中高年の山旅三昧(その2)

■登山遍歴と鎌倉散策の記録■
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歩いて巡る甲州道中四十四次(第1回);(4)初台から八幡山まで

2013年03月11日 22時43分36秒 | 甲州道中四十五宿

                                <覚蔵寺の紅梅>

  歩いて巡る甲州道中四十四次(第1回);(4)初台から八幡山まで
            (五十三次洛遊会)
          2013年3月3日(日) (つづき)

<ルート地図>





<初台から笹塚付近まで>

■玉川上水旧水道緑道
 初台駅で休憩を取った後,14時16分に初台駅前から玉川上水路緑路に沿って歩き出す.
 正確に言えば正式な甲州道中は右手に見えているビルを挟んで並行して走っているが,わずかに位置がずれているだけなので,まあ,玉川上水跡を歩くのも悪くないかなと思う.
 上水跡は自転車置場や公衆トイレなどがある公園風の散歩道になっている.ただ残念ながらほんの数分歩くと,元の騒々しい甲州街道に合流してしまう.

<玉川上水路緑路>

■牛窪地蔵尊
 暫くの間は,特に注目すべき遺構もないので,車の往来が多い甲州街道を西へ,西へと歩き続ける.
 初台駅前から30分ほど歩いて,14時46分,牛窪地蔵尊に到着する.
 狭い敷地の突き当たりに背の高いコンクリート製のお堂が建っている.その中にかなり大きな地蔵尊立像が安置されている.逆光でしかも格子越え,その上お顔の前に「牛窪地蔵尊」と書かれた赤い大きな提灯がぶら下がっているので.地蔵尊のお顔を拝むことはできない.
 傍らにある案内文によると.この地蔵尊は正徳元年(約260年前)に建立されたもの.向かって右側にある庚申塔は享保9年に建てられたという.
 以前この地は,極悪人の刑場として,最も厳しい牛裂きの刑が失効されるところだった.罪人の両足に牛を繋いで股を引き裂くという残酷な刑が執行されていたようである. 宝永年間から正徳年間にかけて,この辺りで悪疫病が流行した.これは極刑に処せられた罪人の霊のたたりだと伝えられ,子供の安泰を守り,苦難のときの身代わり地蔵として尊崇されていたという.

<牛窪地蔵尊>

■道供養塔
 牛窪地蔵尊と同じ敷地に道供養塔が立っている.その右隣に新しいものと思われる「交通事故遭難慰霊碑」が並んで立っている.また,左側には庚申塔がある.
 傍らにある説明文によると,「道祖神,地蔵尊などの交通安全,悪魔退治の呪術的信仰とは異なり,これは橋供養と同じように,道路自体を供養して報恩感謝の念を捧げることにより,交通安全を祈ろうとする前語句でも珍しい供養碑」である.また,この辺りは「甲州街道と中野通が交わるところで,周囲より少し低い窪地になっていて,牛ヶ窪と呼ばれており,雨乞い行事を行う場所」であった.

<道供養碑と庚申塔>

■笹塚付近を通過
 そろそろ,日本橋から3里目の笹塚一里塚跡がある筈である.地図を首っ引きにしながら,一里塚の痕跡を探しながら歩くが,どうも見当たらない.その内に,笹塚駅前に到着してしまう(14時53分).
 どうやら笹塚一里塚跡は通過してしまったようである.仕方なく,一里塚跡は諦めて,先を急ぐことにする.

<笹塚駅前を通過>

<世田谷の社寺・旧跡>

■見当たらない三郡橋跡
 その後,高架道路下の甲州街道を西へ歩き続ける.資料を見ると,そろそろ三郡橋跡を通過するはずだが,どうも何処にあるか分からない.そうこうしている内に見落としてしまう.
 資料1によると,「三郡橋は,往時流れていた川に架かる橋であり,ここまでが「としま郡」,北が「たま郡」,南が「いばら郡」,現在の渋谷区,杉並区,世田谷区と三郡との酒井であった」という.
 ここからさらに西へ進んだところに萩久保立場跡があるはずだが,ここも分からないまま通過する.

