中高年の山旅三昧(その2)

■登山遍歴と鎌倉散策の記録■
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歩いて巡る甲州道中四十四次(プロローグ)

2013年03月03日 05時38分29秒 | 甲州道中四十五宿

                              <日本橋の原票>

      歩いて巡る甲州道中四十四次(プロローグ)
           (五十三次洛遊会)
          2013年3月3日(日)

<出発に当たって色々思うこと>

■いよいよ甲州道中の旅が始まる

 本日(3月3日),五十三次洛遊会主催の甲州道中四十四次の旅が始まる.
 私自身は,2010年に某旅行社主催の甲州道中四十四次の旅に参加しているが,残念ながら諸般の事情から,全行程を踏破することができなかった.それに,旅行社主催の旅では,とにかく先へ歩くことが主目的のようで,道中にある名所旧跡を十分に見学できなかったという悔しい思い出がある.
 そんなことから,いつかもう一度,甲州道中を一人旅してみたいなと思い続けていた.
 ところが,そうこうしている内に,中山道の旅が始まった,また,平素は塔ノ岳登山,山仲間との低山歩き,水彩画の制作などで結構多忙な毎日が続くので,リベンジ甲州道中は,なかなか始められないままになっていた.
 そんなある日,五十三次洛遊会のメンバーから,甲州道中の旅を始めたいので是非参加しないかという有り難いお誘いを受けた.
 ただ,私には一人旅に対する強い願望もある.それは,ただスタスタと甲州街道を歩くだけでは物足りないからである.各宿場を訪れるときには,必要最小限の遺構,社寺などは,是非,差見学参拝したい.こんなささやかな願望が満たされるならば,グループで歩くのも悪くないなと思って,お誘いを喜んでお受けすることにした.
 幹事の方にお伺いすると,参加希望者は,なんと14人という大人数である.これにはビックリ.
 参加者名簿を拝見すると,大多数の皆様は中山道の旅でご一緒した方々ばかりである.
 “これならば安心だ・・!”
 私は安堵して胸の閊えが雲散霧消する.初めてご一緒される方にも,旅行社主催の旅とは違って.何事も不完全で,トラブルも多いことを承知して貰うしかないなと思っている.
 …で,言いにくいが,一般論として・・・・私が一番忌み嫌うのは,集団行動の原則に反して,
  *生半可な知識で好い加減なことを言うこと,
  *訳も分からずに勝手にリーダシップを発揮しようとすること
  *前後を考えずに,勝手にドンドン先へ歩いて行ってしまうこと
である.
 こんなことのないように,自戒の念を含めて,気持ちを引き締める次第である.

■何はともあれ,ルート地図を作らなければ…
 私は,街道や風物については全くの素人である.でも,素人は素人なりに,数週間前から,図書館で種々の文献をあさったり,インターネットを使って甲州道中の資料を収集した.さらに,少なからぬ費用をつぎ込んで,地図類も入手した.
 これらの資料から得られた情報を,25000分の1の地形図に落として,第1回分のルート地図を作成した.全部でA4の用紙6枚になった.これらは全く私個人のために作成したものだが,参加予定者から配布して欲しいという希望も多かったので,同行予定のH氏にコピーを依頼した.コピーには大変な労力と費用が掛かるので,恐縮している.
 H氏に多大な労力をおかけする以上,この地図を有効に活用して頂ければ有り難いなと思っている.

<私が作成したルート図>

<甲州道中四十四次って何?>

 “そもそも,甲州道中って何なんだ?”
 私は率直な疑問を持っていた.そのまえにいわゆる五街道はどのような経緯で成立していったのかに,とても興味がある.
 いろいろ調べた中では,次のURLの記事が,素人の私には一番分かりやすかった.ここで,内容をそのまま引用するわけにはいかないので,同行される方々には,是非,一度読んで貰いたいなと思っている.
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E5%B7%9E%E8%A1%97%E9%81%93

