<長沢家土蔵>
善光寺街道;第3回;第3日目(4);松代散策(象山地下壕と歴史的道筋)
(五十三次洛遊会)
2016年4月20日(水)~2016年4月22日(金)
第3日目;2016年4月22日(金)(つづき) 曇
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http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/aad73af5b6ab43bc59403de194682e0c
<ルート地図>
■象山神社・象山地下壕付近地図
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(再掲)
<象山地下壕>
■象山地下号位置地図 ※観光案内より引用(南北が逆になっている)
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■見学コース ※観光案内より引用
■松代象山地下壕の概要
観光案内によると,「第2次世界大戦の末期,軍部が本土決戦最後の拠点として,極秘のうちに,大本営,政府各省などをこの地に移すという計画のもとに昭和19年11月11日から翌20年8月15日の終戦の日まで,およそ9ヶ月の間に建築されたもので,突貫工事をもって,全行程の約8割が完成した」という.
「地下壕の断面は底長4メートル,頂高2.7メートル,20メートルごとに横の連絡坑がある.壕は倉庫と呼びイ号(象山),ロ号(鶴舞山),ハ号(皆神山)の三ヶ所で掘削された」という.
私も,終戦当時,旧制中学校1年生であった.この松代地下壕については,何となく噂で聞いていたが,これまで見学したことがなかった.
■象山地下壕に到着
11時27分,象山地下壕に到着する.
案内所で入場券を購入し,入口近くの台の上に置いてあるヘルメットを被るように言われる.
”えっ!…ヘルメット!? 一体どんなと頃なんだろう?”
一寸心配になる.
一同ヘルメットを被ると鉱山の従業員のような凜々しい姿に見える.そこで,皆さんのりりしい姿を記念写真として写しておくことにする.
<ヘルメット姿も凜々しく>
■慰霊塔を見物後地下壕入口へ
地下壕入口近くに慰霊塔が立っている.記念碑には「朝鮮人犠牲者追悼平和祈念碑」と刻字してある.その脇にハングル文字も刻字されている.私はハングル文字が読めないので,何と書いてあるか読めないが,多分,漢字で書かれた内容と同じ内容が刻字されていると思われる.
なお,観光案内には,「労働者として多くの朝鮮や日本の人々が強制的に動員されたと言われています」という説明文がある.
<慰霊碑> <地下壕入口>
■大規模な壕に仰天
坑内に入る.天井に,いきなり頭をぶつける.ヘルメットが必要なことが,坑内に入った直後に知らされる.しかし,そこから先には,頭をぶつけるような低い天井の所はなかった.
幅が広い坑道が一直線に続いている.暫く進むと,後悔されている坑道は右に直角に曲がる.ところどころに枝道が掘られているが,入口に金網が設けられていて,中に入れないようになっている.
またまた余談になるが,私は,学生時代,資源工学を専攻していた.その頃,実習で日本各地の炭鉱や金銀銅鉛亜鉛などの採掘現場を訪れたことがある.もう60年近くも昔の印象だから,超,古いことながら.松代地下壕の第一印象は炭鉱に似ているなと思った.ただ,松代地下壕の坑道の広さ立派さは,普通の炭鉱が遠く及ばないほどだと感じた.
<坑道入り口> <所々に枝の坑道が分岐する>
■坑道の終点
坑内には,観光客が結構沢来ている.私達も観光客に混じって,ゆっくり,ゆっくり,公開されている坑道を歩く.
途中で,非公開部分に書かれていた文字の写真が展示されている.
どのくらい歩き続けただろうか,随分と長いなと誰かが言い出す.
「折角だから,行けると所まで行ってみましょう…」
ということで歩き続ける.
案内書で貰ったパンフレットによると,公開されている場所の全長は約500メートルである.11時41分,遂に公開場所の終点まで辿り着く.
終点から,往路をそのまま辿って入口まで引き返す.
私は,坑内を歩きながら,戦争末期のことを回想する.あの頃,確かに”一億火の玉になって鬼畜米英をやっつけるんだ”と子供心にも本気で思っていた.今,考えると,こんな地下壕を作ってでも徹底抗戦とは,如何にもむなしい話である.後々正気になって考えると,このように大規模な地下壕を作るなど,全く狂気の沙汰のように思えてくる.
地下壕の見学を終えた焼け跡派の私は,何となくむなしさを覚えながら,11時52分.地下壕を後にする.
<書かれていた文字の写真> <公開部分の終点>
<歴史的道筋に沿って>
■長閑な道とネコ
地下壕を出た私達は,歴史的道筋に沿って北へ向かう.名前は分からないが小川の右岸沿いの長閑な道をたどる.
途中,11時56分,どなたかが,
「FHさん,ネコが居ますよ」
と教えてくれる.
私が電車のネコの写真を必ず撮るのを知っているから,ネコが居ると必ず教えてくれる.
早速,ノンビリと歩き回るネコの写真を撮る.
<長閑な道> <ノンビリ歩き回るネコ>
■山寺常山邸
11時57分,山寺常山邸に到着する.
そろそろ昼食を摂ることを考えなければならないので,ゆっくり見物する時間はないが,一寸だけの覗いてみる.大きな池と庭園がある.
山寺常山邸については,前回のブログ記事で紹介したとおりである.
<山寺常山邸の入口> <山寺常山邸の池>
■川沿いの長閑な道路
山寺常山邸の前を北に向かって,ノンビリと歩く.長閑で心地よい道が続く.もう,昼時だが,どうもこの辺りにレストランらしい店は見当たらない.地図で,どこか適当な食事処を先に探して,昼食にしようかという意見も出たが,結局は,時間が勿体ないので,食事は遅くなってもいいから,このまま観光を続けようということになる.
長閑な道が続く.誰かが,
「まるで京都の街中を歩いているようですね.素晴らしい所ですね」
と呟くように言っている.
<長閑な散策路を北へ向かう>
■恩田重信生家
12時03分,恩田重信生家に到着する.立派な門と白壁の塀のお屋敷である.
門の前に立っている案内板の記事によると,恩田重信は松代藩士恩田十郎時篤の長男である.東京大学医学部製薬科卒,内務省衛生局,千葉医学校附属病院などを歴任した人物のようである.明治薬科大学の前身,東京薬学専門学校を設立した人物のようである.
<恩田重信生家>
■象山公園
12時04分,恩田重信生家と道路を挟んで反対側にある象山公園の前を通過する.
時間があれば,この公園で一休みしたいところだが,時間が押しているので,残念ながら通過する,
<象山公園>
■馬場家長屋門と無料案内憩所
12時05分,馬場家長屋門に到着する.門の前に立っている案内文の記事によると.御取締役兼御聞役などを務めた松代藩重役の表門である.江戸時代後期の建物とのこと.松代登録文化財である.
続いて長沢家土蔵の前を通過する.白壁の美しい塀が印象的である(冒頭の写真).長沢家は商家であった.
続いてすぐ近くにある立派な門のある無料案内休憩所に到着する.門の近くにある案内板の記事によると,この門は松代藩中級武士であった白井家の表門である.元あった場所から現在地に移転したという.
<馬場家長屋門> <無料案内休憩所の門>
(つづく)
つづきの記事
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「善光寺街道」の目次
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「善光寺街道」の索引
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【参考資料】
「善光寺西街道」の目次
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「善光寺西街道」の索引
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