中高年の山旅三昧(その2)

■登山遍歴と鎌倉散策の記録■
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歩いて巡る中山道六十九宿(第8回):第3日目(6):長久保から上田へ

2013年07月30日 09時39分27秒 | 中山道六十九宿

                                             <上田市内街角の人物紹介看板> 

[改訂版]歩いて巡る中山道六十九宿(第8回):第3日目(6):長久保から上田へ
                   (五十三次洛遊会)
          2010年6月12日(土)~14日(月)

※本稿の初出は2010年7月20日である.
 初稿の地図の差し替え,新しい地図の挿入,本文の加除修正を行った.

第3日目:6月15日(月)
 (つづき)

<ルート地図>

■長久保から上田へ


■上田市中心部


<長久保から上田へ>

■大型タクシーで上田に向かう

 上田行のバスまでは,大分,時間がある.
 「・・上田まで,タクシー相乗りで行きましょう.タクシー代は,割り勘にすれば,バスと大差ないと思いますよ・・」
と提案する.
 途中,「望月ハイヤー」に立ち寄って頂戴した名刺を頼りに,世話役のOさんが大型タクシーを呼ぶ.いくら人影がないといっても,ここは人里,ちゃんと携帯電話が使える.
 ほどなく,望月ハイヤーの大型タクシーが到着する.
 13時25分,タクシーに乗り込んだ私たちは,長久保バスターミナルを出発する.多分,30分ほどで上田に到着するだろうとのこと.

<大型タクシーに乗車>

■上田駅に到着
 タクシーに乗り込んで,やっとホッとする.タクシーは北の方向に快調に飛ばす.20キロメートルほどの距離である.途中渋滞もなく,順調に走り,14時05分にJR上田駅に到着する.
 長野新幹線が開通してから,上田駅は随分と立派になった.駅前も広くなり,駅前の商店街松尾町も随分と綺麗になった.
 でも,私の印象では,上田も昔に比較して,やっぱり寂れたなと思う.
 それにしても,今回の上田訪問は,私にとっても数年振りのことである.やっぱり懐かしい.

<上田駅>

■しまった!
 私は上田に到着した途端に,
 「・・しまった!」
と,地団駄を踏むほど悔しくなる.
 タクシーを利用するんだったら,何も路線バスと同じルートを走らなくても良かったのに・・
 私は気を利かせて,上田ではなく,海野宿(東御市)へ向かうべきだった.北国街道に位置する海野宿の素晴らしい景観を,五十三次洛遊会の皆様にも,是非,見て貰いたかった.そして,上田市の観光は,どうせ次回上田市に集まるので,そのときに小一時間掛けて一回りするようにすべきだった.
 端から,バス路線のルートを通るものと思い込んでいた私の頭は,レンコンのようにかなり穴が空いてスカスカしているようである.何で,こんな一寸した機転が利かないのかと,全く情けなくなる.
 でも,まあ,上田に来てしまった以上,仕方がない.
 ※海野宿については,FHのブログ(資料3)参照.

■やっと昼食
 まずは,昼食.今日一日,全く人にも会わず,食事処もないところを歩いていたので,遅めとはいえ,シッカリとした昼食にしたい.しかし,観光時間も欲しいので,上田駅構内の某中華料理店に入る.
 早速冷やし中華を注文する.料理は大変美味しくて,食べている内に,何となく幸せな感じになる.食事って大事だなと実感する.
 ただ,このお店はガンコが売りのようだが,若い店主が,客の見えるところで従業員の頭を小突くのが見えて,嫌な気分になる.
 ガンコって,何に対してガンコなのか,私のように一見(いちげん)の客には分からない.語弊のある言い方かもしれないが,ことさらに客の前で仏頂面することもないのにと思うのだが・・・

<美味しいラーメン>

<善光寺街道と上田宿>

善光寺街道(北国街道)
 最初に善光寺街道と上田宿の概要を抑えておこう.
 資料4によると,「北国街道(ほっこくかいどう)は日本の街道である.江戸幕府によって整備された脇街道で,北国脇往還(ほっこくわきおうかん),善光寺街道(ぜんこうじかいどう)などとも呼ばれる.
 追分
で中山道と分かれ,善光寺を経て直江津で北陸道に合流する.
 本道
は,善光寺への参拝のために整備され,佐渡の金を江戸に運ぶ道として五街道に次ぐ重要な役割を果たした.軽井沢町から上越市までの区間は現在の国道18号線にほぼ相当する.
 