<甲州道中四十四次(第1回)見所>

【1】日本橋

 戦前の道路法では,各市町村に道路の始点となる道路元標の設置を義務付けていた.その場所は概して市役所や県庁などとされていたが,首都たる東京市は江戸時代を踏襲して日本橋を道路元標とした.
  現行の道路法では道路元標に関する規定は無いが今日でも橋の中央には「日本国道路元標」の文字が埋め込まれており,裏側には当時の内閣総理大臣,佐藤栄作の名前が刻まれている.橋の袂(たもと)にレプリカが展示されている.
 現在,日本橋を始点としている国道は,以下の7本である.
• 国道1号(終点:大阪市・梅田新道)
• 国道4号(終点:青森市・青い森公園前)
• 国道6号(終点:仙台市・苦竹IC)
• 国道14号(終点:千葉市・広小路交差点)
• 国道15号(終点:横浜市・青木通交差点)
• 国道17号(終点:新潟市・本町交差点)
• 国道20号(終点:長野県塩尻市・高出交差点)
(出所; http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%A9%8B_(%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E5%8C%BA))

■日比谷見付跡;
 現在は日比谷交さ点の公園入り口に石垣と塚跡が残っている.この石垣は,江戸城外部郭城門の一つ,日比谷御門の一部で古い石垣と塚跡が見附門のあったことを物語る.日比谷見附門の建設については「御府内備考」に.ml 「芝口・日比谷両所御門桝形石垣,松平陸奥守正宗築之」とある.江戸城の各門中で門前に橋がないのはここだけであった.
 城の外側から順に,高麗門,枡形,渡櫓,番所が石垣で囲まれていましたが,石垣の一部だけが,ここに残ってる.当時,石垣の西側は濠となっていたが,公園造成時の面影を偲び,心字池となっている.
(出所;http://edo.pro.tok2.com/edo/hibiyamituke

■四谷大木戸跡;
 江戸時代の四谷に設けられていた甲州街道を通って江戸に出入りする通行人や荷物を取り締まるための関所である.現在の東京都新宿区四谷4丁目交差点にあたり,新宿区立四谷区民センターの脇には四谷大木戸門跡の碑が立っている.
(出所;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E8%B0%B7%E5%A4%A7%E6%9C%A8%E6%88%B8

■玉川上水;
 かつて江戸市中へ飲料水を供給していた上水(上水道として利用される溝渠)であり,江戸の六上水の一つである.また,一部区間は,現在でも東京都水道局の現役の水道施設として活用されている.
 羽村取水堰で多摩川から取水し,武蔵野台地を東流し,四谷大木戸(現在の四谷四丁目交差点付近)に付設された「水番所」(水番屋)を経て市中へと分配されていた.水番所以下は木樋や石樋を用いた地下水道であったが,羽村から大木戸までの約43キロメートルはすべて露天掘りであった.羽村から四谷大木戸までの本線は武蔵野台地の尾根筋を選んで引かれているほか,大規模な分水路もそれぞれ武蔵野台地内の河川の分水嶺を選んで引かれている.
 1722年(享保7年)以降の新田開発によって多くの分水(用水路)が開削されて武蔵野の農地へも水を供給し,農業生産にも大いに貢献した(代表例,野火止用水,千川上水).
(出所;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4

■新宿御苑;
 もともとは江戸時代に信濃高遠藩内藤家の下屋敷のあった敷地である.
 1879年(明治12年)に新宿植物御苑が開設され,宮内省(現在の宮内庁)の管理するところとなったが,第二次世界大戦後は一般に公開され,現在は環境省管轄の国民公園として親しまれている.
 2006年(平成18年)に,「新宿御苑」の名を冠してから100周年を迎えた.開園100周年事業の一環として,絶滅が危惧されている植物の保護センターを設置することが計画されている.
 例年4月上旬には内閣総理大臣主催の「桜を見る会」,11月上旬には環境大臣主催の「菊を観る会」が開催される.大正天皇・昭和天皇の大喪の礼が執り行われた場所でもある.
 隣接する東京都立新宿高等学校の敷地は,1921年(大正10年)にこの新宿御苑の土地の一部が東京府へ下賜されたものである.
(出所;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%AE%BF%E5%BE%A1%E8%8B%91

