<雨の養専寺>
歩いて巡る中山道六十九宿(第15回);第2日目(3);銅鐸の里桜生
(五十三次洛遊会)
2012年11月16日(金)~19日(月)
第2日目;2012年11月17日(土) (つづき)
<桜生・野洲地図>
<小堤の集落に入る>
■正蓮寺
西池の堤防を通過した私達は,13時30分,正蓮寺に到着する.手許の資料では,この寺の由来は不明である.
正蓮寺を過ぎて間もなく,高谷石材店前で国道8号線を右折して,道幅の狭い旧中仙道の小堤という集落に入る.
<正蓮寺>
■常夜灯
13時42分.常夜灯など大きな石塔が3基安置されているところに到着する.真ん中の石塔には「愛■・・■(読めない)」と刻字されている.
<立派な常夜灯>
<家棟川とその周辺>
■家棟川のトンネル
13時42分,家棟川に到着する.
傍らに掲示されてる説明文によると,この辺りはいわゆる天井川で,川底の高さが家屋の棟のところまであったという(いわゆる扇状地だったのだろう).
大正6年(1917年),大正天皇陸軍大演習視察の行幸にあたり,天井川の下に突貫工事でトンネルが掘られ,家棟隧道と呼ばれた.昭和28年,国道8号線の開通まで,中山道として利用されてきたが,家棟川の切り下げ工事を機に,このトンネルは撤去されたという.
<家棟川隧道の歴史>
■家棟川の砂防
この説明文の隣にもう一枚の説明文が掲示されている.ここには,およそ次のようなことが書かれている.
家棟川上流の山は風化した花崗岩で形成されているため,雨の度に大量の土砂が流下し,家棟川は天井川になってしまった.そのためこれまで何度となく堤防決壊などの大きな災害を繰り返してきた.
そこで平成7~19年度(1995~2007年度)まで,総事業費約31億円を掛けて,天井川の川底を最大10メートル掘り下げた.その結果,国道8号線の上を通過していた天井川の平地河川化が実現した.
この工事の規模は延長803メートルの長さに及び,掘削した土の量は約20万立方メートルにも達したという.
■家林川新橋
13時42分,家林川新橋を渡る.
相変わらず雨がシトシトと降り続いている.近くの山も雨のために霞んで見えている.実に憂鬱である.
■篠原神社
13時44分,家棟川の下を潜る家棟隧道を通過して,篠原神社参道入口に到着する.深い緑の木々に覆われた参道の奥に立派な鳥居が見えている.さらのそのずっと先に社殿があるようだ.
地図で確かめると,参道入口から本殿までは200メートルほどの距離がある.雨の中,わざわざ寄り道して参拝する気にはなれないので,そのまま通過する.
<篠原神社参道>
■子安地蔵堂
13時48分,子安地蔵堂に到着する.立派な門構えで,中に入るのに少々気が引けるが,腰を低くして,境内に入る.
境内の案内板の説明によると,往時この地方には比叡山三千坊に数えられた多くの巨刹があった.その中に天台系嘉祥寺に安置され元亀の兵火を免れたのがこの地蔵菩薩像だという.
残念ながら地蔵堂の中のお姿は拝見できないが,極彩色等身大で蓮台に腰を掛け左手を垂下し右足を曲げて左膝に置き左手に薬玉を右手に錫杖を持っているという.平安時代末期の作で,檜が使われているとのこと.
<子安地蔵堂の山門> <地蔵堂>
■露座の地蔵群
庭の奥まったところに露座の地蔵が鎮座している.その廻りを数十体の小さな地蔵が取り囲んでいる.地蔵は実に穏やかな表情をしている.ご尊顔を拝している内に,何となく自分の心も和んでくる.
<露座の地蔵>
<古墳と銅鐸の里桜生>
■桜生史跡公園
13時54分,桜生史跡公園に到着する.
地図で確かめると,こんもりとした森の辺りに大岩山古墳群があるらしい.
