中高年の山旅三昧(その2)

■登山遍歴と鎌倉散策の記録■
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 歩いて巡る中山道六十九宿(第14回);第1日目(3);関ヶ原宿

2012年09月22日 06時01分16秒 | 中山道六十九宿

                              <昼食を終えて>

 歩いて巡る中山道六十九宿(第14回);第1日目(3);関ヶ原宿
            (五十三次洛遊会)
      2012年9月15日(土)~17日(月・敬老の日)

第1日目;2012年9月15日(土)  (つづき)

<関ヶ原宿地図>(再掲)



<関ヶ原宿>

■若宮八幡宮
 11時23分,若宮八幡宮の前を通過する.どうやらこの神社は村社のようである.立派な鳥居と石塔の奥に社殿が見えている.
 参道の両側にある緑陰が魅力的である.


<若宮八幡宮>

■法忍寺

 11時25分,法忍寺の前を通過する.民家の奥に山門と本堂が見えている.ここには立ち寄らずそのまま通過する.
 この寺の由来などは調べていないので不明.


<教楽寺>

■関ヶ原郵便局
 11時28分,関ヶ原郵便局の前を通過する.

<関ヶ原郵便局>

■至道無難禅師誕生地・関ヶ原宿脇本陣跡
 11時39分,関ヶ原宿脇本陣跡に到着する.ここは至道無難禅師誕生地でもある.
 資料6に,
至道無難禅師は慶長8年1603年美濃の国関ヶ原に生まれ、延宝8年1676年江戸の小石川戸崎村の至道庵に没す、享年74歳。関ヶ原の宿場本陣の長子に生まれ、母方は豪商白木屋初代の女である、幼少の頃に草書をよくし、仮名書き童子と呼ばれた。15歳の折に父親に連れられて京都大阪に遊び、生まれる3年前は天下分け目の関ヶ原、12年後に大阪夏の陣、徳川の世となって二代秀忠4代家綱に至る間です。予は美濃国関原の番太郎なりと、自らに云う、美濃から京都へ渡る大仙愚堂国師の常宿となって、親しく師事する。本来無一物の公案を授かって、寝食を忘れる程に参じて、ついに見性す。劫外の号を受ける、国師の偈がある、造化何曾論功用、無根樹上著花新、非紅非白呈祥瑞、未必人間有此春。これより国師悪辣の手段を尽くして、いたく向上の鉗鎚を施すと、52歳稼業ことごとく譲り渡して、師に従い江戸へ上って出家す。至道無難となる。至道無難に参ずることもっともたりとす。至道無難唯嫌楝択ただ憎愛無ければ洞然として明白なり、予は明白裏に非ず、汝等比丘却って護惜すやまた無しやという、大趙州の公案があります、もっとも解き難いものです。多少の初関を透過したぐらいで、おれは悟ったなどもってのほかのことです、問題はようやく始まったばかりです、捨てるべきおのれが見つかった段階です、不惜身命の修行が待っています、数少ない本来人、至道無難禅師にどうか見習って下さい、至道=正受=白陰と継ぎます。」という説明がある.
 また,傍らに立っている案内板には,「慶長8年(1603年)本陣職相川家に生まれ,愚堂国師の門下となった禅師は,臨済宗妙心寺派の江戸前期の高僧です.禅師は国司の法を継ぎ,宗勢拡大に寄与され,江戸禅宗界に名声を博しました.なお寛文2年(1661年)創業の日本橋の白木屋元祖木村彦太郎とは従兄弟の間柄で,彦太郎の精神的糧は禅師から与えられたと言います.当家は後脇本陣を勤め,この門はその面影を伝えるものとして貴重です.」という説明が書かれている.

<関ヶ原脇本陣跡>

■八幡神社
 11時25分,路地の奥に神社が見える.立ち寄らずにそのまま通過する.
 多分八幡神社と思われるが定かではない.


<路地の奥に神社が見える>

■園龍寺
 11時41分,園龍寺に到着する.この寺の山号は編照山.傍らに「明治天皇御膳水」の石柱がある.
 園龍寺の来歴など,インターネットを使って,一応は調べたが,残念ながら詳細不明.


<園龍寺>

■サークルK
 11時44分,サークルKで一休み.少々蒸し暑いので,冷たい物が欲しくなる.


<サークルK>

■レストラン「Ibuki」で昼食
 11時52分,たまたま沿道で見掛けたレストラン「Ibuki」で昼食を摂ることにする.
 外から見た予想以上に立派なレストランである.沢山の客が訪れている.私達も,中程の席に2箇所に分かれて着席する.
 私は手軽な丼物を注文する.


<レストランIbuki>


<私の昼食>

<関ヶ原古戦場>

■関ヶ原古戦場の概要
 下の図は資料3(p.317)から引用したものである.
 冒頭に示した地図と照合してみると,今,私達は,関ヶ原古戦場の中を歩いていることが分かる.
 地図を子細に眺めると,現在私達が歩いている場所から北へ約1キロメートル弱離れたところに関ヶ原古戦場があり,そこからさらに数百メートル北西には石田三成の陣地があったようである.


■古戦場は何も見ずに通過
 今回の旅で,私個人はせめて関ヶ原古戦場の一角でも見学したかった.事前の打ち合わせで,関ヶ原で少々時間を取って,重要なところだけは落とさず見ましょうと提案していたが,その願いも今回は叶わなかった.古戦場のことなど全く無視して,先頭はドンドンと先へ進んでしまう.
 集団行動なのでやむを得ないとはいえ,私の心の中にはフラストレーションが貯まる.集団の後方に居た私が残念がると,近くに居た方も,
 「私も古戦場を見たかった・・・」
と愚痴る.
 しかし,そのときは先頭とは大分距離が開いてしまっているので,今更先頭を呼び戻すこともできない.
 随分と後味の悪い気分のまま,先を急ぐ.私は心の中で,また機会を作って,この辺りを1人で歩いてみようと思い始めている.
 まあ,集団行動なので,こんなことがあってもやむを得ないとは思うが・・・・また,ブログで愚痴っても詮無いことだとは重々分かっている.

 気分を一新して,歩きつづけることにする.

<補足資料>

■地図「関ヶ原合戦史跡巡り」
 地元の観光案内所で,「関ヶ原合戦史跡巡り」という地図を入手することができる.
 今回は,この地図で紹介されているルートを回ることはできないが,機会があったら,この地図に沿って,是非,古戦場を一回りしてみたいなと思っている.でもその前に司馬遼太郎の小説でも読んでおこうかな.


                                          (つづく)

[参考資料]

資料1;岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料2;ウエスト・パブリッシング(編),2008,『中山道を歩く旅』山と渓谷社
資料3;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料4;五街道ウォーク事務局,発行年不詳,『ちゃんと歩ける中山道六十七次』五街道ウォーク事務局
資料5;「岐阜県十七宿散策ガイド」日本歴史街道美濃中山道連合・岐阜県
資料6;http://www17.plala.or.jp/tozanji/teisyou/sidoubunan.html
資料7;「せきがはら巡歴手帖」関ヶ原町役場地域振興課

「中山道六十九宿」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/b262bda73cba23596c1f08d5fcb7d76f
「中山道六十九宿」の次回の記事

http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/a169ad66d7518db5cea64d150f51cd15

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