中高年の山旅三昧(その2)

■登山遍歴と鎌倉散策の記録■
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初夏の鎌倉:山ノ内・天園・源氏山を一回り(2)

2010年06月06日 00時01分41秒 | 鎌倉あれこれ

                                              <源頼朝墓>

             初夏の鎌倉:山ノ内・天園・源氏山を一回り(2)
                               (単独散策)
                   2010年6月3日(木)
 つづき

<大倉山山麓へ>

■荏柄天神

 バス停鎌倉中央公園入口から,山ノ内,北鎌倉,天園ハイキングコースを一回りした私は,11時55分に瑞泉寺登山口に下山する.途端に観光客の数が増える.山歩きをしている人たちと服装が違う人が多くなる.
 山を降りると少し蒸し暑くなる.
 私は,沢山の観光客に混じって,12時04分に鎌倉宮に到着する.観光客が更に増える.鎌倉宮はそのまま通過して,荏柄天神付近で右折して西へ向かう.


■村田清風句碑
 東御門付近で枝道に入る.そして,駐車場を抜けて,大倉山の山裾の道に入る.私は,この山沿いの閑静で狭い路地を歩くのが大好きである.
 12時16分頃,村田清風句碑の前に到着する.
 句碑の傍らにある説明文によると,村田清風は「幕末の長州藩の武士.藩校明倫館で学び,江戸に出て,和学講習所で国学,兵学を修めた」人物だとのことである.
 清風は1822年(文政6年)に,「大江広元の墓の修理のために鎌倉へ来て,滞在中に詠んだ俳句が鎌倉の大石家に伝えられた.そして,大石湘湖らの呼びかけで,この句碑が建てられた.」
 私には句碑に書いてある文字は読めないが,説明文によると,
  “鎌倉の御事蹟を探り探りて
        清風 むかし語りききくきくむしる尾花哉”
と書いてあるようである.

<閑静な路地を行く>


<村井慎二句碑>

■三浦ヤグラ
 この村田清風の句碑を見た途端に,大江広元の墓を,急に訪れたくなる.
 私は村田清風句碑の過ぎ脇にある石段を登る.夏草が足許に繁茂している.花の名前は分からないが,白い小さな花が足許一面に咲いている.つい1ヶ月ほど前に,ここを訪れたときより,夏草が一層盛り上がるよう生え茂っている.私は夏草をかき分けるようにして,広場を進む.
 進行方向左手にある三浦ヤグラは,繁茂する緑陰に不気味に暗くなっている.
 私は,長い石段を登って,大江広元の墓を訪れるつもりである.私は
 「ひょっとして,例の博識の先生(以下先生と略す)に会えるかも知れないな」
と期待している.

<三浦ヤグラ> 

<大倉山ヤグラ群>

■浸水激しい毛利季光墓
 三浦ヤグラ群のある広場は,夏草に覆われている.辺りには全く人気が無く,静まりかえっている.私は,先生に会えることを期待しながら,長い石段を登る.階段を登り切ったところに三つの櫓が並んでいる.向かって左側が毛利季光(すえみつ),真ん中が大江広元,右側が島津忠久の墓である.先生は,毛利季光の墓の前で掃除をしておられる.
 「先生,こんにちは.ご苦労様です・・」
と挨拶をする.先生は,
 「やあ,暫く・・」
と言いながらニッコリする.
 ちなみに,毛利季光は大江広元の子で,中国地方の大名毛利氏の祖.島津忠久は源頼朝の子だといわれている(鎌倉教育センター(編),2009,pp.42-43).
 「先生,その後,ヤグラの状態は如何ですか・・?」
と気になることを質問する.実は,先生の話によると,つい最近になって,このヤグラの崩壊が急速に進行しているようである.
 「だめですね・・ついこの間の大雨のときにも,ヤグラの中が水浸しになっちゃいましたよ・・」
 「やっぱり,止水は無理なんでしょうか.何かうまい策は無いんでしょうかね」
 「この辺りは凝灰岩なので,なかなか防水するのは難しいでしょう.結局,紅葉ヤグラのような形で残すしかないでしょうね」 
 「そうですか,残念ですね.紅葉ヤグラのようになってしまったら悲しいですね」
 「ヤグラが崩れていくのを,静かに見守る・・これも成り行きで仕方がないですね」
 「・・・.」
 「自然は人工物を嫌うんです.排除するんです.だから人工物のヤグラが消え去るのは仕方がないことなんですね」
 先生は愛おしむようにヤグラを見ながらつぶやく.
 「消えていくものを,そっと見守る運命なんですよ・・」
 先生の案内で,ヤグラの中を見せて貰う.天井からの漏水で内部は,まだビシャビシャである.ヤグラの天井部分や壁面の割れ目が,一段と大きくなっている.ヤグラの上を見ると,草木の根が空中に宙づりになっている.
 「あの根が出ているところまで,元々は土の中だったんですよ.あの分だけ,上の土がずり落ちたか,崩落したんですよ・・」

