<閑静な垂井宿;垂井駅付近>
歩いて巡る中山道六十九宿(第14回);第1日目(1);垂井宿から歩き出す
(五十三次洛遊会)
2012年9月15日(土)~17日(月・敬老の日)
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2012年9月18日(火)
9月15日(土)から17日(月・敬老の日)まで,2泊3日,足かけ3日間の中山道の旅を終えて,17日夕方,無事,帰宅した.五十三次の旅を一緒に歩いた仲間11名による手造り旅である,
振り返れば,中山道の旅の第1回は,2009年9月19日(土)であった.私達は,この日,東京(江戸)日本橋から歩き出した.つい昨日の事のように思えるが,もう,第1回目を歩き出してから丸3年も経過している.昨年の東日本大震災の影響で,半年あまりの中断期間があったが,今回,漸く第14回の旅を無事終えることができた.今年11月に開催予定の第15回の旅で,無事,京都三条大橋,つまり双六の上がりに到着する予定である.よくも,まあ,ここまで来たものだというのが,私の率直な感想である.
手造り旅は実に面白い.まずは,事前調査の段階が実に楽しい.手許の乏しい資料を参考にしながら,25000分の1の地形図に,まずは昔の中山道のコースを落とし込む.そして,チェックした見所を記入する.この作業は随分と手間が掛かるので,興味がなければ,とても,とても,やって居れない作業である.でも,楽しいからこんな七面倒くさい作業も続けることができる.
次に楽しいのは,実際に歩いてみて,自分が予想した物事と,現実が合致しているか,違って入るかを確かめることである.これが,長距離歩いても全く疲労感がない最大の理由のような気がする.実際に歩いてみて,予期しない掘り出し物の見所を発見したときの嬉しさといったら何と形容して良いか分からないほど.でも,反面,期待していたところを,見ることができずに通過してしまったときの悔しさもまた大変である.
今回も,是非見たいと思っていたところを2箇所,見られないまま通過してしまった.この点だけは,旅を終えた今でも,極めて遺憾であり,やっぱり一人旅の方が良いのかなと,ついつい荒んだ気分になってしまう.特に平将門の塚に立ち寄ろうとしたときに,そんな私や数名の方の気持ちを察せずに,ドンドン先に行ってしまうリーダーのお一人に,
「勝手にドンドン先へ行くな・・・」
柄にもなく,ついつい声を荒げてクレームをつけてしまった.
さらには,ほんの30分でも良いから関ヶ原の古戦場を見たかったという希望も叶えられなかった.私個人としては取り返しが付かないほど残念な結果である.しかし,団体行動という視点から見ると,そんなことに全く興味がない方々も居られるのも事実だから致し方ないことかも知れない.
「また,一人で心残りの所を旅すれば済むことだ・・」
と思い直したら気分もすっきりと治まる.
それはともかく,一同,大過なく,中山道の旅の大団円を迎えられそうである.
今回は,残暑が多少厳しかったが,台風16号の影響もあって,終始涼しい風が吹いていたので,随分と歩き易かった.
連続2夜にわたって,仲間と一緒にアルコールなしの夕食を,語らいながら共にした.楽しかった.
この一連の旅も,11月でお仕舞いになる.これまでご一緒した仲間との旅も,11月で終わりとなる.この旅が終わったらどうしよう・・・・奥州街道の一人旅でも始めようか.それとも,折角旅をするなら,道連れがあった方が良いかな・・・・・そろそろ,次の旅のことで,迷い始めている.
ともあれ,これから数回にわたって,第14回目の旅の様子を,このブログに収録することにしよう.
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第1日目:2012年9月15日(土)
<第1日目の行程全体図(再掲)>
<出発点の垂井へ>
■薄暗い朝出発
秋が深まるにつれて,この頃は日毎に朝が明けるのが目に見えて遅くなっている.
今日の集合場所は,東海道本線垂井駅9時30分である.遅刻したり,切羽詰まってオロオロするのが大嫌いな私は,十二分に余裕を持って,5時10分に支度から出発する.何時も,丹沢塔ノ岳に出掛けるときと同じ時間に自宅を出発する.まだ,夜が完全には明け切っていないので,辺りは何となく薄暗い.辺りを見回すと,雨は降っていないが,空一面に何となく鬱陶しい雲が沸いている.晴れていれば富士山が良く見える湘南モノレールの駅だが,今日は富士山だけでなく丹沢の山々も分厚い雲の中にっくれている.
