<東堀正八幡宮の参道>
中山道中六十九宿巡り(75):第9回(15):平福寺と東堀地区の史跡
(五十三次洛遊会)
2010年9月11日(土)~13日(月)
第3日目:2010年9月13日(月) (つづき)
<ルート地図>
<彌林山平福寺>
■彌林山平福寺に到着
8時53分,旧渡辺家住宅前を出発,往路を少し戻り,旧中山道を左折,西へ進む.8時55分,自動車道との交差点手前にある彌林山平福寺に到着する.観光寺ではないので境内には凛とした静寂がある.端正な姿の山門から境内に入る.
■寺の由来
資料1(彌林山平福寺ホームページ)によると,この寺の概要は以下の通りである.
***************************
彌林山平福寺は,弘法大師空海(774-835)の密教を擁護する道場として開創された.その開基は不詳ですが,諏訪下神宮寺僧・憲明阿闍梨(?-1396)の中興とされ,隆盛時には伽藍七宇・門徒十一坊を有する大寺院であった.また傍らに正八幡大菩薩の社があり,仏殿にはその本地仏・阿弥陀如来が安置されていた.しかし,天正・慶長年間(1573-1615)の戦乱・洪水により荒廃した.横河川左岸の古屋敷を離れて,東堀郷と共に現在地に遷された.しばらく仮堂の状態が続いたが,第23世憲栄和尚(?-1729)は,京都智積院にて学び,高野山金剛頂院の法流を受けて帰郷する.高嶋藩主忠虎公(1663-1731)の帰依のもと,諸堂を建立,本尊金剛界大日如来を造顕し,悲願の復興を遂げた.明治初年の廃仏毀釈により,諏訪大社の別当寺が廃寺となる中,縁りのあった下社神宮寺・三精寺・観照寺の檀徒や仏像等が,難を逃れて当山に引き継がれている。日限地蔵尊もこの時に移された.
近年には,檀信徒の方々のご助力により,客殿・会館・山門など,山容の整備が進められるとともに,寺院での様々な活動が続けられている.当山は,歴代住職,檀越縁者の尊いご尽力により,弘法大師の教えを学ぶ道場として,そして仏菩薩や亡き御霊に祈りを捧げる霊場として,長きにわたり護り伝えられてきた.より多くの皆様が,寺院や仏道に親しまれ,こころ安らかで充実した日々をお過ごしになられるよう,祈念している。
**************************
■境内散策
渡辺家の記述で時間を食い過ぎたので,この旅行記ももう少しスピードアップして記述を進めることにしよう.
本堂付近の案内板には,「本尊は大日如来座像で1716年(享保元年),京都の仏師によって造られた.また,日光・月光菩薩立像は廃仏毀釈により春宮観照寺より移転されたもの,同じく日限地蔵堂安置の木造阿弥陀如来座像は,もと秋宮三精寺本尊,廃仏毀釈によって平福寺に移された.これらは何れも岡谷市文化財である」という説明がある.
おひぎりさま
日限地蔵尊は案内板によると,「日を限って願掛けすると,その願いが叶えられることにその名が由来している.大正・昭和初期に全盛を誇った製紙工場の女工の心のよりどころとして,毎月23日の縁日には随分と賑わったと伝えられる,現在も縁日は復興され『おひぎりさま』と呼ばれている.」
立派な鐘楼
境内を散策する.手入れの行き届いた木立の中に立派な鐘楼が建っている.
安心童子
境内の参道を辿ると,安心童子の石造が置かれている.実に可愛い.
興教大師座像
反対側に,この寺の開祖と思われる(確かめてない)興教大師座像がある.開祖150年を記念して造られたもののようである.
釈迦の足跡
お庭の中央辺り釈迦の足跡を彫った(らしい)大きな石が置かれている.この足跡に,どのような意味が込められているのか,正確には分からない.
<塩尻峠を目指して>
■東堀正八幡宮
9時丁度に平福寺を出発する.直ぐ先の交差点を左折して,100メートルばかり南へ進む.そして,9時03分,東堀正八幡宮に到着する.
立派な杉木立に囲まれた厳粛な雰囲気が漂う神社である.人気がなくてひっそりと静まり返っている.神社の案内板を探すが,どうやら無いようである.ただ,先ほどのインターネットの記事から推察すると,もともとはこの八幡宮も平福寺も一体なものであったようである.
境内にある「正八幡宮社合祀社小祠案内図」によると,ここには随分と沢山の神社が合祀されているようである.
■ありゃ! 花岡?
