が分からない.霊によって,まあ,いいか・・・で通過する.
<笠原神社入り口>
■西池の堤防(篠原堤)
13時24分,西池の堤防下を歩く.案内板によると,雄略天皇の時代(413年頃),近江国に48箇の池を整備したが,この西池はその一つだという.また西池の長い堤が源平盛衰記にも登場するという説もある.
<西池の堤防>
■西池の眺望
地図で見ると西池は随分と大きな池である.わたしはどんなところかと興味を持つ.
“ひょっとしたら堤防の上に道路があるかも知れないな”
と思って,雨と草に着いた滴でビショビショになりながら,この堤防の上に這い上がってみる.残念ながら,堤防の上も腰まで達するような雑草で覆われているが,広い池の眺望が素晴らしい.
「眺望が素晴らしいよ・・・」
と言うと,好奇心が強い数名の方が,今来た道をわざわざ数十メートル戻って,草むした堤防の石段を登って見物する.
<西池の眺望>
(つづく)
[参考資料]
資料1;岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料2;ウエスト・パブリッシング(編),2008,『中山道を歩く旅』山と渓谷社
資料3;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料4;五街道ウォーク事務局,発行年不詳,『ちゃんと歩ける中山道六十七次』五街道ウォーク事務局
資料5;http://futsu-no-otera.jp/?p=676
資料6;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E5%9D%82%E9%95%B7%E7%AF%84
「中山道六十九宿」の前の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/72c7cb285c19ccd1750d8e99f6f0f726
「中山道六十九宿」の次の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/757931e9b18389d677df71aa9d01c68b
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