■明治大学和泉学舎
 15時22分,明治大学和泉学舎の前を通過する.田舎者の私は,壮大で立派な学舎を見て,ビックリする.
 “こんな立派な学校で勉強してみたかったな…”
と率直に思う.
 "大学の写真など撮って,どうするの?”
と,もう一人の私が私を揶揄するが,羨ましかったので,ついつい何枚かの写真を撮る.

<明治大学和泉学舎>

■塩硝蔵地跡
 広大な明治大学キャンパス沿いの道を西へ進む.
 15時23分,塩硝蔵地跡に到着する.ここには説明板が立っているだけで,遺構らしいものは何もない.
 説明板によると,「明治大学和泉校舎および本願寺派築地別院和田堀廟所のあたりには,江戸幕府の塩硝蔵(鉄砲弾薬などの貯蔵庫)として使用」されていた.「当初は,多摩郡上石原(現調布市)にあったと伝えられている」そうである.
 明治維新で,「この塩硝蔵は官軍に摂取され」,ここにあった弾薬は「上野彰義隊や奥州諸藩の平定に使用され」,「その後,兵部省を経て,陸軍省和泉新田火薬庫として」使用されていたが,「大正末期に廃止された」という.

<塩硝蔵地跡>

■本願寺派築地別院和田堀廟所
 明治大学和泉キャンパスの隣に本願寺派築地別院和田堀廟所がある.
 この寺は浄土真宗本願寺派.本尊は阿弥陀如来.
 資料3によると,「築地本願寺は江戸時代の1617年に,西本願寺の別院として浅草近くの横山町に建立.「江戸浅草御坊」と呼ばれていた.しかし明暦の大火(振袖火事)により本堂を焼失.その後,幕府による区画整理のため旧地への再建が許されず,その代替地として八丁堀沖の海上が下付された.そこで佃島(現中央区佃)の門徒が中心となり,本堂再建のために海を埋め立てて土地を築き(この埋め立て工事が地名築地の由来),1679年に再建.「築地御坊」と呼ばれるようになった.なお,このときの本堂は西南(現在の築地市場)を向いて建てられ,場外市場のあたりが門前町となっていた.その後関東大震災による倒壊は免れたが,すぐ後に起こった火災により再び伽藍を焼失.また,58ヶ寺の寺中子院は,被災後の区画整理により各地へ移転」した.
 築地本願寺和田堀廟所は「
関東大震災より焼失した際,境内にあった墓地を当地に移転したもの.本堂などもある」という.

<本願寺派築地別院和田堀廟所>

■紀元は二千六百年
 本願寺派築地別院和田堀廟所の境内に「皇紀二千六百年記念」と刻字された石柱が立っている.
 昭和1桁生まれの私には,「皇紀二千六百年」は実に懐かしい.当時のことを余り詳しく記述すると私の年令がハッキリ分かってしまうのでやめる…が,当時小学生だった私は,
 ”紀元は二千六百年,嗚呼,一億の・・・・”
と歌を今でも思い出すことができる.
 とにかく,良い悪いは別にして,実に懐かしい.
 同行の皆さんは,皆さん年配者である.しかし,皇紀二千六百年を懐かしがっているのは私の他にもう一人居るだけ.皆,同じように年を取っているように見えるが,受けた教育内容が全く異なっていることを,再認識させられる.
 そういえば.どこかで「八紘一宇」と刻字した石柱を見たときも,今の60歳代の方々から,
 ”八紘一宇って何ですか?”
と質問されて唖然としたことを思い出す.

<皇紀二千六百年記念の碑>

■真教寺
 15時31分,甲州街道から右折して,閑静な住宅地の路地に入ってすぐの所にある真教寺に到着する.2本の石柱の門がある.何となく仕舞た屋風の寺である.ちょっと中に入りづらい雰囲気である.門の外から,そっと境内を覗いただけで,早々と立ち去る.
 資料4によれば,この寺は「浄土真宗本願寺派寺院.三宝山と号し,もと築地本願寺の寺中寺」である.「黒田甲斐守の嫡子,真了法師が江戸麻布村(現港区元麻布)に文禄3年(1594)に創建し,関東大震災後の区画整理で当地へ移転した」という.