善光寺平の入り口屋代宿(矢代宿とも書く)を過ぎて雨宮の渡しで千曲川を渡るが,川を渡らずに東岸の松代宿や福島宿を経由して,牟礼宿で本道と合流する松代道と呼ばれる脇道があり,谷街道の一部と重なる.この路は,犀川の川止めで本道が足止めされた場合,布施の渡しで千曲川を渡って福島宿へと迂回し,足止めを回避することを目的としている.」

■上田市の概要
 資料5によると,「上田市は,平成18年3月6日に上田市,丸子町,真田町,武石村が新設合併して誕生した人口16万を擁する長野県東部の中核都市」である.
 資料6によると,「上田市は,1583年に真田昌幸が城を築いた町.また,鎌倉時代に北条氏の一族が居城を置いた塩田平には,多くの古社寺があり,「信州の鎌倉」と呼ばれている.この上田市と小県郡からなる上小地域には,このほかにも海野宿,和田宿などの歴史を感じさせる町並みや,別所温泉,丸子温泉郷などの温泉,菅平高原,湯の丸高原などがある.
 この地域には,高原野菜などの生鮮農産物や,自然と文化を生かした観光リゾート関連産業,電気機械,輸送用機械を中心とする製造業などの産業がバランスよく発展してきている. また,上田市マルチメディア情報センターが立地しており,地域情報化の面でも発展が期待されている.」という.


<松尾町から藩主館跡へ>

■松尾町を歩く

 駅前の松尾町の登り坂を登る.小綺麗な街並みである.でも,華やかだった昔に比較すると何となく寂れた感じがする.ただ,岩村田や小諸に比較すれば,随分と活気がある.
 駅前の松尾町を歩いても,シャッターを下ろしたままの店は殆ど見当たらないから立派である.
   
   <松尾町で見掛けた綺麗なマンホール蓋>

■藩主居館跡の上田高校
 途中から左折する.
 14時49分,上田藩主居館跡に到着する.この藩主館跡地には,現在,上田高校の校地になっている.跡地の前に堀がある.堀の真ん中に通路があって,そこに藩主館の門が残っている.この門は,今,上田高校の校門になっている.
 私は,旧制上田中学から新制上田高校(当初は上田松尾高校と言っていた)になってからの通算6年間,この門を潜って通学した.当然,この門には懐かしい思い出がある.
 向かって右側の門柱に,「長野県上田高等学校」と書いた門札が吊してある.一行の誰かが,
 「・・あれ,長野県立って書かないんですか・・」
と,なかなか鋭い質問をする.
 私には,理由は分からないが,長野県の県立高校は,どこでも長野県○○高等学校と呼んでいる.あらためて,指摘されるとなるほど不思議である.
 余談だが,私は終戦の年に,旧制上田中学校に入学した.当時は「長野×××」と,殆ど字が読めなくなったほど風化した大きな木の看板が掛かっていた.当時,あの読めなくなった看板に言いしれぬ愛着と歴史を感じていた.
 堀を挟んで反対側に,同窓会館が建っている.この会館を見た一行の一人が,
 「・・随分と立派な同窓会館ですね.ということはこの高校,随分と歴史のある学校なんでしょう・・」
と,またまた鋭い質問をする.
 上田高校は,長野県東地区(上田,小諸,佐久,軽井沢地区)では,一番長い歴史を持っている伝統校で,この地区では一番の進学校である.
 またまた蛇足になるが,最近私の手許に送られてきた上田高校の新聞『古城の門』(7月1日付)に,雪化粧をした門が掲載されている.同新聞によると,上田高校も創立110周年を迎えるようである.
 そういえば,終戦間もない頃,私が在校中に創立50周年記念行事が行われた.今から60年も前のことである.
 あのとき,「タネさん」という猛牛のような柔道の先生が,
 「オレは,間違いなく100周年のときは生きておれん・・だが,お前達は運が良ければ100周年に立ち会えるだろう.今後,日本がどうなるかわからんが,国のために役に立つ人間になって,母校にも報いるように頑張れ・・・」
というような趣旨の講話を,少々どもりながらしたような気がする.
 あれから幾星霜.歳月の過ぎ去るのは実に速いものである.私は母校の正門の前で,酸っぱいものが込み上げてくるような気分を味わう.
 この新聞の裏面には,平成21年度卒業生の進路状況が掲載されている.東大ばかりが大学ではないが,東大5名,東北大6名,東工大1名,一橋大1名,名古屋大4名,阪大1名,信州大35名,早稲田大24名,慶応大21名など,国公立医学部医学科5名,難関大68名で,惜しくも県下2位だった・・と報じている.1学年300名余の田舎高校としては,まあ,まあ,私たちの時代と変わらない成果を挙げているなと思う(正直に言えば,大分落ちている).