9時08分,八幡宮を出発して,もとの中山道交差点に戻る.資料によると,この交差点に伊那道道標があるはずだが,なかなか見当たらない.どこかにあるのだろうが,分からない.仕方なく探すのを諦める.
ただ,交差点のすぐ近くに「花岡」という商店がある.ご存じの通り,私のハンドルネームはフラワーヒル.日本語に直せば「花岡,端丘,華丘,花丘,・・・」になる.そういえば,昨日もどこかで「フラワーヒル」という名前のビルがあったことを思い出す.
■伊那道道標
11時04分,大きな石柱の前に到着する.石に彫ってある文字から判断して,どうやらこれが伊那道道標のようである.先ほどの資料に記載されている伊那道道標の位置が少しずれているようである.
資料2によると,この道標は1791年(寛政3年)に建立されたもので,百万遍供養塔を兼ねているようである.
■東堀一里塚
9時21分,江戸日本橋から56番目の東山一里塚に到着する.何時しか雨は止んだが,路面はグッショリと濡れたままである.高圧線鉄塔と駐車場に囲まれるようにして「一里塚」と刻字した石碑が置いてある.この石碑自体は,それほど古いものではなさそうである.
■道祖神が続く
続いて9時29分,道祖神の前を通過する.その後,5分置き位に次々と道祖神が祭られている.中には愛らしい双体道祖神もある.
川を渡る.川の名前は記録し忘れたので分からないが,多分,横河川.この川の堤防に沿って少し南下すれば天満宮がある.橋の袂から天満宮の森が見えているが,何となく立ち寄る気がしないので,そのまま通過する.
■出早雄古作神社三之柱
9時31分,道端に置いてある出早雄古作神社三之柱を観ながら通過する.太くて立派な御柱である.
■今井観音堂
9時42分,神社の鳥居の前を通過する.神社の名前は良く分からない.ただ,地図を見ると,この鳥居の奥の参道を少し歩けば今井観音堂と名前の分からない神社があることは確実である.
■今井番所跡
9時43分,今井番所跡に到着する.
いよいよ塩尻峠越も間近である.
(つづく)
資料1;http://www.heifukuji.jp/2009/02/info01.html
資料2;『ちゃんと歩ける中山道六十七次』
「中山道六十九宿巡り」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/c8863ad306ae651e3d4c2d8469bbdd68
「中山道六十九宿巡り」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/d4e422a718b972bd8e5a5c1051336352
中山道中六十九宿巡り(75):第9回(15):平福寺と東堀地区の史跡
(五十三次洛遊会)
2010年9月11日(土)~13日(月)
第3日目:2010年9月13日(月) (つづき)
<ルート地図>
<彌林山平福寺>
■彌林山平福寺に到着
8時53分,旧渡辺家住宅前を出発,往路を少し戻り,旧中山道を左折,西へ進む.8時55分,自動車道との交差点手前にある彌林山平福寺に到着する.観光寺ではないので境内には凛とした静寂がある.端正な姿の山門から境内に入る.
■寺の由来
資料1(彌林山平福寺ホームページ)によると,この寺の概要は以下の通りである.
***************************
彌林山平福寺は,弘法大師空海(774-835)の密教を擁護する道場として開創された.その開基は不詳ですが,諏訪下神宮寺僧・憲明阿闍梨(?-1396)の中興とされ,隆盛時には伽藍七宇・門徒十一坊を有する大寺院であった.また傍らに正八幡大菩薩の社があり,仏殿にはその本地仏・阿弥陀如来が安置されていた.しかし,天正・慶長年間(1573-1615)の戦乱・洪水により荒廃した.横河川左岸の古屋敷を離れて,東堀郷と共に現在地に遷された.しばらく仮堂の状態が続いたが,第23世憲栄和尚(?-1729)は,京都智積院にて学び,高野山金剛頂院の法流を受けて帰郷する.高嶋藩主忠虎公(1663-1731)の帰依のもと,諸堂を建立,本尊金剛界大日如来を造顕し,悲願の復興を遂げた.明治初年の廃仏毀釈により,諏訪大社の別当寺が廃寺となる中,縁りのあった下社神宮寺・三精寺・観照寺の檀徒や仏像等が,難を逃れて当山に引き継がれている。日限地蔵尊もこの時に移された.
近年には,檀信徒の方々のご助力により,客殿・会館・山門など,山容の整備が進められるとともに,寺院での様々な活動が続けられている.当山は,歴代住職,檀越縁者の尊いご尽力により,弘法大師の教えを学ぶ道場として,そして仏菩薩や亡き御霊に祈りを捧げる霊場として,長きにわたり護り伝えられてきた.より多くの皆様が,寺院や仏道に親しまれ,こころ安らかで充実した日々をお過ごしになられるよう,祈念している。
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■境内散策
渡辺家の記述で時間を食い過ぎたので,この旅行記ももう少しスピードアップして記述を進めることにしよう.
