中高年の山旅三昧(その2)

■登山遍歴と鎌倉散策の記録■
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中山道六十九宿巡り(第11回);第2日目(2):岩出観音堂と天長院

2011年12月17日 05時50分08秒 | 中山道六十九宿

                                   <岩出観音堂>

  中山道六十九宿巡り(第11回);第2日目(2):岩出観音堂と天長院
             (五十三次洛遊会)
         2011年11月11日(金)~14日(月)

第2日目;2011年11月13日(日) 

<第2日目のルート地図>



  

 <岩出観音堂>

■長い坂道を登り続ける
 9時17分,中仙道第9号踏切を渡る.
 緩やかな上り勾配の道が続く.やがて,集落の中を抜ける細い道になる.
 「この道で良いのだろうか・・?」
半ば疑心暗鬼になりながら,地図を首っ引きにして,歩き続ける.地図によれば,この辺りは橋場と呼ばれる集落のようである.

やが
<集落の間の路地を進む>

■岩出観音堂が見え始める
 9時29分,坂道の左掛け上にお堂が見え始める.地図で確かめると,岩出観音堂のようである.

<岩出観音堂が見え始める>

■岩出観音堂を詣でる
 9時32分,階段を登って岩出観音堂に到着する.崖の上に立派なお堂が建っている.
 お堂の傍らに設置されている案内文によると,ここの奉仏は馬頭観世音菩薩.伊奈川観音または橋場観音とも言うらしい.紹介文の後に,こんな逸話が書かれている.
 「口伝によると,300年余り前に沢原の住民である老人が馬の沓作りの商いをしていた.あるとき,芭蕉の侍が沓を求めたが,生憎,片足分しかなかった.そこで,不足分を付くって,後から追いかけて,橋場付近でこれを侍に渡した.喜んだ侍が代金を支払おうとしたが,この侍の偉容に打たれて代金を辞退した.すると侍は,傍らにあった木片に「馬頭観世音」と書いて,この老人に渡した.そして,「必ずこれを信じなさい,ご利益があるだろう」と言い残して立ち去った.老人はこれを家に持ち帰って,神棚に安置したところ,光明を放ったので,橋場の岩出山の岩間に安置したところ,一層煌々と光るようになり.参拝する人が多くなった.そこで,この木片日観世音菩薩と刻み,京都妙心寺名僧愚堂国師により開眼.ここに一宇を建立して奉安した」という.

<岩出観音堂>

■橋場の集落を歩く
 岩出観音堂を詣でた後,橋場の集落を抜ける道を歩き続ける.
 資料1(pp.216-217)によると,観音堂の裏手の山は.木曽義在時代の愛宕山城趾で,愛宕山とも呼ばれているようである.
 折から紅葉が綺麗な素晴らしい散策路が続く.
 
<長閑な橋場の集落を行く>

<天長院>

■伊奈川橋を渡る

 9時40分,伊奈川橋を渡る.皮の名前は良く分からないが,木曽川の支流に架かる橋である.橋の下にはかなり大きな川が流れている.

<伊奈川橋の上から木曽川の支流を眺める>

■木曽川の小さな支流に沿って遡る
 暫くの間,集落の中の道を進む.やがて,大島という場所に到着する.やがて,やはり木曽川の支流である小さな川に突き当たる.ここは小さな四つ角になっていて,初期の中仙道は,ここで川を渡り,ほぼ真っ直ぐにJR大桑駅方面に延びていたようだが,現在は通行不能になっている.
 9時56分,道標に従って左折,天長院方面に向かう.この小さな川の右岸を,川からつかず離れずの道を進む.周囲は長閑な農村である. 

<この道標で右折>

■水害記念碑
 道路の両側には,住宅や作業場のような建物が散在している.地図で確かめると進行方向右手の対岸,つまり小川の左岸には大桑中学校がある筈である.
 暫く進んでから右折する筈だが,その目印になるのが中部保育園である.この保育園は進行方向左手にあるはずである.注意深く建物を見ながら先へ進むが,どこに保育園があるのか分からない.
 9時58分,水害記念碑の前を通過する.手持ちの資料では,何時の水害のことか木論がないので,詳しいことは良く分からない.
 結局,保育園の場所は分からないまま,天長院の案内板が立っている三叉路に到着する.正直なところ,この案内板を見て,迷っていなかったことが分かり,ホッとする.

<水害記念碑>

■天長院の前を通過
 10時01分,天長院の前を通過する.小さな橋の向こうに天長院の建物が見えているが,時間が押しているので,そのまま通過する.
 街道脇に天長院の説明板が設置されている.この説明文によると,臨済宗妙心寺派の寺で,山号は地久山.室町時代木曽家祈願所であった.当初は真言宗.1540年代(天文年間),武田軍あるいは山賊の焼き討ちにあって廃絶,その後,1594年代(文禄年間),定勝寺7代天心和尚によって開山されたという(詳しいことは省略).
 資料2(p.118)によると,天長院には子育地蔵が安置されていて,この地蔵の紐が十字に見えることから,マリア地蔵の別称があるという.
 
 
<天長院>

<間ノ宿>

■なかのしゅくばし

 10時09分,「なかのしゅくばし」を渡る.橋の袂の表記がひらがななので,漢字でどう書くのか分からない.
 橋を渡ると,いかにも宿場町らしい雰囲気の街並みが続く.
 
 この近くに,JR大桑駅があるはずである.

<なかのしゅくばし>

関山関所跡
 10時13分,中央本線の第10中仙道踏切を越える.そして,すぐに国道19号線に合流する.ここから,登り坂になる.
 地図を眺めながら歩く.そろそろこの辺りに関山関所跡がある筈だと思いながら,坂道を登り続けるが,結局,どこが関所跡か分からないまま通過する.

■明治天皇古田原御野立所碑
 10時23分,古い石塔の前を通過する.多分,この石塔が明治天皇古田原御野立所碑だろうと勝手に決めつける.もちろん,真偽のほどは分からない.

<明治天皇恩野立所碑(?)>

■道の駅「大桑」
 10時25分,道の駅「大桑」に到着する.ここで休憩を取る.

<道の駅大桑>

■野尻宿の案内杭
 10分ほど休憩して,再び歩き出す.途中から国道19号線に沿う裏道を歩く.
 10時47分,中央本線第11号中仙道踏切を渡る.
 資料3(p.40)によると,この辺りで振り返ると,「中央アルプスが望める」と紹介されているが,どの山が中央アルプスなのか余りよく分からないまま通り過ぎてしまう.
 進行方向右手下に,林という集落が見えている. 古道は,この集落を抜けて,再び,今私たちが歩いている道に合流するようである.
 10時57分,「左野尻宿」と刻字してある案内杭のある場所を通過する.
 野尻宿まであと僅かである.
 
<野尻宿の案内杭>
                                       (つづく)

[参考文献]

資料1;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料2:岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料3;五街道ウォーク事務局『ちゃんと歩ける中山道六十七次』

「中山道六十九宿」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/6ba2b88656d8256ce64156c26023015d
「中山道六十九宿」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/82dc75887e9296a1d15aba81163f88c8

 




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