<真教寺>

栖岸寺
 真教寺の直ぐ隣にある栖岸寺を一寸覗いてみる.
 資料5によると,この寺は「浄土宗,山号は村高山.知恩院末.栖岸院はもと三河国村高庄(現愛知県安城市)にあった長福寺という浄土真宗の寺で,天正19年(1591)麹町八丁目に寺領を拝領して江戸に移り,寛永16年(1639)に安藤重信の子重長が中興開基となって,父重信を開基,妙誉秀慧を開山に招聘,浄土宗の寺として改めて開創,大正9年に当地へ移転した」という.

<栖岸寺? もしかしたら写真を取り違えているかもしれない>

<下高井戸宿>

■下高井戸宿の概要
 資料2(p.260)によれば,下高井戸宿の宿内人口は890人.内,男,439人,女,452人.宿内惣家数は183軒.内,本陣1軒,旅籠3軒.
 資料6には,「
高井戸宿(たかいどしゅく)は,かつて甲州街道にあった上高井戸宿および下高井戸宿の合宿.現在の杉並区高井戸にあった.通行大名が少なく脇本陣は置かれなかった.当初は,甲州街道の1番目の宿場であったが,後に内藤新宿が設置され,次第に素通りするものが多くなった.周辺住民は農業を主としており,一宿で継ぎ立てを勤められず,月初から15日までを下高井戸宿,16日から月末までを上高井戸宿が勤める合宿としていた.下高井戸宿は日本橋から4里.宗源寺(下高井戸4-2-3)の左隣の「富よし」に本陣が置かれた.本陣前が高札場,本陣向かい側の少し日本橋寄りが問屋(細淵家)跡となる.」という説明がある.

■覚蔵寺

 15時52分,覚蔵寺に到着する.
 参道入口を借りて,小休止する.
 本堂に向かって左側に,ちょっと小太りしたかに見える日蓮上人の立像が安置されている.
 資料6によれば,「清月山覚蔵時は日蓮宗の寺で,本尊は十界曼荼羅・宗祖日蓮聖人像である.もと真言宗の寺だったが,慶長年間(1596~1614)に日蓮宗に改宗,中興開山は実成院日相と伝えられている.当寺に安置されている鬼子母神像は日蓮聖人の直刻と伝えられている.文永8年(1271年)聖人が滝ノ口法難にあわれる前,一老女からごまのぼた餅を供養され,そのお礼として手渡したものであるといわれている.」という.この像は「江戸時代の中頃に,鎌倉の妙法寺から当寺に安置され,それ以降開運鬼子母神として,人々の信仰を集めるようになり,寺運も大いに栄えたといわれている」という.
 この寺の由来を紐解くと,鎌倉の常栄寺(通称ぼたもち寺)や妙法寺とも関係があることが分かり,鎌倉の住民でもある私には,とても興味を引かれる寺である.

<覚蔵寺>

■宗源寺
 15時59分,覚蔵寺の隣にある宗源寺を訪れる.いわゆる観光寺ではないので,境内には人の気配もなく静まり返っている.
 山門近くにある案内板の説明によると,この寺の3号は叡昌山.十界諸尊を本尊とする日蓮宗の寺である.光伯院日善が慶長年間(1596~1614年)に開山.日善は畠山重忠の末裔とのこと.


<宗源寺>

■富吉本陣跡・問屋跡
 資料1によると,宗源寺の近く,下高井戸1丁目付近に富吉本陣跡と高札場跡があるようだが,残念ながら見つからない.
 道路を挟んで反対側に問屋跡があるはずだが,こちらも見付けることができなかった.

■沢山の石柱や道標
 16時06分,沢山の石柱,道標,道祖神,灯籠,宝篋印塔が立ち並んでいる所に到着する.余りに沢山の石造物があるので一瞬ビックリするが,ここがどういう場所か分からないまま,通過する.

<沢山の石像物が立ち並ぶ一角>

一里塚跡・本陣跡
 信号下高井戸五丁目で,鎌倉街道と交差する.ここに日本橋から4里目の一里塚跡があるはずだが,残念ながら見付けることができないまま通過する.
 さらに,信号上高井戸一丁目付近に本陣跡があるはずだが,全く痕跡も見当たらない.

