中高年の山旅三昧(その2)

■登山遍歴と鎌倉散策の記録■
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善光寺街道;第2回;第3日目(2);上田宿の社寺めぐり

2015年12月26日 03時42分19秒 | 善光寺街道・善光寺西街道

                              <科野大宮社境内

       善光寺街道;第2回;第3日目(2);上田宿の社寺めぐり
                  (五十三次洛遊会)
    2015年10月27日(火)~2016年10月29日(木)

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http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/667dd9ecc558f634979a4e5f2cfc532b

第3日目;2015年8月27日(木)  (つづき) 晴


<ルート地図>

■上田宿

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上田宿詳細図

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<科野大宮社>

■枡形を通過して科野大宮社に到着
 9時52分に信濃国府跡(現;信州大学繊維学部)を通過した私達は,9時55分に一寸複雑な形をした5差路に到着する.地図を頼りに,この5差路の中から善光寺街道を選ぶ.ここは昔の枡形の名残である.
 9時57分,科野大宮社に到着する.資料1によると,ここは信濃国府の総社のようである.格式の高い神社なので,私達も少し時間を掛けて見学することにする.

<科野大宮社に到着>

■科野大宮社の由来
 まずは拝殿へ.
 この神社の由来などについて,
資料3には,以下のような説明がある.
 「
社伝によれば,第10代崇神天皇の御世に神八井耳命の孫・建五百建命(たけいほたけのみこと)による創建という天武天皇の御世に神地の下賜があり,天平年間(729年~749年)には官祭執行の儀があったともいう.
 
信濃国府は古来上田市にあったとされるが,平安時代初期に松本市へ移されたとされる.上田市の国府は神科台地上と推定されており,、当社は国司が参拝する総社であったとする説がある.なお,付近には信濃国国分寺跡,信濃国分尼寺跡も残っている.
 
当社は古来「総社大宮」「科野国魂神」と称したといわれ,中世には「大宮諏訪大明神」と称したと伝える.
 真田氏による上田城
築城以来,当社は城の鎮守と定められ,信濃国分寺三重塔と当社は藩費をもって修繕したという.寛文9年(1669年)頃の城下町古地図には「常田村大宮」と記載されている.明治に入り,近代社格制度においては県社に列し,社名を現在の「科野大宮社」に改めた.」
 なお,主祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)と事代主命(ことしろぬしのみこと)の2柱とのこと.そうは言っても,神様のことがサッパリ分からない私にはチンプンカンである.


<科野大宮社の拝殿>

■赤い大きな鳥居
 境内を拝観する.
 資料2(p.379)によれば,境内に非常に大きな神木の楠があったが,江戸時代に枯れてしまった.そこで藩主がこの木を伐採し,「残った株に屋根を掛けたものが現存している」と記されているが,残念ながら,私はついつい見落としてしまう.
 赤い大きな鳥居が印象的である.
 資料4(pp.42-43)によると,この鳥居の形式は「両部鳥居」という種類らしい.なお同書によると,鳥居の形式は祭神とは無関係だという.さらには同じ神社の中に異なった形式の鳥居がある場合もあるので,どの形式の鳥居にするかは,寄進者の好みの問題だという.
 序でながら…
 神社の鳥居は,なぜ,赤い野が多いのか? 特にお稲荷さまの鳥居は例外なく赤い(正確には朱色)ように思える.これは,私にもとても興味のある問題である.
 私が調べた範囲では,資料5,大野湊神社のHPに掲載されている説明が一番納得がいく.この記事によると,「朱色は魔力に対抗する色であると同時に,神様のお力を高める役割」を持つ色だという.
 なお,鳥居の色は朱色とは限らず,白(正確には白木の色)も多い.例えば伊勢神宮,出雲大社などは白の鳥居とのこと.ちなみに,当該HPの神社の鳥居はコンクリート製だという.そう言えば,鎌倉の大塔宮の鳥居もコンクリート製である. 
 