本堂付近の案内板には,「本尊は大日如来座像で1716年(享保元年),京都の仏師によって造られた.また,日光・月光菩薩立像は廃仏毀釈により春宮観照寺より移転されたもの,同じく日限地蔵堂安置の木造阿弥陀如来座像は,もと秋宮三精寺本尊,廃仏毀釈によって平福寺に移された.これらは何れも岡谷市文化財である」という説明がある.
おひぎりさま
日限地蔵尊は案内板によると,「日を限って願掛けすると,その願いが叶えられることにその名が由来している.大正・昭和初期に全盛を誇った製紙工場の女工の心のよりどころとして,毎月23日の縁日には随分と賑わったと伝えられる,現在も縁日は復興され『おひぎりさま』と呼ばれている.」
立派な鐘楼
境内を散策する.手入れの行き届いた木立の中に立派な鐘楼が建っている.
安心童子
境内の参道を辿ると,安心童子の石造が置かれている.実に可愛い.
興教大師座像
反対側に,この寺の開祖と思われる(確かめてない)興教大師座像がある.開祖150年を記念して造られたもののようである.
釈迦の足跡
お庭の中央辺り釈迦の足跡を彫った(らしい)大きな石が置かれている.この足跡に,どのような意味が込められているのか,正確には分からない.
<塩尻峠を目指して>
■東堀正八幡宮
9時丁度に平福寺を出発する.直ぐ先の交差点を左折して,100メートルばかり南へ進む.そして,9時03分,東堀正八幡宮に到着する.
立派な杉木立に囲まれた厳粛な雰囲気が漂う神社である.人気がなくてひっそりと静まり返っている.神社の案内板を探すが,どうやら無いようである.ただ,先ほどのインターネットの記事から推察すると,もともとはこの八幡宮も平福寺も一体なものであったようである.
境内にある「正八幡宮社合祀社小祠案内図」によると,ここには随分と沢山の神社が合祀されているようである.
■ありゃ! 花岡?
9時08分,八幡宮を出発して,もとの中山道交差点に戻る.資料によると,この交差点に伊那道道標があるはずだが,なかなか見当たらない.どこかにあるのだろうが,分からない.仕方なく探すのを諦める.
ただ,交差点のすぐ近くに「花岡」という商店がある.ご存じの通り,私のハンドルネームはフラワーヒル.日本語に直せば「花岡,端丘,華丘,花丘,・・・」になる.そういえば,昨日もどこかで「フラワーヒル」という名前のビルがあったことを思い出す.
■伊那道道標
11時04分,大きな石柱の前に到着する.石に彫ってある文字から判断して,どうやらこれが伊那道道標のようである.先ほどの資料に記載されている伊那道道標の位置が少しずれているようである.
資料2によると,この道標は1791年(寛政3年)に建立されたもので,百万遍供養塔を兼ねているようである.
■東堀一里塚
9時21分,江戸日本橋から56番目の東山一里塚に到着する.何時しか雨は止んだが,路面はグッショリと濡れたままである.高圧線鉄塔と駐車場に囲まれるようにして「一里塚」と刻字した石碑が置いてある.この石碑自体は,それほど古いものではなさそうである.
■道祖神が続く
続いて9時29分,道祖神の前を通過する.その後,5分置き位に次々と道祖神が祭られている.中には愛らしい双体道祖神もある.
川を渡る.川の名前は記録し忘れたので分からないが,多分,横河川.この川の堤防に沿って少し南下すれば天満宮がある.橋の袂から天満宮の森が見えているが,何となく立ち寄る気がしないので,そのまま通過する.
■出早雄古作神社三之柱
9時31分,道端に置いてある出早雄古作神社三之柱を観ながら通過する.太くて立派な御柱である.
■今井観音堂
9時42分,神社の鳥居の前を通過する.神社の名前は良く分からない.ただ,地図を見ると,この鳥居の奥の参道を少し歩けば今井観音堂と名前の分からない神社があることは確実である.
■今井番所跡
9時43分,今井番所跡に到着する.
いよいよ塩尻峠越も間近である.
(つづく)
資料1;http://www.heifukuji.jp/2009/02/info01.html
資料2;『ちゃんと歩ける中山道六十七次』
「中山道六十九宿巡り」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/c8863ad306ae651e3d4c2d8469bbdd68
「中山道六十九宿巡り」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/d4e422a718b972bd8e5a5c1051336352