<照手姫笠懸地蔵説明板の前にて>
歩いて巡る中山道六十九宿(第14回);第1日目(8);柏原宿(1)
(五十三次洛遊会)
2012年9月15日(土)~17日(月・敬老の日)
第1日目;2012年9月15日(土) (つづき)
<柏原宿地図>
■柏原宿詳細図
<柏原宿>
■柏原宿の概要
柏原宿は江戸日本橋から第60次の宿場である.
資料3(p.323)によると柏原宿の宿内人口は1468人.内,男740人,女728人.宿内惣家数344軒.内,本陣1軒,脇本陣1軒,旅籠22軒.
資料1(p.164)によると,伊吹山のヨモギを原料にして作られた艾(私にはこの漢字はよめないが,多分モグサ・・かな?)が名産だったという.往時は十数軒の艾屋が軒を連ねていたという.今は伊吹堂だけになっているとのこと.同(p.165)では伊吹堂が扱う「亀屋左京の切艾」が江戸で有名だったと紹介している.
■柏原宿の略史
14時52分,東海道本線の踏切を越えて,いよいよ柏原宿に入る.
その入口の路傍の「柏原宿の歴史」と題した懇切丁寧な案内板が立っている.十分時間を取って立ち止まって詠む時間がないので,この案内板の写真を撮ってから,すぐに先へ進む.
この案内板には史跡の時代順案内と題して,以下のようなことが書かれている.
****************************
鎌倉時代 柏原弥三郎の柏原城跡地に,佐々木京極氏が館・徳源院・裏所を設置.
鎌倉の終り 京極高氏(佐々木道誉)は鎌倉幕府の命を受け,後醍醐天皇側近北畠
行郷を斬首.当地丸山の葬る.
室町の始め 京極高氏の命で,簑浦次郎右衛門,柏原代官所を設置.広大な屋敷を
設け,菩提寺に長命寺を再興.
室町時代 簑浦代官時代二百数十年.関ヶ原合戦時には,柏原宿は戸数五百の,
大きな中世宿場に成熟.
戦国時代 信長・秀吉は成菩提院に,家康は簑氏配下西村勘助屋敷に投泊
江戸の始め 柏原代官所閉鎖.簑浦代官配下鉄砲組・元京極武士団が宿場役人を
(家康のとき) 分担,江戸期柏原宿へ再構築.
江戸の始め 将軍上洛時の休泊施設,柏原御茶屋御殿を,西村勘助屋敷に新設.
(家光のとき)
江戸中期 松尾芭蕉柏原宿を通り,伊吹山の句を,大垣の句会で詠む.
(綱吉のとき)
江戸中期 天領から,大和郡山柳沢藩領へ.
(吉宗のとき)
江戸後期 亀屋左京六代目七兵衛.柏原宿を「もぐさの里」と全国に売り出す.
江戸末期 皇女和宮柏原宿本陣宿泊
明治時代 明示になり,もぐざ屋で宿場役人の山根為蔵家が柏原銀行を創業.
****************************
私が見落としているのかも知れないが,これまで通過してきた宿場で,これほど簡潔に宿場の由来を案内板にしているところは皆無だったような気がする.
この略史を読むと,「艾」がモグサのことだと合点がいく.
この略史には,私の知らない人物が何人も登場している.これらの人物についてインターネットなどを使って調べてみたいという衝動に駆られるが,そんなことをしていたら切りがなくなるので,略史についての記述はこの辺りでお仕舞いにしよう.
<柏原宿略史>
■古地図
略史の案内板の横に,柏原宿の古地図が掲示されている.
大変興味深いけれども,文字などがハッキリと読み取れないのが残念である.
<柏原宿周辺の古地図>
■照手姫笠地蔵
14時55分,照手姫笠地蔵に到着する.
傍らに詳細な説明文があるが,余りに詳細すぎて,なかなか読めない.この説明文をデジカメに写すが,後から見直すと解像度が悪くて殆ど読めない.残念.
資料6には,「常陸国の城主小栗判官助重が毒酒を飲まされ危篤になったとき、愛妾の照手姫が地蔵に笠をかぶせて平癒を祈願した。そのかいあって小栗は平癒し、長久寺に蘇生寺を建立し、地蔵はその寺に祀られたという。」という説明がある.
<照手姫笠地蔵>
■東見付跡
14時59分,東見付け跡に到着する.
土壁の農家風の住宅の軒下に「東見付跡」という説明文が掲示されている.
この説明文によると,東見付は柏原宿の東の入口に位置していた.道の両側の食い違いの形で土手(土塁)が築かれていたようである.また,柏原宿の西側にも見附が設置されていたという.古図によると,東口の土手は,幅二間奥行二間半,土手に灌木が描かれているようである.
<東見付跡>
■龍宝院跡
15時丁度に龍宝院跡に到着する.オブジェのような巨石が安置されている.
龍宝院跡が,どのような由来の史跡なのか,残念ながら手許の資料では分からない.
<龍宝院跡>
■八幡神社
15時01分,八幡神社に到着する.広々とした境内と立派な社殿が印象的である.
手許の資料では,この八幡神社の故事来歴はわからない.また,鳥居の脇に字がほとんど消えかけている案内板があるが,残念ながら読めない.
神社の境内入口に,「芭蕉と伊吹山」と題した案内板が立っている.この記事によると,松尾芭蕉は,柏原宿を3回西から東へ通っているとのこと.3回目の後,大垣の句会で詠んだ伊吹山の句が,句碑になって清滝の入口にあるらしい.
また,奥の細道では伊吹山麓の北国脇往還を関ヶ原へと通った.そのときも句を残した.この句の句碑は,八幡神社境内の松の木の下にあるという.
時間が押していることと,蒸し暑さで疲労困憊気味の私達は,松の木の下の句碑を見に行こうという積極的な方は居ない.私も同様.そのまま八幡神社前を素通りする.
<八幡神社>
<芭蕉と伊吹山>
■柏原駅に到着
八幡神社前を通り過ぎて,間もなくJR柏原駅前の通りとの三叉路に到着する.三叉路を直角に右折する.
15時05分,柏原駅に突き当たる.
柏原駅は平屋のこぢんまりした駅である.駅前広場には自動車が数台停車しているが,ほとんど人の気配がない.
駅の向こうには威風堂々の伊吹山が聳えている.ここは名にし負う100名山のひとつである.登山が趣味の私も,伊吹山には興味があるが,山頂まで自動車で行けると聞くと,いくら100名山でもちょっと行くのを躊躇している.
今回の中山道六十九宿巡り初日の計画は,ここ柏原駅で終わりである.まだ,柏原宿に入ったばかりなので,柏原宿の大半はまだ見物していないが,それは明日,2日目のお楽しみである.
今日は,ここ柏原駅から東海道本線の下り電車に乗って,今日の宿泊ホテルのある彦根まで移動する予定である.
(つづく)
[参考資料]
資料1;岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料2;ウエスト・パブリッシング(編),2008,『中山道を歩く旅』山と渓谷社
資料3;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料4;五街道ウォーク事務局,発行年不詳,『ちゃんと歩ける中山道六十七次』五街道ウォーク事務局
資料5;「岐阜県十七宿散策ガイド」日本歴史街道美濃中山道連合・岐阜県
資料6;http://www5.big.or.jp/~ejiri/nakasen/exp/vk20/60terute.htm
資料7;「せきがはら巡歴手帖」関ヶ原町役場地域振興課
「中山道六十九宿」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/7274b604668dd45c939f588ec09e7e53
「中山道六十九宿」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/10fdaad415456ee3e18a3d660b2c456c
記事の正確さは全く保証できません.
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