中高年の山旅三昧(その2)

■登山遍歴と鎌倉散策の記録■
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歩いて巡る中山道六十九宿(第14回);第1日目(2);垂井宿から関ヶ原宿へ

2012年09月19日 06時00分51秒 | 中山道六十九宿

                                   <垂井宿を行く>

 歩いて巡る中山道六十九宿(第14回);第1日目(2);垂井宿から関ヶ原宿へ
            (五十三次洛遊会)
      2012年9月15日(土)~17日(月・敬老の日)

第1日目;2012年9月15日(土)  (つづき)

<垂井宿から関ヶ原宿へ>

■垂井宿(再掲)


関ヶ原宿





<垂井宿西の見付けと松島稲荷神社>

■西の見付
 9時53分,垂井宿西の見附を通過する.
 傍らに立つ案内板には「垂井宿西の見附と広重の絵」と題した案内板が立っている.この案内板の記事によると,安藤広重は,この付近から西を見て,雨の降る中山道松並木の版画を作成した.この版画には,松並木の中を通過する大名行列が西から垂井宿へ向かう様子が彫り込まれているという.
 

<西の見付>

■松島稲荷神社
 9時56分,松島稲荷神社に到着する.沢山の赤い鳥居が印象的である.
 傍らに立つ案内板の記事によると,この神社は1839年(天保10年)創建.農耕の神,本社は伏見稲荷である.


<松島稲荷神社>

■垂井一里塚案内板
 田んぼと集落が入り交じる長閑な田園地帯を西に向かって歩く.やや蒸し暑い.私達の列も少しばらける.
 10時02分,垂井一里塚まで300メートルを示す案内板を通過する.

 周囲は平凡な田園風景である.私達はひたすら歩き続ける.


<国史跡垂井一里塚>

■古い道標
 10時01分,古い道標の前を通過する.「南□□・・・□」と書いてあるが殆ど読めない.従って,私には何の道標か良く分からない.「まあ,・・・いいや」で確かめないまま通過する.

<古い道標>

■弘法大師
 10時08分,弘法大師と刻字してある石柱の前を通過する.手許の資料では,ここで弘法大師が何をされたかは分からないが,多分水に関連することだろうと勝手に想像する.

<弘法大師と刻字された石柱>

■垂井の一里塚
 10時09分,垂井の一里塚に到着する.江戸日本橋から112里,京まで24里の地点である.
 ここの南塚が現存,国重要文化財の指定を受けている.塚の上の大木が立派である.


<垂井の一里塚>

<野上間ノ宿>

■垂井宿の看板の先で国道21号線に交差
 10時19分,稲田の中に立つ「中山道垂井宿」の看板の前を通過する.この案内板の直ぐ先で国道21号線を横断する.
 私達は,いよいよ垂井宿にお別れして関ヶ原宿に向かっている.

<国道21号線と交差>

■不破ノ関病院
 10時17分,進行方向左手に白い大きな建物が見え始める.不破ノ関病院である.
 関ヶ原合戦のとき,徳川方の浅野幸長がこの辺りに陣地を張ったと伝えられているようである.
 資料6によると,浅野幸長は安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将,大名.紀伊国和歌山藩の初代藩主である.


<不破ノ関病院>

■関ヶ原(野上間ノ宿)へ入る
 10時20分,関ヶ原宿を示す案内杭の前を通過する.周囲には田んぼが広がっている.私達も,いよいよ関ヶ原宿に到着である.

<いよいよ関ヶ原宿>

■伊富岐神社
 10時28分,伊富岐神社(いぶきじんじゃ)の大鳥居に到着する.ここは県社.この辺りで山内一豊が陣地を張ったようである.
 資料7によると,社殿は東南東を向いていて,伊吹山を背後にした形で作られているという.私達は,社殿は拝見しないまま通過する.同資料によると「
伊富岐神社の祭神ははっきりしていない。幾つかの説があるが、古代、この地域に勢力があった伊福氏の祖神を祭っているという。説としては多多美彦命(夷服岳神気吹男神、伊富岐神),八岐大蛇,天火明命,草葦不合命などがある。」という.
 神様の名前は,浅学の私にはチンプンカンプンである.


