中高年の山旅三昧(その2)

■登山遍歴と鎌倉散策の記録■
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歩いて巡る中山道六十九宿(第14回);第1日目(7);県境の集落寝物語

2012年09月28日 04時52分00秒 | 中山道六十九宿

                           <今須宿から柏原宿へ>

 歩いて巡る中山道六十九宿(第14回);第1日目(7);県境の集落寝物語
           (五十三次洛遊会)

    2012年9月15日(土)~17日(月・敬老の日)

第1日目;2012年9月15日(土)  (つづき)

<今須宿地図>(再掲)



<寝物語の里へ>

■車返踏切
 車返しの坂を通過して,14時31分,東海道本線車返踏切を渡る.
 またまた先頭は,後ろの様子を見ないまま,どんどん先へ行ってしまう.列が長くばらけている.その内に,バッチリ注意しなければいけないなと思い始める.もっとも,これまで何回も,何回も注意してはいるんだが・・・
 地図を見る.
 この踏切を渡ると,すぐに寝物語の集落に入るようである.

<車返し踏切を渡る>

■野ざらし芭蕉道
 14時34分,野ざらし芭蕉道と刻字された石柱の前に到着する.
 傍らに大きな石の案内があり「おくのほそ道」という題名で縷々とした説明文が刻字してある.説明文が長いので,ここでは省略するが,冒頭に「おくのほそ道」の出出しの文章が紹介され,その後に芭蕉の句が数首紹介されている.

<芭蕉の句碑>

■県境を跨ぐ
 踏切を渡って,間もなく,寝物語の集落に入る.寝物語とは,いかにも洒落ていて,味わいのある名称である.それはともかく,14時35分に岐阜県と滋賀県の県境に到着する.
 県境には溝が掘ってあり,溝の両側には,それぞれ「岐阜県」,「滋賀県」と書いた小さな標識が設置されている.寝物語は県境の集落である.
 一同,両県の堺に立って,両県にまたがって居るぞとはしゃいでいる.
 滋賀県側ギリギリに建っているお宅の方に,わざわざ,
 「お宅は滋賀県ですよね・・」
と伺ってみる.
 「そうですよ・・滋賀県ですよ」
と当然の答えが返ってくる.でも,面白い.

<岐阜県と滋賀県の県境>

<いよいよ滋賀県>

■寝物語の集落を行く
 集落の中心部に「寝物語の里」と刻字されている大きな石碑が立っている.
 その傍らにある案内文には,「近江と美濃国の国境は,この碑の東十メートル余にある細い溝でした.この溝を挟んで両国の番所や旅籠があり,壁越しに寝ながら他国の人と話し合えたので寝物語の名が生まれたと言われています.また,平治の乱(1159年)後,源頼朝を追って来た常磐御前が「夜更けに隣の宿の話し声から家来の江田行義と気付き奇遇を喜んだ」所とし「源義経を追って来た静御前が江田源義と巡り会った」所とも伝えらえています.寝物語は中山道の古跡として名高く,古歌等にもこの名が出てきますし,広重の浮世絵にもここが描かれています.ひとり行く 旅ならなくに 秋の夜の 寝物語も しのぶばかりに 太田道灌」と書かれている.
 鎌倉に住んでいる私には,源頼朝,太田道灌などと聞くと,途端に親近感が増してくる.

<寝物語の石碑>

■妙光寺
 14時37分,妙光寺の前を通過する.広々とした境内である.
 手許の資料では,妙光寺の由来などは全く分からない.


<妙光寺>

■長久寺の里
 14時39分,「ここは中山道寝物語の里」の案内板の前に立つ.上の説明文には「ここは長久寺です」という題で,蕪村の句などが縷々紹介されている.

<長久村の里>

■春日神社
 14時40分,春日神社を通り過ぎる.列の後ろに居た私は,大急ぎで参道の写真を撮る.そのため写真が少しぼけてしまった.
 「ああ,忙しないなぁ~・・・」
と思いながら後を追う.
 立派な鳥居の奥に,石段があるのが見えている.

<春日神社>

楓並木・松並木
 春日神社を過ぎると楓と松の並木になる.進行方向右手には,こんもりとした森林が続く.
 相変わらず列はばらけている.
 「先頭! 速すぎるぞ! 少しは振り返ってみんなの様子を見なさい・・」
と心の中で叫ぶ.

<並木道を行く>

■柏原宿・寝物語の里の道標
 14時49分,柏原宿と寝物語の里を示す大きな石造りの道標を通過する.
 いよいよ柏原宿も間近になったようである.

<大きな石の案内標識>

長比城趾登り口
 14時49分,長比城趾登り口に到着する.
 資料6には,「長比城跡は、米原市山東町の長久寺(ちょうきゅうじ)・柏原(かしわばら)と岐阜県関ヶ原町にまたがる野瀬山(のせやま)に立地しています。この地は、中世末のいわゆる戦国時代には、近江と美濃の国境で、東山道(とうさんどう)を押さえるための要衝の地となっていました。
 北近江を治めていた浅井長政は、織田信長から離反したことから、信長の近江侵攻に備える必要が生じました。このため同盟関係にあった越前の戦国大名朝倉氏の築城技術を導入して、長比城の改築を行っています。このことは、織田信長の一代記『信長公記(しんちょうこうき)』元亀元年6月19日条に、浅井方が「たけくらべに要害(ようがい)(=城)を構(かま)へ候」とあり、現存する遺構の特徴とも、年代がほぼ一致しています。
 しかしながら、時の城主堀秀村(ほりひでむら)は、信長の侵攻を前に戦わずして降伏してしまいます。」という説明がある.


■神明神社
 14時50分,神明神社参道に到着する.この神社にも立派な鳥居がある.
 地図を見ると,神明神社の社殿は,ここから北にある山をかなり登ったところにあるようだ.とても簡単に参拝できるところではなさそうである.
 手許の資料ではこの神社の由来は不明.

<神明神社参道>

■東山道道標
 14時50分,旧東山道の碑に到着する.
 傍らに立つ案内板によると,ここは正確には東山道と中山道の分岐点である.説明文によると,「県境,寝物語長久寺より咲かしたJR踏切までは,古道東山道の上に中山道が施設された.それより北西に走る東山道は廃道になり,踏切を渡り,柏原宿に入る道が中山道として新設された」とある.

<東山道道標>

■野瀬踏切
 14時52分,東海道本線野瀬踏切を渡る.
 私達の行列も,ようやくひとまとまりになり短くなった.
 この踏切を渡ると,いよいよ柏原宿である.

<野瀬踏切を渡る>
                                   (つづく)
[参考資料]

資料1;岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料2;ウエスト・パブリッシング(編),2008,『中山道を歩く旅』山と渓谷社
資料3;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料4;五街道ウォーク事務局,発行年不詳,『ちゃんと歩ける中山道六十七次』五街道ウォーク事務局
資料5;「岐阜県十七宿散策ガイド」日本歴史街道美濃中山道連合・岐阜県
資料6;
http://www.pref.shiga.jp/edu/content/10_cultural_assets/gakushu2/data/2181/index.html
資料7;「せきがはら巡歴手帖」関ヶ原町役場地域振興課

「中山道六十九宿」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/2479ad35c31e238ff2c7b0790a36fc43
「中山道六十九宿」の次回の記事

http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/8a40f99698f78ad4b18cc90342f413ad

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