中高年の山旅三昧(その2)

■登山遍歴と鎌倉散策の記録■
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中山道中六十九宿巡り(78):第9回(18):塩尻宿 

2011年01月24日 23時42分44秒 | 中山道六十九宿
                                  <コンビニで一休み>

          中山道中六十九宿巡り(78):第9回(18):塩尻宿
              (五十三次洛遊会) 
         2010年9月11日(土)~13日(月)

第3日目:2010年9月13日(月) 
 (つづき)

<ルート地図>





<柿沢の聚落を通過する>

■首塚胴塚
 11時58分,みどり湖PA付近の跨道橋を渡る.
 12時08分,「首塚胴塚」と書いた案内板の前に到着する.進行方向左手(南)へ少し入る.一寸した登り坂である.さらに左に直角に曲がって,20メートルほど坂を登ると,黄色い花に囲まれて,大きな石碑が2碁立っている.手前が首塚である.
 傍らに石造りの説明板が設置されているが,夏草が視界を遮っていて,とても読みにくい.どうやら碑文によると,「ここで,1548年(天文17年),武田信玄と松本の小笠原長時が戦った.いわゆる塩尻合戦の場所である.この塩尻合戦で,両軍あわせて千余人が戦死した.そして,ここは戦死者を葬ったところでもある.この石碑の書は小笠原長時の子孫である海軍中将小笠原長生が書いたものだという.
 この合戦では,信玄が大勝する.そして,敗軍の将,長時は失意の内に生涯を閉じる.長時の子,貞慶は後に家康により,1632年(嘉永9年),小倉藩15万石藩主となる.」
 碑文を読みながら,今はこんなに平和に見える場所でも激しい合戦があったかと思うと,身の毛がよだつ.
 数名の同行者が,坂道を登るのが嫌だといって,坂下の木陰で休んでいる.
 「・・折角,ここまで北のだから,見てきたら・・」
とそそのかすが動こうとしない.


■道祖神と下柿沢交差点
 首塚胴塚を見てから,元の道に戻る.再び緩やかな下り坂を歩き続ける.
 歩き出してすぐに,進行方向右手に小高い丘と森が見える.あれは多分八幡神社の森だろうと思いながら通過する.地図で確かめると,私達は柿沢という聚落を通過中である.
 12時17分,進行方向右手に3基ある最後の道祖神の前を通過する.そして信号下柿沢を渡る.いよいよ,今回の旅の終点,塩尻宿に入る.


<いよいよ塩尻宿>

■塩尻宿に入る
 資料1によれば,「塩尻宿(しおじりしゅく)とは,中山道六十九次のうち江戸から数えて三十番目にあたる宿場.現在の長野県塩尻市中心部.中山道が江戸時代初期の慶長年間に大久保長安によって整備された当初は,当所を通らず下諏訪宿から贄川宿を結ぶ最短経路であったが,この区間が難所続きであったため大久保長安の死後に経路が変更され,宿場として整備された.最盛期には旅籠が70軒以上あり,松本藩六万石の玄関口として栄えたとされる.慶長10年(1726年)以降は天領になり,幕府の塩尻陣屋が置かれた.明治16年の大火で町の大部分を焼失したため往時の様子を留めるものは少ないが,堀内家住宅など貴重な文化財も残されている.塩の道と呼ばれる三州(伊那,飯田)街道の分岐点でもあり,三河国からは南塩が,また糸魚川からは松本経由で北塩が運ばれた.天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば,塩尻宿の宿内家数は166軒,うち本陣1軒,脇本陣1軒,旅籠75軒で宿内人口は794人であった.」

■三河道と合流
 信号下柿沢の変形五叉路を直進して細い道に入る.
 数分歩くと,進行方向左手から三河道が合流する.三河道は伊那飯田を経由して三河へ抜ける街道である.

■柿沢の一里塚
 地図を確かめると,そろそろ柿沢の一里塚跡があるはずである.江戸日本橋から58番目の一里塚である.道路の両側をキョロキョロと見回しながら注意深く歩くが,結局見つけられないまま通過する.残念.

■高札場
 12時18分,高札場跡を通過する.高札場跡に,今も掲示板が設置されているのが面白い.「10月1日は国勢調査」というポスターが貼ってある.今風の高札場の雰囲気が面白い.


■道路を跨ぐ大きな鳥居
 12時19分,道路を跨ぐ大きな鳥居を潜る.この鳥居が何処の神社のものかは分からない.