<伊富岐神社>

■野上間ノ宿
 10時31分,野上間ノ宿に入る.進行方向右手に,『野上「七つ井戸」』の案内板がある.この案内板によると,江戸時代から僅かな地下水を取水して防火用,生活用,農業用など多目的に利用されてきた.街道筋の井戸は「野上の七つ井戸」として親しまれていたようである.

<野上間ノ宿にて>

■野上「七つ井戸」の案内板
 この案内板の脇から南北に路地が分岐する.それぞれ平忠常の墓と大海人王子行宮跡に通じている.時間の都合で,両方を見学することはできないので,大海人皇子行宮跡だけを見学することになる.

<野上「七つ井戸」の案内板>

■真念寺
 狭い路地を南へ向かう.国道21号線を渡ると,右手に真念寺がある.山号は鶏籠山.参道入口に由緒碑が立っていて,この寺の曰く因縁が説明されているが,ここでは省略する.


<真念寺>

■大海人皇子行宮跡
 真念寺東側の路地を案内杭に従って,緑豊かな路地を南へ進む.
 10時40分,大海人皇子行宮跡に到着する.深い緑の中,ひっそりとしている.傍らの案内板の記事によると,壬申の乱(672年)のとき大海人皇子は野上の長者屋敷と呼ばれる小高い小平地に行宮を興して本営とした.
 乱ののち,行基が行宮廃材で南方六坊(みなみかたろくぼう)を建立したという.


<野上行宮跡>

<関ヶ原宿>

■関ヶ原宿の概要
 
関ヶ原宿は江戸日本橋から第58次の宿場である.資料3(p.313)によれば,宿内人口1389人.内,男685人,女704人.宿内惣家数269軒.内,本陣1軒,脇本陣1軒,旅籠33軒の規模であった.
 資料1(p.150)によると,天武天皇が不破ノ関をここに設けた.東山道時代からの交通の要所.およそ400年前に天下分け目の戦がこの周辺で展開された
 地元の観光案内によると,関ヶ原宿は北国街道と伊勢街道の分岐に位置していて,美濃16宿の中で最も繁栄していた宿場だったようである.

■徳川家康初陣地

 野上行宮跡から往路たどって,中山道に戻る.途中で東海道新幹線のガード下を潜る.数分おきに新幹線の列車がもの凄い速度で走っている.
 中山道沿いに南西に向かう.
 10時44分,足許の舗装道路が,いきなり煉瓦を敷き詰めた綺麗な道になる.何事かと辺りを見回すと,公園風に良く整備されている公園のようである.


<徳川家康初陣地跡>

■六部地蔵
 小さなお堂の中に六部地蔵が祀られている.別名「歯痛地蔵尊」と呼ぶ(資料8,p.6).
  “六部地蔵
     歯痛なおりて
        札参り”
と詠まれているように,歯痛を治すことで知られているという.


<六地蔵>


<六地蔵前で一休み>
                          (つづく)
[参考資料]


資料1;岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料2;ウエスト・パブリッシング(編),2008,『中山道を歩く旅』山と渓谷社
資料3;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料4;五街道ウォーク事務局,発行年不詳,『ちゃんと歩ける中山道六十七次』五街道ウォーク事務局
資料5;「岐阜県十七宿散策ガイド」日本歴史街道美濃中山道連合・岐阜県
資料6;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E9%87%8E%E5%B9%B8%E9%95%B7
資料7;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%AF%8C%E5%B2%90%E7%A5%9E%E7%A4%BE
資料8;「せきがはら巡歴手帖」関ヶ原町役場地域振興課

「中山道六十九宿」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/316f08b1e2c62d0a89d10e0af56257b8
「中山道六十九宿」の次回の記事

http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/44b5e48e304510dc82ab480eeab263c4

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