■上田藩主館の経緯
 話を本題に戻そう.
 資料1によると,「上田藩主居館跡の門は,江戸時代の上田藩主居館の表門である.薬医門といわれ,1790年(寛政2年)に再建されたものである.関ヶ原の戦いで,上田城が破却された後,真田伸之が,ここに藩主居館を建てて藩政を行った」という.
 なお,歴代上田城主を少し垣間見ると,真田,仙石,松平と,1869年(明治2年)まで,12代続いている.この上田藩主居館を建てた信之は2代目藩主である.
 1代  真田幸村
 2代  真田伸之
 3代  仙石忠政
   ・・・・・
 5代  松平忠学
 6代  松平忠周
   ・・・・・
 12代  松平忠礼

<上田高校の正門>

■明倫堂跡
 記事の進みが,思わず手間取った.
 ・・・で,私たちは,上田市役所脇を抜けて第二中学校の前を通る.ここは上田藩文武学校明倫堂の跡地である.
 資料2によると,上田藩明倫堂は「1812年創立.松平忠学が上田城下・新参町に設置」された.また,松平 忠学(まつだいら たださと)は,第5代藩主.
 さらに,同資料によると,松平忠学は「天明8年(1788年)7月19日,上田藩分家で信濃川中島5000石の大身旗本である松平信濃守忠明の次男として生まれる.第4代藩主・松平忠済の長男・松平忠英の早世から御家騒動が起こったため,宗家の上田藩から忠済の養子として迎えられる.文化9年(1812年)5月6日,養父・忠済の隠居により家督を相続して第5代藩主となり,従五位下・伊賀守に叙位・任官する.紅葉山火の番,桜田御門番などを歴任した.文化10年(1813年)に藩校・明倫堂を創設して文武を奨励している」とのことである.

<明倫堂跡>

■大手町1丁目
 14時57分,明倫館を通り過ぎる.そして,程なく大手1丁目の上田城趾公園入口近くの空堀に突き当たる.目の前に広大な公園が広がっている.
                               (つづく)

[参考資料] 

資料1;上田市観光案内『四百有余年の歴史が語りかけてくる上田城』
資料2:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E5%80%AB%E5%A0%82#.E4.BF.A1.E6.BF.83.E4.B8.8A.E7.94.B0.E8.97.A9.E3.81.AE.E6.98.8E.E5.80.AB.E5.A0.82
資料3:http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/a248c9cc1e68e2d4c10b4463255d0624
資料4:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E5%9B%BD%E8%A1%97%E9%81%93_(%E4%BF%A1%E8%B6%8A)
資料5;http://www.city.ueda.nagano.jp/hp/index.html
資料6;http://www.pref.nagano.lg.jp/josho.htm


「中山道六十九宿」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/5a33c781588dbe87204320bfd46d8564
「中山道六十九宿」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/ed23ca1a816d4ec29930ec46ff80be3e
「中山道六十九宿」の索引
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/b0fff7ecf75b54c3f443aa58cfa9424e


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