■新宿追分;
 新宿では甲州・青梅の二つの街道が,かつてこの辺りよいY字形に分かれていた.
 現在の伊勢丹辺りから新宿一丁目の間に宿場町が開設されたのは元禄11年(1698).内藤家の土地の一部が収公されて新たにできたため,「内藤新宿」と呼ばれ,江戸四宿の一つとして旅人で賑わった.
 追分には高札場があった.明治36年12月には東京市街鉄道株式会社の市内電車が追分~半蔵門間に開通.かつての宿場町の通りは,拡幅されて次第に旧態を失っていった.大正4年5月,京王帝都電鉄の前身である京王電気軌道株式会社が追分~調布間を鉄道で結んだ.京王は,甲州街道沿いに分倍河原で多摩川を渡って八王子に至る路線を計画.大正2年4月,笹塚~調布間がまず開通した.
 現在,この辺りは昭和9年に開通した明治通りと交差し,交通量の多い所である.なお追分は通称名で,正式に地名として取り上げられたことはない.
(出所;http://www.shinjukuku-kankou.jp/map_shinjuku_06.html

【2】内藤新宿(1次)
 内藤新宿(ないとうしんじゅく)は,江戸時代に設けられた宿場の一つ.甲州街道に存在した宿場のうち,江戸日本橋から数えて最初の宿場であり,宿場内の新宿追分から甲州街道と分岐している成木街道(青梅街道)の起点でもあった.現在の住所では,東京都新宿区新宿一丁目から二丁目・三丁目の一帯にあたる.
 東海道の品川宿・中山道の板橋宿・日光街道(奥州街道)の千住宿と並んで,江戸四宿と呼ばれた.地名から四谷新宿と呼ばれることもある.

名所・旧跡


■太宗寺;

 仲町のすぐ北,内藤新宿の中央付近にある寺院.周囲に門前町も形成していた.江戸六地蔵の第三番,都内最大の閻魔大王像,「しょうづかの婆さん」と呼ばれ飯盛女たちの信仰を集めた奪衣婆像など,多くの文化財が現存する.

■正受院;

 太宗寺の北,成覚寺と隣接する寺院.「綿のおばば」と呼ばれた奪衣婆像がある.嘉永元年(1848年)の年末から翌年にかけて評判となり,江戸中から内藤新宿へ参詣客が押し寄せる騒ぎとなった.この奪衣婆像を題材にして多数の錦絵が描かれている.

■成覚寺;

 太宗寺の北,正受院と隣接する寺院.内藤新宿の飯盛女の投げ込み寺であった.共葬墓地に葬られた飯盛女たちを弔う「子供合埋碑」や,心中した男女らを供養するための旭地蔵など,内藤新宿繁栄の裏面を伝える文化財が残る.また,江戸時代中期の戯作者・恋川春町の墓がある.

■天龍寺;
上町の南にある寺院.江戸城裏鬼門鎮護.定刻より早く鐘を鳴らしたため,内藤新宿で遊行する人々に「追出しの鐘」と呼ばれた梵鐘,「時の鐘」が現存する.内藤新宿は江戸の外れにあり,武士が登城に遅れぬようにとの理由であった.

■花園神社;

 上町の北にある神社.新宿総鎮守.江戸時代には「三光院稲荷」と呼ばれていた.町の守り神として信仰を集め,境内に設けた芝居小屋で行なわれた歌舞伎・義太夫などの「三光院芝居」は評判を呼んだ.
(出所;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E8%97%A4%E6%96%B0%E5%AE%BF

■笹塚跡;

 江戸五街道のうちでただひとつ渋谷を通っていたのが甲州街道で,その南北両側に直径1mほど塚(盛り土)があり,その上に笹が生い茂っていたことから笹塚と呼ばれるなったと伝えられている.この塚は,四谷大木戸から最初の一里塚であったが,慶長9年(1604)大久保長安によって設けられたと伝えらられている.また,天保14年(1843)の幡ヶ谷村差出明細帳には「一里塚,村内字笹塚と申所往遷左右に御座候」とある.大正5年刊行の豊多摩郡誌には,甲州街道の両側に石塚があったがすでに見られないと記されている.現在はこの一里塚は無くなり,地名,町名として残っている.
(出所;http://www.ee-tokyo.com/kubetsu-23/sanpo/shibuyaku/annai/no8-hatagaya.html

【3】下高井戸宿(2次)・上高井戸宿(3次)

上高井戸宿;
  高井戸宿(たかいどしゅく)は,かつて甲州街道にあった上高井戸宿および下高井戸宿の合宿.現在の杉並区高井戸にあった.通行大名が少なく脇本陣は置かれなかった.
 当初は,甲州街道の一番目の宿場であったが,後に内藤新宿が設置され,次第に素通りするものが多くなった.
 周辺住民は農業を主としており,一宿で継ぎ立てを勤められず,月初から15日までを下高井戸宿,16日から月末までを上高井戸宿が勤める合宿としていた.
 助郷村は,久我山村,和泉村,松庵村,田端村(1751年(宝暦元年)-1767年(明和4年)),成宗村(1751年(宝暦元年)-1767年(明和4年),久我山村代助郷).