<赤い大きな鳥居>

<常田毘沙門堂>

■参道に到着

 さて,私達は10時07分に大宮社から250メートルほど西にある常田毘沙門堂に到着する.
 参道入口の両側に,真新しい石柱が立っている.手前の石柱には常田毘沙門堂と刻字された黒御影石の門札が取り付けられている.参道の奥には本堂が見えている.私達は紅葉が見事な木の下を抜けて,社殿に向かう.
 境内に設置された案内板の記事によると,ここは上田市指定記念物(史跡)である.正式な名称は「活文禅師史跡1号毘沙門堂跡」.「文政7年,龍洞院を辞した禅師は岩門の大日堂に隠居し寺子屋をつづけ,ここで生涯を閉じた.ここで教えを受けた人は佐久間象山をはじめ,1000余人に及び,幕末から明治維新にかけて,この地方で活躍した者が多い.禅師は禅学は無論,和漢の学,彫刻,詩歌等にも通じ蘭学を修め,時勢の動きに通じその学識と見識はまことに高く深いものがあった」という.
 資料2(p.379)によると,「文化12年(1815年)から17年間,ここに活紋禅師が多聞院という私塾を開き,松代から佐久間象山も通って学んだ」と記されている.これらを読み比べると「活文禅師」と「活紋禅師」の名前が出てくるが,私には,間違いなく同一人物のことのように思える.どうせ通りすがりの私には,どちらがどうなのかと詮索するつもりなどさらさらない.


<毘沙門堂の参道>

■境内を散策
 境内を一回りする.
 そんなに広い境内ではないが,本堂に向かって左手に正面を金網で囲んだ細長い建屋がある.
 私は不遜にも鶏小屋かなと一瞬思ったが,軒下に「延命地蔵尊」とかいた木札が取り付けられている.金網越しに中を拝見するが,どうも金網が邪魔で良く見えない.建屋の中には赤い涎掛け(かな?)を付けた地蔵尊が数体並べて安置されている.
 ついでその先の本堂を参拝する.
 軒下の額に崩した漢字らしい文字が3字書いてあるが,浅学の私には読めない.でも,右から左に向けて崩し字で「多聞院」と書いてあるんだろうと勝手に想像する.
 
<延命地蔵尊>                              <多聞院(?)>

<日輪寺>

■日輪寺に到着
 10時10分,毘沙門堂から歩き出す.
 10時15分,道路は突き当たって右に直角に曲がる.以前横町という地名だったところである.突き当たりの右手に位置している日輪寺を詣でる.
 資料1によると,海野小太郎幸義が天文14年(1545年)に創建した寺である.海野小太郎幸義は真田昌幸の父の叔父,真田家の祖である.
 資料2(p.380)によると,「日輪寺は真田昌幸の父の叔父,海野幸善(資料1の幸義と同一人物(?))の法名が日輪寺殿からとったもの.本海野の興善寺の末寺.境内の観音堂は仙石氏が建立,中の観音は幸善の念寺仏」だという.

<日輪寺>

■日輪寺本堂
 まずは日輪寺本堂を詣でる.正面には「日輪禅寺」と書いた額が取り付けられている.
 実はこの寺の山号と宗派(臨済宗? 曹洞宗?)を知りたいと思って,帰宅後,インターネットを使って調べた.十分に調べたわけではないが,たったこれだけのことが中々分からない.そのうちにイライラしてきて,調べるのを止めてしまったが,自分で写した下の写真を見て,すぐに騒動宗の寺だと分かった.
 額の下,両側に立像が安置されている.
 ”どなたの立像だろう…?”
と興味を持った私は,とりあえず2体の立像の写真を撮った.その隣に何気なく写っていた案内板を大きく拡大し(下の写真はトリミングして案内板は削除している),ぼやけた文字を判読した結果,向かって右側の立像は,永平寺開山高僧道元禅師,左側は総持寺開山太祖瑩山禅師と判明した.これで間違いなく曹洞宗の寺だと分かった.

<道元禅師(向かって右)と瑩山禅師(向かって左)の立像>

<宗吽寺>

■宗吽寺本堂

 続いて10時20分,日輪寺に向かって左隣にある宗吽寺(そううんじ)を詣でる.
 資料1によると,ここは仙石,松平両家の祈願所で,参勤交代で出発する吉日に,この寺で祈願したという.
 資料6によると,「海堂山宗吽寺は真言宗で紀伊高野山の末寺.もともとは上田城の堀近くにあったものを上田城築城の時にここに移したといわれている.開山は什慶といわれ,中興は慶英といわれている」とのこと.