大船駅前のマクドナルドで100円也のコーヒーを賞味しながら一息入れてから,大船6時04分発沼津行の十日お堂本線下り電車に乗車する.早朝なのに電車は結構混雑している.
「そうだ!・・今日は3連休の初日だったな・・」
小田原駅で7時04分発東海道新幹線「ひかり501号」に乗り換える.私は,サラリーマン時代から,この電車が混雑することを知っていたので,数日前に指定席を確保していたので良かったが,勿論,指定席は満杯,自由席は多数の立ち席がでるほどの混雑である.
列車にはビジネスマンらしい方々も沢山乗車している.私も,現役時代,この列車を利用して,何回となく大阪方面に出張した経験がある.休日にもかかわらず働いているビジネスマンを見ていると,私もあの頃は随分と頑張っていたなと,現役時代のことを懐かしく思い出す.
私の指定席は後ろの方の車両だったが,たまたま今回同行する方々が近くに座っておられる.正に偶然である.
久々の新幹線の旅である.私は車窓から富士山を眺めるのを楽しみにしていた.しかし残念ながら分厚い雲に遮られて富士山は全く見えない.残念だが致し方ない.
列車は豊橋に停車した後,8時20分に名古屋駅に到着する.名古屋で8時46分発特別快速米原行東海道本線の電車に乗り換えて,今回の歩き出し地点の垂井駅に9時20分に到着する.
<名古屋駅にて>
■垂井駅集合
9時30分垂井駅集合の予定である.
参加者11人が,同じ電車に乗車していたので,集合時間前に全員が揃う.
改めて,リーダーのお一人から挨拶がある.そして,各自自主的に足回りの準備体操をした後,定刻9時30分に,垂井駅から歩き出す.
<垂井宿地図>
■垂井宿とその周辺(前掲)
■垂井宿詳細図
<垂井宿を行く>
■垂井宿の概要
垂井宿は日本橋から53次の宿場.宿内人口1179人.内,男598人,女58人.宿内惣家数315軒,内,本陣1軒,脇本陣1軒,旅籠27軒であった(資料3,p.308).
資料6によると.「西町・中町・東町の3町に分かれ、本陣は中町にあった。問屋場は3か所あった。毎月5と9の日に南宮神社鳥居付近で開かれた六斎市は大勢の人で賑わった。大垣・墨俣などを経由して東海道宮宿とを結ぶ脇往還美濃路との追分で、西美濃の交通の要衝であった。」
■駅前から中山道へ
垂井駅は人影少なく閑静な駅である.前回は中山道から川沿いの回り道をして駅に到着したが,今回は,ちょっとした商店街のようなところを数十メートル歩いて,相川橋から少し離れたところにある三叉路で中山道に到着する.正確に言うと相川橋の袂から,この三叉路までの10数メートルを歩いていないことになるが,細かいことは”マア,イイカ”で見逃す.同行されている方々は,少しばかりズルをしたことに気がついているだろうか.
まあ,とにかく,8時43分,駅前から中山道に到着する.ここを左折して中山道に入る.
中山道は,瓦葺きの大きな家が建ち並んでいる閑静な通りである.
<駅前通を左折して中山道に入る>
■問屋場跡と本陣跡
三叉路から中山道に入ったところに,用心井戸がある.直径2メートルほどの井戸に覆いが被せてある.傍に何の説明もないので,ここが果たして用心井戸かどうか明確ではないが,他にそれらしい物がないので,多分,用心井戸に違いないだろう.
つづいて,直ぐに問屋場跡がある.古い日本家屋の前に白い説明板が立っている.
<問屋場跡> <本陣跡>
■垂井宿の問屋
9時15分,問屋場跡を通過する.瓦葺きの民家の軒下に案内板が立っている.
この案内板の説明によると,垂井宿の問屋は金岩家が代々弥一右衛門を名乗って運営していた.金岩家は問屋の他に,庄屋などいくつかの要職を兼ねていたようである.
問屋には年寄,帳付,馬指,人即指などがいて,荷物の運搬を取り仕切っていた.さらに,相川の人足渡しの手配もしていたという.
