中高年の山旅三昧(その2)

■登山遍歴と鎌倉散策の記録■
最初に左下の“カテゴリー”を選んで,クリックして下さい.

歩いて巡る中山道六十九宿(第13回):第2日目(5);河渡宿

2012年07月12日 10時17分16秒 | 中山道六十九宿

                                                      <長良川を渡る:河渡の渡し付近

    歩いて巡る中山道六十九宿(第13回):第2日目(5);河渡宿

            (五十三次洛遊会)
      2012年6月22日(金)~24日(日)

2012年6月23日(金)
(つづき)

<河渡宿地図>


※再掲

<バリエーションルート>


 もし,「渡し」に拘るのだったら,この図の「破線」に沿って,小紅の渡し(無料,月曜休み)を渡るルートもあった.ただし,この情報は資料1(p.143)によるもの.現在もこの渡しがあるかどうかは未確認.
 ただし,私たちが,今回,現地で入手した資料6には,小紅の渡しは現在でも運行していると書いてある.けれども,私たちは,「実線」に沿って歩き,河渡橋を渡ることにする.

<長良川を渡る>

■堤防上を南西に歩く
 13時25分,長良川右岸堤防に到着する.階段を登って堤防上の道に出る.そして,長良川の流れに沿って,西南の方向に堤防上を歩く.ときどき自動車が通るので,気が気ではない.
 堤防の上からは広々とした風景が広がる.やがて前方に河渡橋が見え始める.

<長良川右岸沿いの堤防道>

■河渡の渡し
 13時28分,河渡橋の袂に到着する.昔の河渡の渡しは,この橋の袂から,河渡橋対岸の袂の南西約200メートルの所とを結んでいた.
 私たちは,河渡橋を渡ることになる.
 さすがに長良川は大河である.川を横切る河渡橋もさすがに
長くて立派である.橋を渡り終えるのに6分ほどかかる.長良川右岸に渡ると,ここはもう河渡宿である.

<河渡大橋を渡る>

<河渡宿>

■河渡宿の概要
 河渡宿は江戸日本橋から54番目の宿場である.
 資料3(p.294)によると,美濃国方県郡に位置し,宿内人口272人.内,男133人,女139人.宿内惣家64軒.内,本陣1軒,旅籠24軒.
 また,資料5によると,河渡宿は長良川渡しで栄えた宿場である.当時,この宿場は洪水で苦しんでいたので,宿場全体の地上工事(かさ上げ)を行った.その記念碑が一里塚跡付近に残っているという.
 河渡宿は,残念ながら第2次世界大戦で焼失,さらに長良川河川改修工事で,往時を偲ばせる旧家は1軒も残っていない.

■堤防上の小さなお社
 木曽川右岸の堤防沿いの道を南西に下る.
 13時38分,すぐ上の堤防に建っている小さなお社が見え出す.地図を確かめると,丁度,河渡の渡しの船着き場位置になる.ここで,堤防の駆け登れば,昔の船着場の片鱗ぐらいあるかなと思うが,予備調査の資料では何も残っていない筈である.残っていなくても,ここから対岸を眺めてみたいと私は思う.
 所が,同行者の誰一人,こんな酔狂なことには興味がないらしく,ドンドン先へ行ってしまう.
 私だけの興味で,一行を呼び止めるわけにも行かないので,私も渋々一行の後を追う.ちょっと残念.こんなときには,どうしても一人で気ままに旅行したいなという衝動に駆られてしまう.
 蛇足だが,資料4(p.54)によると,河渡に渡しには2艘の渡し船が常備されていたという.

<堤防上の小さな祠>

■愛染堂
 堤防上の小さなお社の真下の道路端に,同じような姿のお社が建っている.地図で確かめる.このお社は,多分,愛染堂であろう(ちょっと自信がないが・・・).
 もし愛染堂ならば,資料4(p.54)によれば,1842年(天保13年),馬主達の出資で建立されたもの.地元では愛染明王として親しまれているようである.
 このすぐ奥に馬頭観音があるようだが,一同興味なし.従ってパス.

<愛染堂?>

■河渡の一里塚
 地図を見ながら,河渡の一里塚跡を探す.資料によって,一里塚跡の位置が微妙に違うが,私たちは,一応,資料4に従って,一里塚探しをする.もしあれば,江戸から107里目の一里塚になる.京の三条大橋までは後29里ということになる.
 三叉路を通過して,辺りをキョロキョロと見回すが,それらしい標識や遺構は全く見当たらない.
 そうこうしている内に,三叉路に面した民家の主人が,大声で私たちに注意をする.
 「・・・ここを通る人は,みんなそっちへ行っちゃうけど,一里塚跡は,ここの先にあるよ・・・」
 ご主人の指さす場所は,三叉路を右折して,少し先へ行ったところ.
 「どうもおかしいな?」
と思いながらも,三叉路を右折する.
 ほんの数十メートル歩いたところ,進行方向右側に,中山道河渡宿と刻字した立派な石柱が立っている.その奥に小さなお社が2基並んでいる.
 ここが,ご主人の言う河渡の一里塚跡らしい.少々あやしいが,まあ,そういうことにしておこう.

<河渡宿の案内杭>

■柚木川を渡る
 13時48分,柚木川に架かる慶応橋を渡る.周囲は田んぼ,工場,住宅などが無秩序に並んでいる。地図で確かめると,この辺りの標高は僅かに8メートル余り,かなり低いところである.
 地図によると,柚木川は,ここから500メートルほど下流で長良川に合流している.
 各種の資料によると,この辺りは,昔,鯰村と言っていたところのようである.

<慶応橋>

■生津小学校
 慶応橋から,暫くの間,真西に歩き続ける.道路の名前は分からないが,道幅が広い道路を横断して,バス停生津付近で三叉路に突き当たる.右折して進路が北西に変わる,
 14時05分,生津小学校の脇を通過する.
 14時11分,再び三叉路に突き当たる.三叉路には「瑞穂市」と書いてある大きな案内板と,小さなお社が建っている.お社の名前は分からない.

<三叉路に建つ小さなお社と瑞穂市の案内杭>

本田郵便局
 三叉路を左に曲がる.再び真西に向かって歩く.
 14時13分,本田郵便局の前を通過する.本日の終点,美江寺駅まであと僅かである.

<本田郵便局>

                                                                     (つづく)


[参考資料]

資料1;岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料2;ウエスト・パブリッシング(編),2008,『中山道を歩く旅』山と渓谷社
資料3;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料4;五街道ウォーク事務局,発行年不詳,『ちゃんと歩ける中山道六十七次』五街道ウォーク事務局
資料5;「岐阜県十七宿散策ガイド」日本歴史街道美濃中山道連合・岐阜県

「中山道六十九宿」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/9d7adc408e186e97407593863b938507
「中山道六十九宿」の次回の記事

http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/9923932a7d8539bfc221e2e057fd7ad5

※この記事は白内障の手術前に書き置きしたものです.
 誤字,転換ミスなどは,眼が十分使えるようになってから訂正します.

※お断り

 当ブログは私の道楽.
 企業のブログや市販本のように十分に手間暇を掛けているわけではありません.正確さは全く保証しません.記事の内容を鵜呑みにしたり,宛にしないでください.

 当ブログの記事は,仲間,親しい知人,友人に見て頂くことだけを目的としています.引用箇所の誤り,誤字,脱字,転換ミスや,内容が異なることがあります.気になる方はアクセスをご遠慮ください.



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。