■下高井戸宿;

 日本橋から4里.宗源寺(下高井戸4-2-3)の左隣の「富よし」に本陣が置かれた.本陣前が高札場,本陣向かい側の少し日本橋寄りが問屋(細淵家)跡となる.
上高井戸宿;
 日本橋から4里12町40間.上高井戸一丁目信号(環八通りとの交点)の北東角にあった並木氏の「武蔵屋」に本陣が置かれた.問屋は篠弥惣治.
(出所;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E4%BA%95%E6%88%B8%E5%AE%BF

名所・旧跡

■築地本願寺和田御廟所;

 大正12(1923)年9月1日,未曽有の災害をもたらした関東大震災によって,築地本願寺もまた本堂が類焼するなどの被害を受けた.そのため,築地本願寺境内にあった多数の墓地を移転する必要にせまられ,当時豊多摩郡和田堀の大蔵省管轄陸軍省火薬庫跡約1万2千坪の払い下げをうけ,昭和9(1934)年の冬には,築地本願寺の仮本堂を移築し,ここに和田堀廟所が建立された.武蔵野の面影をとどめる玉川上水路には水清く小鳥がさえずる自然公園の墓地として,和田堀廟所は参拝する人々の心に深い感銘を与えてきた.
 昭和20(1945)年5月25日,太平洋戦争の東京大空襲によって本堂をはじめことごとく焼失してしまったが,廟所にご縁をもたれる門信徒の皆さまのお布施や懇ろな志などにより,昭和28(1953)年10月11日,本堂が再建,入仏法要が慶びのうちに勤められ現在に至っている.  また,和田堀廟所は歌人九條武子夫人や作家樋口一葉女史をはじめとする著名な文化人の墓所としても有名で,それらの方々を偲んで多くの参拝者が来所されている.そして,春には名所となった桜並木を彩るソメイヨシノが満開に咲きほこり,参拝する人々の心を和ませている.
(出所;http://tsukijihongwanji.jp/wadabori-byosyo/1611

■江戸の大名屋敷

  菊岡倶也(建設文化研究所主宰) 幕末の頃の江戸の土地利用.周囲には,防衛のため寺を配置.武家地と町屋は,いまの山手・下町に区別される.
(出典:正井泰夫”江戸時代の都市の自然環境”「地理」vol.22,no2,1977)
 「江戸の69%を占めた武家地の内訳は武家地・寺社地・町地と代官支配地(百姓地を含む).江戸の土地は,この三つの身分社会を反映した区域と代官支配地から構成されていた(人口増加とともに区別の厳密さは崩れるが).
 幕末期の江戸は全市街の69%が武家地で,その内訳は,大名屋敷地2,771ヘクタール(35.6%),一般武家屋敷地1,878ヘクタール(24.1%)であった(正井康夫 二万分の一”江戸の都市的土地利用図”「地図」13-1).一般武家屋敷地には旗本,下級の幕臣や大奥女中,医師,絵師,坊主,能役者らが住み,町人に貸したりもしていた.武家地は大目付・目付などを通じて老中・若年寄の支配下にあった.
 いま都心部の市街地再開発などの現場で武家屋敷の遺構が発掘されるのは,もともと武家地が大きな面積を占めていたからである.」 

<とにかく第1回を成功させよう>

 今日(2013年3月3日),歩いて巡る甲州道中四十四宿の旅が始まる.
 参加者お互いに尊重しあって,安全に旅が続けられるように願っている.
 ”どこか近場の神社へ行って,旅の安全を祈願してこようかな・・・”
と思い始めている.
 只今,3月3日,5時40分頃.
 余裕を持って,6時30分頃,家を出発する予定である.東京駅に着いてから,どこかでコーヒーでも賞味しながら,皆さんが到着するのを待つことにしよう.

                                      (つづく)

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(なし)
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http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/cd35c71b15eb85a2697109fd92bdf5c1
「甲州道中」の索引
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/a622a87fbc7f4454e3e837fc990ece58

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