<信濃国分寺を行く>
善光寺街道;第2回;第2日目(5);信濃国分寺と国分寺史跡公園
(五十三次洛遊会)
2015年10月27日(火)~2016年10月29日(木)
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第2日目;2015年8月26日(水) (つづき) 晴
<ルート地図>
■信濃国分寺
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※再掲
■信濃国分寺詳細図
<信濃国分寺について>
私達は,善光寺街道から離れて,信濃国分寺を参拝する予定である.
まずは信濃国分寺の沿革を,資料3から引用することにしょう.
[資料3から引用];信濃国分寺の沿革
「上田市には信濃国の国府が設けられたと見られており,古代信濃国の中心地であった.創建時の国分僧寺跡・尼寺跡は並んで建てられており,現在はその中をしなの鉄道が通っている.そして僧寺跡の北方300メートルの場所に現在の国分寺が立っている.
僧寺・尼寺が創建された時期は明らかとはなっていない.存続については,発掘調査によって両寺とも平安時代初期まで認められている.しかしながら,現国分寺位置への移転の年代は定かでない.寺伝では承平8年(938年)に平将門と平貞盛の合戦で焼亡したという.ただし『将門記』にも国分寺辺での合戦の記録があるが詳細は明らかではなく,発掘で明らかとなった焼けた痕跡も一部に留まっていることから,他国の国分寺同様に平安時代末期の律令制衰退により荒廃したと見られている.現寺院の境内にある石造多宝塔は鎌倉時代の作と見られることや,寺伝では三重塔の建立を建久8年(1197年)ということから,移転時期を平安時代と見る考えがある.
なお,諸国国分寺の本尊の多くが釈迦如来であるのに対して当寺は薬師如来であることについて,平安時代中期に寺勢が傾いた際の復興において,当時の仏教思想の潮流に従ったものと推測されている.」
なお,資料3によると,信濃国分寺の概要は以下の通りである.
山号; なし(旧・浄瑠璃山)
宗派; 天台宗
本尊; 薬師如来
創建; 奈良時代
別称; 八日堂(旧名;浄瑠璃山真言院国分寺)
文化財; 三重塔(国重要文化財)
信濃国国分寺跡(国の史跡)
本堂(県宝)
石造多重塔・本堂勧進帳ほか(市重要文化財)
<信濃国分寺を参拝>
■しなの鉄道信濃国分寺駅
私達は,神川小学校前で善光寺街道から脇に地に逸れて,14時33分,しなの鉄道信濃国分寺駅に到着する.おんぼろの(?)小諸駅とは比較にならないほど洒落た駅である.
信濃国分寺駅で,小諸行電車の時刻表を確認してから,14時36分,信濃国分寺へ向けて歩き出す.
余談になるが…
私が信越本線に乗って小諸から上田まで汽車通学をしていた頃には,大屋駅の次は上田駅,信濃国分寺駅はなかった.ただ,国分寺公園辺りの風景を毎日車窓から眺めていたので,この辺りに信濃国分寺があることだけは知っていた.ただ残念ながら,私はこれまで信濃国分寺を参拝したことがない.地元民として,恥ずかしながら,信濃国分寺駅に立ち寄るのも,信濃国分寺を参拝するのも,私にとって初めてのことである.
初めての参拝なので,当然地図を頼りである.
まずは目の前を走る見覚えのない立派な道路に驚く.地図を頼りにこの道路を上田方面に向かって歩き出す.
14時41分,「八日堂信濃国分寺」の案内板を見つける.この案内板の記事を読んで,信濃国分寺の位置を確認する.
<しなの鉄道信濃国分寺駅> <信濃国分寺の案内板>
■信濃国分寺山門
14時44分,信濃国分寺山門(正式な名称は私には分からない)に到着する.
山門の前には「八日堂信濃国分寺」という刻字のある立派な石柱が立っている.
山門を潜ると,なだらかな登り坂の参道が続く.参道の両側には民家が軒を連ねている.
<信濃国分寺の山門>
■境内に入る
参道を登って,14時48分,墨書で「信濃国分寺」と書いてある大きな看板が掛かっている門を潜る(この門の正式名称は分からない;中門?).
石畳の参道の突き当たりに本堂が建っている.見るからに立派な寺である.
<門を潜って境内に入る> <参道の向こうに本堂が見える>
■真田・徳川会見之地
参拝を済ませて,境内を一回りする.