■縁並橋と双体道祖神
 12時26分,えんなみ橋(縁並橋)を渡る.渡ってすぐ右側に双体道祖神が立っている.

 


■三州街道分岐点
 12時32分,三州街道分岐点を通過する.
 資料2によると「塩の道は、日本の街道のひとつ.中世において日本海側と太平洋側から信濃国に塩を運ぶ役割を果たし,現在の塩尻市で合流した.新潟県側の千国街道(ちくにかいどう)(別名:糸魚川街道・松本街道)は、糸魚川~松本~塩尻。愛知県側の三州街道(別名:伊那街道・飯田街道)は岡崎~足助~飯田~塩尻。数々の関所や番所,城下町などもあり,地域沿線では,歩荷(ぼっか)と呼ばれた当時の人夫姿や旅姿などに扮して「塩の道祭り」も行われている.長野県北安曇郡小谷村には復元された「牛方宿」も残り,昨今,番所跡も復元され,観光の名所となっている.各所に残っている馬頭観音などは,物資輸送中に息絶えてしまった馬の霊を鎮めるために建立されたとされている.」
 私達が今通過した三州街道分岐点と,先ほど合流した三河道の合流点との関係が今ひとつ釈然としないまま通過する.ただ,沿線に沢山の馬頭観音が祀られている意味が分かったような気がする.


■塩尻口留番所跡
 12時33分,塩尻口留番所跡を通過する.ここの番所も塩の道に関係があったのだろうと思いながら通過する.
 資料3によると,「米,塩,材木,女人等の取締りを行っていた」ようである.


■十王堂跡と庚申塔
 12時34分十王堂跡を通過する.この十王堂の由来は分からない.道端に小さな石塔が2碁置かれている.すぐ近くに,大きな字で「庚申」と刻字された石碑など数基が並んでいる.


■五千石通
 12時35分,五千国街道の石碑を通過する.資料3によると,諏訪遠藩東五千石領を経て松本に至る.
 資料4には,次のような興味のある記述がある.「「五千石街道」(県道松本塩尻線)は,諏訪高島藩の地域を北国脇往還と並行して松本と塩尻のあいだを縦断している道で,松本城下から東山山麓の村々を通り、桟敷村(現在の塩尻市)を経て塩尻市で中山道と合流し,諏訪へ通じる道として利用されていた.専ら領内の年貢や物資を運ぶためのものとして利用されていたようで,北国脇往還のように旅人の往来を目的としたものとは,利用の目的に大きな違いがある.現在、沿線周辺の市町村や観光協会では,この「五千石街道」周辺の名所・旧跡に注目し,これを「しののめの道」と名付け整備が進められている(「しののめの道」のルートは正確には 県道東山山麓線 を指す).これにより,馴染みの薄かった「五千石街道」も,新聞やテレビなどでもたびたび取り上げられるようになった.」


■小野家住宅
 12時39分,小野家住宅に到着する.どうやら改修工事中らしく,家屋に工事用の塀が張り巡らされている.隙間から家屋や案内板を垣間見る.
 資料3によると,元旅籠屋「小野平」で,大名の隠れ遊び場として利用されていた」という.
 1850年(嘉永3年)建築の国重要文化財とのこと.


■上の問屋跡
 12時42分,上の問屋跡を通過する.空き地に低い杭が一本立っている.


■塩尻宿本陣跡
 つづいてすぐに塩尻宿本陣跡を通過する.立派な看板が立っている.


■塩尻宿脇本陣跡
 12時44分,塩尻宿脇本陣跡を通過する.


■陣屋跡
 12時45分,塩尻宿陣屋跡を通過する.「笑亀(亀は難しい旧字)」と書いた看板のある酒造会社になっているようである.


■コンビニで一休み
 12時47分,沿道のコンビニへ入る.ここで一呼吸入れる.蒸し暑いのでアイスクリームを賞味する.


                                              (つづく)
[参考資料]
資料1;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%A9%E5%B0%BB%E5%AE%BF
資料2:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%A9%E3%81%AE%E9%81%93_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
資料3;『完全踏査街道マップシリーズ;ちゃんと歩ける中山道六十七次』五街道ウオーク事務局
資料4;
http://www.asahi-net.or.jp/~mi5h-skri/nagano/date/w_nagano/matsumoto/town/gosengoku/top.html


「中山道六十九宿」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/241f072fd1a35e67f398100086a9d282
「中山道六十九宿」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/50f3c319bf381091452faee47dd9da01


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