<宗吽寺本堂>

■宗吽寺境内の清原大師と成田山
 写真を撮りながら境内を見て回る.
 左下に写っているお堂は清原大師,そして右側の写真は多分,成田山(?).ハッキリとは分からない…が,「まあ,いいか」で,写真を撮っただけで素通りする.

 
<清原大師>                                <成田山(?)>

<願行寺>

■願行寺山門
 つづいて,10時32分,この曲がり角から右折,少し中に入ったところにある願行寺(がんぎょうじ)を詣でる.浄土宗の寺.
 立派な山門が目を惹く.早速写真を撮るが,太陽が邪魔をして上手く撮れないのが残念である.
 資料2(p.380)によると,この山門は「唐様四脚門で桃山時代の様式と風格」を備えている.遊行上人の宿舎ともなった由緒ある寺だという.

<桃山時代の様式と風格を伝える願行寺の山門>

■願行寺本堂
 願行寺本堂は,最近建て替えられたらしく新しくて立派である(資料7によると平成14年(2002年)改築).
 資料2(p.380)によると,願行寺は,真田昌幸が上田城築城の際に,本海野から移した寺だという.松平家の菩提寺でもあり,墓地には松平家歴代の墓がある.


<願興寺本堂>

<市神社から上田市役所へ>

■市神社
 10時33分,願行寺を出発して,一旦元の曲がり角に戻る.今度は曲がり角を左折して西へ向かう.
 地図を見ながら,10時そろそろ柳沢本陣跡があるはずの角を右折するが,残念ながら本陣跡は見つけられないまま通過してしまう.多分,現在の「ほていや百貨店」付近に本陣があったと思われる.資料2(p.380
)によると,ほていや百貨店の裏庭に当時の庭の一部が残っている用である.
 10時33分,市神社に到着する.
 この神社は海野町の氏神である.創建は上田城築城の頃のことである.祭神は大国主命と事代主の尊.俗に恵比寿と大黒天である.
 何か例祭があるらしく,社殿の前に「祭」という赤い文字が書かれた提灯が沢山吊り下げてある.

<市神社>

■見物を端折って市役所前へ
 上田は由緒ある歴史の街である.この辺りにはもう少し拝観しておきたい社寺が沢山あるが,参加者の中のお二人が,上田を12時台に発車する軽井沢行の電車に乗りたいとのことで,焦りの色が見え始める.私は内心で,
 ”仕方がないな…,では途中を端折って,1時間半ぐらいで上田城趾を一寸だけ廻って,上田駅に行くことにしよう”
と決める.不本意だが止むを得ない,
 私としては,次回のこともあるし,何よりも新幹線を利用すれば,すぐに東京まで帰れるところを歩いているので,せめて14時30分から15時頃まで歩いて,しなの鉄道西上田駅を終点にしたかた.でも,まあ,仕方がないな…
 …ということで,市神社を参拝してから,一直線に上田市役所を目指す.
 10時46分,上田市役所前に到着する.
 ここで,善光寺街道から一旦離れて,上田城趾公園を一回りして,できるだけ12時の電車に間に合うようにしよう.もし,間に合いそうもなかったら,途中でお二人には上田駅に行ってもらい,残りの4人で予定通り西上田まで歩くことにしよう…と,私は腹を括る.

<上田市役所前>
                                   (つづく)
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[参考資料]
資料1;完全踏査街道マップシリーズ『ちゃんと歩ける善光寺街道』五街道ウォーク事務局
資料2;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料3;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%91%E9%87%8E%E5%A4%A7%E5%AE%AE%E7%A4%BE
資料4;外山晴彦,2002,『歴史がわかる,腑に落ちる神社の見方』,小学館
資料5;http://oonominato.or.jp/knowledge/20130822/
資料6;http://ogino.ninpou.jp/ueda_tera/nichirinzi/
資料7;http://www.asama.ne.jp/t_journal/tera/061027.htm

「善光寺街道」の目次
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/d34e361d25dde7b588c7d9c4ec9c18e4
「善光寺街道」の索引
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「善光寺西街道」の目次
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「善光寺西街道」の索引
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