最初に目に付いたのが,「真田徳川会見之地」と刻字された立派な石柱である.
資料4には,次のような説明がある(…「である」調に書き換えた.詳しくは資料4参照).
「…関ヶ原合戦の直前に起こった第2次上田合戦のとき,信濃国分寺はその舞台に出てきた.
江戸から関ヶ原へ向かい中山道を西上していた徳川秀忠.その途中,秀忠は上田城に籠る真田昌幸をまず手始めに降伏させようとする.その時の手段が会見であった.昌幸が降伏するよう会見の場を設けたのだった.その時の徳川側の使者が真田信幸と本多忠政.そして真田昌幸・徳川の会見が行われた場所が信濃国分寺である.
ちなみにこの時,昌幸は降伏することを受け入れたと見せかけて,実は戦闘の準備をしていた.そしてそのまま第2次上田合戦へ突入した.結局秀忠は上田城を落城させることができないうえに,関ヶ原の合戦に間に合わないという大失態を演じてしまうことになった…」
<真田徳川会見之地>
■本堂(薬師堂)
まずは本堂の写真を撮る.
資料3によれば,本堂は文政12年(1829年)の発掘で,天保11年(1840年)に起工,万延元年(1860年)に竣工した建物だという.
善光寺と同じように庇が作られているので2階建てのように見えるが,構造的には単層,近世の堂としては東信州地区で最大だという.県宝に指定されている.
<本堂(薬師堂)>
■三重塔と鐘楼
続いて三重塔と鐘楼を見物する.
資料3によると,三重塔は「高さ20.1メートルで,源頼朝発願と伝えられる.塔内に建久8年(1197年)の墨書があったと伝えられるが,様式から室町時代中期建立と推定される」とのこと.
なお,内部に「大日如来像が安置されている」という.国重要文化財.
<三重塔> <鐘楼>
■甲子大黒天
本堂脇に甲子大黒天が祀られている.
この大黒天の由来などは手許の資料では良く分からない.とにかく写真だけは撮っておこうと思う.
この地方で七福神巡りのルートがあるのか興味がそそられる.
<甲子大黒天>
<国分寺史跡公園>
■紅葉が美しい国分寺史跡公園へ
14時57分,参拝と見学を終えて,信濃国分寺の境内(中門?)から外へ出る.参道を下って,15時02分,喧噪の自動車道路に戻る.
自動車道路を横切って,国分寺史跡公園に入る.道路としなの鉄道の線路の間に,広々とした公園が広がっている.
公園内の紅葉を楽しみながら,信濃国分寺駅の方に向かって,ノンビリと歩き続ける.
資料3の記事によると,「信濃国分寺の西方に信濃国分尼寺が並んで建っていた」と「いう.東西南北80間四方(150メートル四方)の境内に金堂,講堂,中門,回廊,経蔵,鐘楼,尼坊などの跡が確認されている」とのこと.
私達が今歩いている国分寺史跡公園の一部が信濃国分尼寺の境内と重なっているのだろうか.にわか勉強の素人の私には判断がつきかねるが,信濃国分尼寺跡を歩いていることにておこう.
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■発掘作業
公園の一角で,かなり大規模な発掘作業が進められている.一体,何があるのだろうか?
どうやら,大きな建物の跡のように思える.
<発掘作業の現場> <園内をユックリと歩く>
■僧寺講堂跡と金堂跡
15時09分,信濃国分寺講堂跡と金堂跡を見物する.それぞれの敷地に小さな案内板が立っている.
”なるほど,こんな所にあったのか…”
と合点しながら通過する.
<僧寺講堂跡> <僧寺金堂跡>
■再び信濃国分寺駅へ
国分寺史跡公園を抜けて,15時11分,信濃国分寺駅近くの駐車場に入る.さらに駐車場の中を通り抜けて,15時14分,再び信濃国分寺駅に戻る.
私達は,信濃国分寺駅15時23分発軽井沢行の電車に乗って,今夜の宿泊場所である小諸まで移動する予定である.
<柵を通り抜けて駐車場へ> <再び信濃国分寺駅へ戻る>
[参考資料]
資料1;完全踏査街道マップシリーズ『ちゃんと歩ける善光寺街道』五街道ウォーク事務局
資料2;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料3;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E6%BF%83%E5%9B%BD%E5%88%86%E5%AF%BA
資料4;http://sanada-tabi.com/cathle/ueda/sinanokokubunzi/
(つづく)
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