<八幡山駅で解散>

京王線八幡山駅
 16時25分,京王線八幡山駅に到着する.
 ここで,甲州道中四十四次第1回目の旅は終わりである.リーダーのO野さんが締めくくりの挨拶をして解散する.
 何事もなく,無事に第1回目の旅が終わって何よりである.終始,和やかな雰囲気で歩けたのが嬉しい.ただ,一つ難点を言えば,何回も注意しないと,すぐに歩道一杯になって歩くことである.
 私が戦前の教育を受けているからかもしれないが,とにかく余所様に迷惑を掛けることだけはしたくない.一般道路,ことに住宅地の中の道路は一列に成って粛々と歩いて貰いたい.道幅一杯になって傍若無人になる方々とは,一緒に歩きたくないというのが本音である.
 ”お行儀の良さから採点すると,このグループは,まあ,幼稚園児以下だな”
と私は密かに思っている.
 でも,まあ,戦後生まれの方々だから仕方がないか…


<八幡山駅で解散>

■駅近くの飲食店で懇親会
 旅もどうやら無事に済んだので,駅近くで軽く懇親会を開こうということになる.
 そこで,駅前の市場の2階にある某レストランに入る,全員が参加する.とにかく手造りの旅の第1回が無事に済んで良かった!
 近代五種,つまり酒,タバコ,麻雀,カラオケ,ゴルフのすべてが駄目な私でも,ビール一口は美味しいと思う.ただ一人ではアルコール類を飲みたいとは全く思わない.晩酌などしたことはないが,グループ行動のときは,ほんの一口だけビールでお付き合いすることにしている.
 今日もグラスビールでお付き合いである.
 写真では,このジョッキの大きさはハッキリ分からないが,普通のコップの大きさである.この量ならば丁度良い.
 ビールを飲みながら小一時間雑談してからお開きになる.

<駅前で懇親会>

■夕方帰宅
 懇親会がお開きになってから,私1人で,八幡山16時59分発各駅停車新宿行電車に乗車する.新宿駅で多少迷いながら湘南新宿ラインの電車に乗り換える.
 18時52分に無事帰宅する.
 家の中が賑やかである.北鎌倉に住んでいる長女一家が来ている.可愛い孫娘も一緒である.これから夕食が始まるというグッドタイミング.3世代が一緒の夕食は,どんな豪華な食事より美味しく感じる.
 私は飲めもしないビールを娘の旦那と一緒に,コップ1杯だけお付き合いする.
 今日もハッピー,ハッピーだった.

<ラップタイム>

 8:54  東京駅(八重洲口)発
 9:05  日本橋(9:13まで出発式)
 9:22  東京駅八重洲口
 9:38  和田倉門
10:05  桜田門(10:08まで見学)
10:24  半蔵門
10:30  半蔵門公園(10:38までトイレ休憩)
10:55  平河天満宮(10:58まで参拝・見学)
11:18  心法寺(塩地蔵)(11:20まで参拝・見学)
11:26  四谷見付
11:44  西念寺(11:50まで参拝・見学)
12:19  大木戸跡
12:23  新宿御苑(12:55まで昼食)
13:08  大宗寺(13:11まで参拝・見学)
13:16  成覚寺
13:38  新宿駅南口
13:52  箒銀杏
14:08  初台駅(14:16まで公園でトイレ休憩)
14:46  道供養費
15:23  和田堀廟所
15:31  真教寺
15:52  覚蔵寺(15:54まで参拝・見学)
15:59  宗源寺
16:25  八幡山駅(解散)

 [歩行記録]

■水平歩行距離     16.7km

■累積登攀高度       90m

■累積下降高度       48m

■所要時間(休憩時間込み)
  東京駅八重洲口発   8:54
  八幡山駅着       16:25
  (所要時間)     7時間31分(7.52h)
  水平歩行速度      16.7km/7.52h=2.22km/h

                             (第1回おわり)
                             (第2回に続く)
 
[参考資料]

資料1;完全踏査街道マップシリーズ「ちゃんと歩ける甲州道中四拾四次」五街道ウォーク事務局
資料2;今井金吾,1998,『今昔三道中独案内 日光・奥州・甲州』日本交通公社
資料3;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AF%89%E5%9C%B0%E6%9C%AC%E9%A1%98%E5%AF%BA
資料4:http://www.tesshow.jp/suginami/temple_eifuku_shinkyo.html
資料5;http://www.tesshow.jp/suginami/temple_eifuku_seigan.html
資料6;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E4%BA%95%E6%88%B8%E5%AE%BF

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