<木曽川に沿って下る>
中山道六十九宿巡り(第11回);第1日目(3);上松宿
(五十三次洛遊会)
2011年11月11日(金)~14日(月)
第1日目;2011年11月12日(土) (つづき)
<ルート地図>
<木曽川を下る>
■桟を出発
明治天皇聖跡碑の見学を済ませてから,先ほど渡った橋を渡り返して,再び中山道に戻る.そして,10時02分,桟跡を出発する.出発地点には,小さな石塔と,「木曽の桟は対岸からご覧下さい」と書いてある杭が立っている.
<桟近くの石塔>
■花崗岩の賽の河原
木曽川の左岸沿い歩道を下る.国道19号線沿いの道である.資料によると,途中に賽の河原地蔵があるはずだが,見落としてしまう.仕方がない.
やがて,真っ白な花崗岩の岩石が一面に広がる河原が見えてくる.歩道沿いに続くフェンスに「賽の河原」と書いた小さな案内板が取り付けられている.
同行者の1人が,私に,
「・・・なんで,この辺りの石は白いんでしょうね・・」
と聞く.たまたま,私は大学で資源工学を専攻していたので,岩石のことも多少は分かる.
「・・あの白い岩は,花崗岩ですよ・・・」
と忘れかけていた薀蓄を一くさり.多少,間違いがあるかも知れないが・・・
「そうですか・・・FHさんは,何でもよく知っていますね・・」
私は内心で少々照れる.たまたま,知っていただけに過ぎないので・・
<いよいよ上松宿>
■上松宿入口
10時38分,「中山道上松宿入口」と書いてある案内杭の前を通過する.いよいよ,私たちは江戸から38番目の上松宿に入る.
上松には,寝覚ノ床という景勝地がある.ここを訪れるのも楽しみの一つである.学生時代,中央本線の車窓から,寝覚ノ床を何回か見たことがある.その度に,いつかは行ってみたいなと思い続けてきた.その思いが,50年も経った今日,やっと実現する.感一入である.
<上松宿入口を示す案内杭>
■上松宿の概要
資料1(p.210)によれば,上松宿の宿内人口は2482人(男1258人,女1224人),宿内惣家数362献(本陣1,脇本陣1,旅籠35)であった.
上松には,尾張藩が管理した材木役所が置かれ,木曽五木の集散地であった(資料2,p94).そのために「ヒノキの里」とも呼ばれていた.
上松は,たびたび火災に襲われ,特に1950年(昭和25年)の大火のあと,新しい建築基準を定めた(資料1,p.210).そのために街の様子はすっかり新しくなってしまったという.
1950年,私は上田にある新制高校2年生(旧制中学に入学したが何時の間にか新制高校になった).上松で大火があったことを覚えている.
■十王橋
10時38分,JR上松駅への分岐点に到着する.ここで木曽川の支流,十王沢川に架かる十王橋を渡る.昔はこの橋の手前に高札場があったらしい(資料1,p.210).
橋を渡ると,いよいよ上松宿である.
<JR上松駅への分岐点;十王沢川に架かる十王橋>
<上松宿散策>
■古い街並み
1950年の大火の際,上町だけはかろうじて焼け残った.その上町には,昔の宿場町の面影が多少残っている.
<上松上町の家並み>
■若宮八幡宮入口
10時40分,若宮八幡宮の入口を通過する.細い路地の先に若宮八幡宮があるようだが,先を急がなければならないので,残念ながら通過する.
<若宮八幡宮入口>
■本陣跡と脇本陣跡
資料3(38)によると,「歯科医院が塚本本陣跡」とあるが,どこが歯科医院なのか良く分からない.どうやらここかと思われる場所には,人が住んでいる気配のない古い二階家が建っている.しかし,ここが本当に本陣跡かどうかは分からない.
脇本陣と思われる場所には,字が全く読めなくなるほど風化した案内板が立っているが,ここも,本当に脇本陣跡なのか確かめようがない.
今更,どうにもならないので,そのまま通過する.
■本町一里塚跡
10時43分,江戸日本橋から72里目の本町一里塚跡に到着する.
傍らの案内文によると.ここから30メートルほど下ったところに左右一対の一里塚があったというが,今は痕跡すら残っていない.
<本町一里塚>
■寝覚ノ床案内板
10時49分,「旧中山道寝覚ノ床への道」と書いてある案内板の前を通過する.寝覚ノ床も間近である.期待感が高まる・
<寝覚ノ床案内板>
■駒嶽大神宮
広小路の交差点を通過する.ここを右折すれはJR上松駅がすぐ近くである.