資料4(p.65)によると,ここには園墳が2箇,前方後円墳が1箇あるとのことである.また,ここから家型石棺が発掘されているらしい.国史跡指定を受けている.
なお,近くに銅鐸博物館がある.
<桜生史跡公園>
■銅鐸の里桜生
公園沿いの道を西南西に歩く.
14時丁度に「銅鐸の里桜生」の案内板を見掛ける.地図で確かめると,近くに銅鐸博物館があるらしい.
資料4(p.65)によると,この辺り一帯は大岩山遺跡と言う.明治時代の初めに14口,昭和30年代に10口の銅鐸が出土している.
<銅鐸の里桜生>
■お堂と石柱
14時04分,お堂と石柱がある小さな公園風の場所に到着する.石柱には何か字が書いてあるが,全く読めない.このお堂何なんだろう?
<お堂と石柱>
■稲荷神社境内図
14時10分,野洲中学校の隣にある稲荷神社に到着する.
近くに立っている稲荷神社の境内図を見ると,随分と規模が大きな神社である.
大きな鳥居なので写真には柱の部分しか写らない.
鳥居から先は広い参道になっている.
■稲荷神社の鳥居
まずは鳥居から境内の写真を撮る.鳥居が大きいので2本の柱しか写らない.
鳥居の先には参道が続く.まだ雨が降っているので,境内散策と参拝は省略するが,こんもりとした森に囲まれた立派な神社のようである.
本殿は室町末期に建てられたもので,国重要文化財に指定されているらしい.
<稲荷神社>
■養専寺
14時16分,養専寺に到着する.ここで,参拝と小休止をする.
手許の資料では,養専寺の由来は不明.
<養専寺>
■東海道新幹線のガード
14時19分,東海道新幹線のガードを潜る.私達は東海道本線野洲駅近くを歩いている.いよいよ野洲に到着である.
でも,しつこい雨は,朝からずっと降り続いている.
<東海道新幹線のガード>
<外和木>
■中山道・外和木の標
新幹線のガードを潜ってからほぼ西へ歩き続ける.
14時27分,中山道野洲道標を通過する.道標の近くに「中山道・外和木の標」という説明文がある.この説明文を要約すると以下の通りである.
「中山道は,東海道に対し東山道,あるいは中仙道と呼ばれた時期があったが,その歴史は古く大化の改新以前から存在する重要な道であった.ところが新しい道路ができると,中山道の重要な役割を知る人がだんだんと少なくなっている.
この案内板から西へ約180メートルの所に,江戸時代に朝鮮の外交使節を迎えた朝鮮人街道との分岐点があるが,歴史的にも意義深い場所である.そこで,この歴史的意義を末永く伝えるために修景整備事業を実施した.
「外和木の標」の名は.この土地と朝鮮人街道との分岐点の地名が小篠原字外和木であることから名付けたものである.」
<外和木の道標>
■朝鮮人街道分岐点
14時30分,朝鮮人街道との分岐点に到着する.
ここが,先ほどの案内板に記載されていた朝鮮人街道との分岐点である.写真が大分ボケてしまったのが残念である.
<朝鮮人街道分岐点>
■蓮照寺
14時35分,蓮照寺に到着する.手許の資料ではこの寺の由来は不明である.
<蓮照寺>
■顕了寺
続いて,14時38分,顕了寺に到着する.ここは浄土真宗本願寺派の寺のようである.
手許の資料では詳細不明.
<顕了寺>
■東海道本線のガードを潜る
14時43分,東海道本線のガードを潜る.
私達は,いよいよ67次の守山宿に入る.
<東海道本線のガード>
(つづく)
[参考資料]
資料1;岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料2;ウエスト・パブリッシング(編),2008,『中山道を歩く旅』山と渓谷社
資料3;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料4;五街道ウォーク事務局,発行年不詳,『ちゃんと歩ける中山道六十七次』五街道ウォーク事務局
「中山道六十九宿」の前の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/060e380ed9f8cb0237be0af0bcfe79a0
「中山道六十九宿」の次の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/701d1d86d7a30560f92c35d9f0334c5c
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