問屋の規模は,間口5.5間,奥行7.5間.25人の人足,25匹の人馬で運営していたらしい.
■垂井宿本陣跡
問屋跡の直ぐ近くに垂井宿本陣跡示す立て看板と杭が立っている.それ以外に,往時を偲ぶものは何もない.
立て看板の説明によると,本陣建物の広さは178坪.玄関と門,上段の間を供える広大な建物だったようである.代々栗田家が,酒造業を運営する傍ら,本陣職を担当していた.
1780年(安永9年),本陣の建物は焼失したが,後に再建され,明治時代には学習義校(現在の垂井小学校)の校舎として利用されていたという.
■南宮大社大鳥居
9時47分,南宮大社大鳥居前に到着する.大きな灯籠のある大鳥居である.
傍らに立っている案内板によると,1642年(寛永19年),徳川家の寄進により,南宮大社が再建された.そのときに,この明神型大鳥居も400両ほどの費用で,石屋権兵衛が建立した.
大鳥居の大きさは,横幅(内側)454.5センチメートル,頂上までに高さ715センチメートル,柱の周囲227センチメートルとのことである.
鳥居の中央に掲げられている顎には「正一位金山彦大神」と書かれているが,これは延暦寺天台座主青蓮院尊純親王の筆跡だと説明されている.
「青蓮院尊純親王?」
浅学の私には,どのようなお方か分からない.資料6によると,「尊純法親王(そんじゅんほっしんのう、天正19年10月16日(1591年12月1日)-承応2年月26日(1653年6月21日))は、江戸時代前期の天台宗の僧。父は応胤法親王。母は福正院。1598年(慶長3年)天台宗青蓮院第48世の門跡に入る。1604年(慶長9年)権少僧都・権大僧都を歴任し、1607年(慶長12年)良恕法親王から灌頂を受けた。1615年(元和元年)大僧正に任じらる。1640年(寛永17年)に親王宣下を受け、尊純と号した。1644年(正保元年)天台座主173世となり、日光山法務を兼帯、日光東照宮の営繕をつとめた。1647年(正保3年)には二品に叙せられ、1653年(承応2年)天台座主77世に就任している。書に秀でていた。」とのことである.
<南宮大社大鳥居>
■旅籠
大鳥居を過ぎて直ぐの所に,昔の旅籠の風情を残した瓦葺きの建物がある.入口の引き戸に「旅籠」と大きな字が書いてある.昔の旅籠は,こんな風情だったのかなと思いながら通過する.
<旅籠風のお休みどころ>
■垂井宿の商家
続いて垂井宿の商家が残っている.傍らの案内板の記事によると,この商家は1817年(文化末年)頃建てられた間口5.5間,奥行6間の油屋卯吉(宇吉)の家で,当時は多くの人を雇い,油商売を営んでいた,明治以降,小林家がヘヤを改造し,亀屋と称して旅人宿を営んだ.
土蔵造りに格子を入れ,宿場時代の代表的商家の面影を残しているという.
<垂井宿の商家>
■本龍寺
9時51分,本寺の前を通過する.
資料8によると,「本龍寺の山門や書院の玄関は脇本陣から移築したものといわれています。松尾芭蕉は元禄4年(1691)この寺の住職規外を訪ね、冬籠もりして「作り木塚をつくり句碑を建てました。安政2年(1855)化月坊が住職世外とで時雨庵を建て句会を開き句碑も建てています。」と説明されている.
<本蓮寺>
(つづく)
[参考資料]
資料1;岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料2;ウエスト・パブリッシング(編),2008,『中山道を歩く旅』山と渓谷社
資料3;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料4;五街道ウォーク事務局,発行年不詳,『ちゃんと歩ける中山道六十七次』五街道ウォーク事務局
資料5;「岐阜県十七宿散策ガイド」日本歴史街道美濃中山道連合・岐阜県
資料6;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9E%82%E4%BA%95%E5%AE%BF
資料7;http://talent.yahoo.co.jp/pf/detail/pp233778
資料8;http://www.jalan.net/kankou/220000/221100/spt_21361ag2132042084/
「中山道六十九宿」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/f853378afa0117874519d41aca1aa93b
「中山道六十九宿」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/b262bda73cba23596c1f08d5fcb7d76f
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