私たちはこの交差点を直進する.そして,次の交差点,下町で左折して,寺坂に入る.緩やかな登り坂が続く.
10時51分,駒嶽大神宮と刻字してある大きな石塔の前を通過する.
駒嶽とは,多分,木曽駒ヶ岳のことだろうと,勝手に想像する.
近くの石塔には,「頂上江三里廿六丁十五間」と書いてある.
<駒嶽大神の石塔>
■賑やかな案内板
寺坂を登り切ったところに,総合福祉センター,健康増進センター,上松町公民館,木曽駒ヶ岳登山道,滑川砂防公園などと,沢山の行き先を示した案内板が立っている.
<沢山の行き先を示した案内板>
■斎藤茂吉の歌碑
10時53分,十字路の土手の中腹に立っている斎藤茂吉の歌碑を見上げる.斎藤茂吉(さいとう もきち)は、「1882年(明治15年)生, 1953年(昭和28年)殁.日本の歌人、精神科医,伊藤左千夫門下であり,大正から昭和前期にかけてのアララギの中心人物」である(資料4).
<斎藤茂吉の歌碑>
■藤村文学碑
10時55分,上松小学校の土手にある藤村文学碑に到着する.藤村文学碑が赤松を背負っているように見える.
碑には,
「山はしっかにして性をやしなひ,水は動いて情をあしなふ 洒落堂の記より 藤村」
と刻字してある.
<藤村文学碑>
■上松材木役所跡
10時57分,上松材木役所跡に到着する.跡地と言っても杭が1本立っているだけである.
傍らに立つ案内板のきじによると,「1963年(寛文3年)から1964年(寛文4年)にかけて,尾張藩は木曽総山の検見を実施し.その大藩が伐られ,尽山も多いことに驚き,山村代官から山に関する一歳に業務を取り上げ,上松の原畑の地に直轄の材木役所を設けたという」.
この役所は,「南北65間・東西55間で,3500坪の広さ」であった.ここには「奉行,吟味役,調役,目代,元締,同心が常時詰めていた」という.
<木材役所跡>
■諏訪神社
上松小学校の正門前を通り過ぎてから,階段を登ると,小学校の広い校庭に出る.この校庭を横切った向こう側に,諏訪神社の社殿が見える.
広い校庭である.この校庭を横切るもの難儀なので,諏訪神社の参拝は省略する.
疲れ始めたのか,石段を登らずに,下で待つ仲間も居る.
案内板の説明によると,この神社は,上松の鎮守で,古くからこの地にある.この神社は,諏訪から直接勧請したものではなく,京都から勧請した神社なので,御柱は建てないことになっている.1556年(弘治2年)頃から代々徳原氏が神主になって,今日に至っているという.
<階段を登ると広い小学校の校庭がある>
<諏訪神社>
■常夜灯と石塔群
11時13分,常夜灯と石塔群が並ぶところに到着する.
石塔群の中央にある大きな石塔には「三十三観□□・・」と刻字してあるが,詳しいことは分からない.
<上松の常夜灯>
(つづく)
[参考文献]
資料1;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料2:岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料3;五街道ウォーク事務局『ちゃんと歩ける中山道六十七次』
資料4;
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E8%8C%82%E5%90%89
「中山道六十九宿」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/5d53d1071f7d3c2ce4565fe30773ff09
「中山道六十九宿」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/9be83841b5623313d0c9fc5fd9434ba2
最新の画像[もっと見る]
- 精密検査から戻って;長女が老夫婦を日比谷花壇大船フラワーセンターへ招待・・・ 4年前
- 精密検査から戻って;長女が老夫婦を日比谷花壇大船フラワーセンターへ招待・・・ 4年前
- 精密検査から戻って;長女が老夫婦を日比谷花壇大船フラワーセンターへ招待・・・ 4年前
- 精密検査から戻って;長女が老夫婦を日比谷花壇大船フラワーセンターへ招待・・・ 4年前
- 精密検査から戻って;長女が老夫婦を日比谷花壇大船フラワーセンターへ招待・・・ 4年前
- 精密検査から戻って;長女が老夫婦を日比谷花壇大船フラワーセンターへ招待・・・ 4年前
- 精密検査から戻って;長女が老夫婦を日比谷花壇大船フラワーセンターへ招待・・・ 4年前
- 精密検査から戻って;長女が老夫婦を日比谷花壇大船フラワーセンターへ招待・・・ 4年前
- 精密検査から戻って;長女が老夫婦を日比谷花壇大船フラワーセンターへ招待・・・ 4年前
- 精密検査から戻って;長女が老夫婦を日比谷花壇大船フラワーセンターへ招待・・・ 4年前