<草むらを抜けて長い石段を登る>


<右が島津忠久,左が大江広元の墓:毛利季光の墓は写真の左外



<毛利季光墓:線香立が雨の漏水の水で一杯になってしまった>

■大きな石柱の傷
 先生からいろいろと教えて貰う
. 先生の話によると,毛利季光の墓の左側の山肌は,大きな石碑を設置するために大正時代に掘削されたところだという.
 「この鑿(のみ)の跡を見て下さい.大正時代になると,今とほとんど変わりがないですよ.この設置場所を,一気に掘削していますよ.鎌倉時代のヤグラの鑿の跡とは明らかに違いますね・・」
 先生の解説が続く.
 毛利季光のヤグラの脇にある大きな石碑は,もともと鶯谷にあった.それを,大正10年に,ここまで運んだ.そのときに,この石柱が余りに重いので,内部を切削して空洞にして軽くした.軽くしたとはいえ,まだ,まだ重いので,運搬する途中で,縄をかけたところや,石碑の四隅が欠けてしまった.
 先生が私に説明する.
 「この大きな石碑を,この高い位置まで引き上げるのは,昔も今も大変なことですよ.ところが見て下さい.大江広元の墓の脇にある石碑は,ほぼ同じ大きさなのに,ほとんど傷が付いていないでしょう.しかも,大江広元の方は,石碑の中をくり抜くなんていうことしていないんです.無垢のままなんです・・」
 大江広元の墓ができたのは,まだ大名家が一国一城の主,いわば独立国のような時代だったので,大名家が膨大な人手と予算をつぎ込んで難工事を実施した.ところが,明治維新以後は大名家は没落.大正時代になると,大名家の手が及ばなくなり,市町村や篤志家の手で,この種の工事が行われるようになったので,十分な手が回らなくなった.大正時代に動かした毛利季光側の石碑に傷が多いのは,こんなところに原因があるという.
 ちなみに,これらの石碑は,垂直に立っているのではなく,2度ほど後ろに傾けて立ててあるという.その理由は,地震などで倒壊するときに,前に倒れずに後ろに倒れるようにするためのようである.
 
        <中をくり抜いて軽くした石碑> 
        ※後ろの岸壁は大正時代に掘った.石碑に運搬傷が残る.

■惜別のヤグラ群
 先生と私は毛利季光ヤグラの前に立っている.ここから大江広元と島津忠久の墓を眺めると,墓前の空き地が谷川にかなり傾いていることが分かる.
 「この柵を見て下さい.随分と傾いているでしょう.実は,この柵は水平に作り直されているんです.そのときに,もともと水平だった柵の谷川が15センチメートルも沈んでいたんです.その分だけ山側を削って作り直したんです・・・」
 先生の説明を伺いながら三つのヤグラを見比べる.すると,毛利季光側に近いほど,逆に言えば新しいヤグラほど崩落の度合いが高いことに気がつく.
 いずれにしても形あるものは,やがて消えていく無常観が,この辺りに漂っている.

<毛利季光の墓の縁の岩に隙間が広がる>

■いろいろな古文書
 先生からいろいろな古文書を見せていただく.これらの内容がとても面白いので,すべてをブログに記録しておきたいが,それでは冗長になる.
 古文書の絵図を見せていただく.原典は東大の図書館にあるとのことである.この図は源頼朝墓の前には一面に田圃が広がっていることを示している.
 もう一枚の絵は,法華堂付近を描いたものである(年代,出所失念).
 これらの絵を,今の地勢と比較してみると,実に面白い.
 彩色を施した絵図は,今から150年ほど前に描かれたもので,原典は東大にある.先生の話によると,この絵の原典は大変貴重で,まさに国宝級の逸品のようである.
   
    <法華堂の前は一面の田圃だった> 

<法華堂の絵>

     
     <出典の古文書>


<150年前の絵>

■二本の石段
 これらの絵図を見ると,現在二本ある石段は,もともと一本しかなかったとのことである.下から一本の階段を登る.そして,三つのヤグラの直ぐ下にある踊り場で,階段が分岐していたようである.なぜ,現在のように2本の階段になったかについて,以前,先生から伺ったことがあるが,今回は記述を省略する.先生が,
 「階段を一寸降りてみましょう・・・」
という.少し下ったところの二本の石段の間に,昔の階段の石段が残っている.さらにその下に昔の排水路の一部が残っている.
 これらを見ていると,鎌倉の歴史の襞のようなものが少し見え始める.改めて鎌倉は凄いところだなと実感する.

<古い石段が残る>

<観光客で賑わう鎌倉市内へ>

■源頼朝墓

 あまり先生の時間を費やしてもまずいので,先生に挨拶をして,12時47分,大倉山ヤグラ群を出発して,大倉山から急坂を下って,源頼朝墓に到着する.ここは,一寸離れたところにある大倉山ヤグラ群とは別世界である.沢山の観光客や遠足の子ども達で溢れている.
 これまで,物音一つしない場所で,古い歴史の遺構を楽しんでいたので,あまりの環境の変化に戸惑う.
 こうなると,一人で感傷に浸ってもいられないので,そそくさと石段を下りてしまう.そして,西御門を経由して,観光客で賑わう鶴岡八幡宮に向かう.
 

■大混雑の鶴岡八幡宮
 白旗神社を経由して.12時58分,鶴岡八幡宮に到着する.
 境内のあちこちで,遠足の子ども達がマットを広げて昼食を摂っている.初夏の行楽シーズンのためか,とにかく遠足の子ども達の人数がきわめて多いのに驚く.
 余談だが,鎌倉市の統計によると,鎌倉を訪れる観光客の人数は,年間焼き1900万人.以前は,この約50パーセントは海水浴客だったが,最近は傾向が変わって,社寺観光とショッピング客が50パーセントを超えているという.
 そう言われてみると,つい数年前までは,夏場になると,社寺やハイキングコースを訪れる観光客は確かに少なかったが,この頃は年間を通して,観光客が多くなったような気がする.

<白旗神社>

                                (つづく)
[参考文献]

鎌倉教育センター(編),2009,『かまくら子ども風土記』鎌倉市教育委員会

「鎌倉あれこれ」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/cbdf7466743f9bb0a385b3cc0e8186ac
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