<浄泉寺の桜>
[改訂版] 歩いて巡る中山道六十九宿(第6回):(3)新町宿に到着
(五十三次洛遊会)
2010年4月10日(土) つづき
※本稿の初出は2010年5月12日である.
初稿の地図を差し替え,本文の加除修正を行った
<ルート地図>
※再掲
<新町宿>
■新町宿の概要
11時28分,神流川に架かる神流橋を渡り終える.ほんの少し歩くと,国道17号線からY字型に分岐する.この分岐点に常夜灯がある.道路を右側,つまり北側の道路が旧中山道である.ここからが,江戸から11番目の宿場,新町宿がはじまる.
資料5によると,「新町宿(しんまちしゅく)とは,中山道六十九次のうち江戸から数えて11番目の宿場.現在の群馬県高崎市新町にあたる.
はじめ本庄宿と倉賀野宿との間は,烏川北岸の玉村を経由するルートだったが,慶安4年(1651年)に落合新町,承応2年(1653年)に笛木新町(いずれも烏川南岸)に伝馬役が命ぜられ,ルートが変更された.これに伴い,中山道で最も遅く新町宿が成立した.これにより67宿となったが,東海道と重複する草津宿,大津宿を加えて中山道六十九次と呼ばれた.」
また,資料6には,「天保14年(1843年)には本陣2軒,脇本陣1軒,旅籠43軒,家屋の数は407軒に登っている.於菊稲荷神社の逸話や奉納されている絵馬でも見られるように遊女や飯盛女といった職業も成立していたようである.文化7年(1810)5月11日には小林一茶も新町宿の旅籠高瀬屋に宿泊して,しつこく神流川の灯籠建立の寄付金をせがまれた様子を日記に記している.」という説明がある.
資料1(p.79)によると宿内人口数は1437人.内,男713人,女724人.
<常夜灯>
■芭蕉の句碑
旧中山道への入り口付近に芭蕉の句碑がある.
大きな石に芭蕉の句が彫り込まれている.残念なが,浅学の私には肝心の文字がほとんど読めない.僅かに読めるのは「傘」という字だけである.日本人として誠にハズカシイ.
後日,資料を調べてみると,この句碑には,
「傘をおしわけ見たる柳かな 翁」
と書いてあるらしい.
<芭蕉の句碑> <八坂神社>
■八坂神社
11時34分,八坂神社の前を通過する.白塗りのお社が見えるが,横目でちらりと見ただけで通過する.この神社の由来はもちろん調べていない.
■新町諏訪神社
11時39分,右折して旧中山道と並行する裏道に入る.この裏道には諏訪神社,専福寺,浄泉寺が並んでいる.
右折して4分ほどで新町諏訪神社に到着する.広い境内である.いかにも由緒正しい神社のような風格を感じる.人気が全くない境内を進み,本殿で参拝を済ませる.
境内の片隅に立っている案内板の記事によると,諏訪神社は笛木村の鎮守である.本屋敷というところから,1708年(宝永5年)に現在地に移されたという.参道の鳥居の1基に元禄15年(1702年)の銘が刻してあるらしい.この鳥居は新町で最古のものだとのこと.
境内には諏訪神社の獅子舞,小林穣洲先生寿蔵之碑,諏訪神社の御輿などを記述した説明板がある.また,本殿の木彫りの壁面に新田義貞の姿が残っているらしい.
<諏訪神社>
<諏訪神社の鳥居>
<境内の桜>
■専福寺
11時46分,諏訪神社の近くにある専福寺を詣でる.広い境内に普通の民家を思わせる瓦葺きの本堂が建っている.後でインターネットを使って,この寺のことを調べたが,ハッキリした由来は分からない.
<専福寺>
■浄泉寺
続いて,11時48分,専福寺の直ぐ隣にある浄泉寺を訪れる.美しい白壁が巡る寺である.境内の桜が丁度見頃でとても綺麗である.
資料7には,「浄泉寺は天正2年(1574)に開山した寺院である.境内にある大銀杏は推定樹齢400年,樹高25m,幹周5.2mある大木で昭和55年に高崎市指定天然記念物に指定された.」という記述があるが,これ以上の情報は,目下の所分からない.
<浄泉寺の前>
■明治天皇新町行在所
さらに裏道伝いに先へ進む.
11時53分,明治天皇森町行在所に到着する.辺りは500~600平方メートルほどの公園になっている.
公園に立てられている案内板によると,「明治天皇は,1805年(明治11年)8月から11月にかけて,北陸・東海地域のご巡幸(視察)を行った.その途中,9月2日に新町のこの場所で宿泊されたという.当時は木造瓦葺き平屋建ての本屋と付属家の2棟で,旧中山道に面して正門を設け,周囲には高さ9尺の総板塀で囲い,庭には数株の若松を植えてあった」らしい.
1980年(昭和55年),新町の史跡文化財指定を受けた.
<明治天皇新町行在所>
■於菊稲荷神社
地図を見ると,旧中山道から少し北に入ったところに於菊稲荷神社があるらしい.折角なので,少し寄り道して,11時56分に於菊稲荷神社に到着する.
赤い鳥居がズラリと並ぶ神社である.
資料8によると,「もとは普通の「稲荷神社」であった.戦国時代(天正10年)神流川合戦の際,白いキツネが現れ北条氏が勝利を収めた.この御神得に感謝して,この地に社を構えたと伝えられている.
この稲荷が「於菊稲荷」と名付けられたのは江戸時代である.
宝暦年間,宿場町となった新町に「於菊」という名の美しい娘がいたが,医者からも見放されるような重病にかかり,悩み苦しんだ末,この「稲荷神社」に救いを求めた...深く深く信心を続けたところ,不思議に病はすっかり治った.その後,於菊は夢で「今後は人々の為に尽くすように」とのお告げを受け,稲荷神社の巫女となり,作物の出来具合や人の吉凶,なくし物のありかまでさまざまな事を言い当てた.ここから「困ったことがあったら於菊に聞け,稲荷の於菊に聞け」と言われるようになり、誰いうともなく「於菊稲荷」と呼ぶようになった.」
<於菊稲荷神社の鳥居> <於菊稲荷神社>
■行在所公園で昼食
12時02分に稲荷神社を後にする.往路を戻って,近場で昼食を摂ることになる.
女性群とご夫婦で参加の男性1人は,豪勢に近くのそば屋へ,残りの男性群は,近くのコンビニで,安弁当を購入して,行在所公園で昼食を摂る.
<コンビニで買ったささやかな昼食>
(つづく)
[加除修正]
2013/2/22 ルート地図の変更と本文の加除修正を行った.
[参考資料]
資料1;岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料2;ウエスト・パブリッシング(編),2008,『中山道を歩く旅』山と渓谷社
資料3;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料4;五街道ウォーク事務局,発行年不詳,『ちゃんと歩ける中山道六十七次』五街道ウォーク事務局
資料5;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%94%BA%E5%AE%BF
資料6;http://aidu.konjiki.jp/gunma/nakasen/sin.html
資料7;http://aidu.konjiki.jp/gunma/nakasen/sin/tera1.html
資料8;http://www6.ocn.ne.jp/~okiku/yuraiki.html
「中山道六十九宿」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/2f47f35909dca6dd9c9b59b5a3fdb74e
「中山道六十九宿」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/73d8eb7119c4836cb23bf865a255333d
「「中山道六十九宿」の索引
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/b0fff7ecf75b54c3f443aa58cfa9424e
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