中高年の山旅三昧(その2)

■登山遍歴と鎌倉散策の記録■
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歩いて巡る中山道六十九宿(第6回);(4)烏川の堤防を倉賀野宿へ

2013年02月23日 07時02分50秒 | 中山道六十九宿

                  <柳瀬橋からの眺め>

[改訂版]歩いて巡る中山道六十九宿(第6回);(4)烏川の堤防を倉賀野宿へ
         (五十三次洛遊会)
       2010年4月10日(土)
 つづき

※本稿の初出は2010年5月14日である.
 初稿の地図を差し替え,本文の加除修正を行った.

<ルート地図>


※前掲






<新町宿を行く>

■旅籠高瀬屋跡
 昼食を終えた私たちは,そば屋で昼食を摂っていた女性群+αと合流,12時57分に行在所から歩き出す.資料によると,旧中山道とJR新町駅前の交差点南西角地に旅籠高瀬屋あったようだが,今は全く痕跡がない.現在の群馬銀行店舗辺りが屋の跡だろうと思われるが定かではない.

<旅籠屋跡(?)>

■宝勝寺・弁財天
 旧中山道に沿って,新町宿の中を西北西に歩き続ける.500~600メートル歩くと,進行方向左手に法勝寺参道がある(13時02分).法勝寺近くには弁財天があるようだが,デジカメの望遠で参道の写真を撮っただけで通過する.
 宝勝寺の由来は全く分からないが,資料1によると「真言宗豊山派,落合山宝勝寺・高尾山宝勝寺(山号が二つもつくのは珍しい).天文11年(1542年)の開山。欅造りの立派な鐘楼門や六地蔵,百度供養塔,大和郡山柳沢家夫人貞護院(新町宿で亡くなる)の墓,小林本陣家の墓所がある。隣接した八幡宮には宿場の飯盛り女が奉納した絵馬がある。また神仏混淆を示す屏風鳥居も珍しい.」という.


■小林本陣跡
 進行方向右側のブロック塀の前に小林本陣跡と書いた木杭が立っている.
 資料2によると「小林本陣の明治時代の小林本陣当主は,公金を失くしたとして切腹をした(後から出てきたが).敷地はそのままで,現在も子孫が住んでいるという。この辺りが宿場中心であった.もう一軒の本陣や脇本陣,問屋場,43軒あった旅籠などは現在では特定できない.」という.


■スリーデーマーチ発祥の碑・弁天公園
 13時05分,スリーデーマーチ発祥の碑の前を通過する.進行方向左手には,新緑の樹木が美しい弁天公園が広がっている.道端に新町ガイドマップが展示されている.この地図を見ると,現在私たちは新町宿の西端に居ることが分かる.
 後日,資料7から,この碑には以下のような経緯があることが分かった.
    *****************************
歩け歩け 国際大会 日本スリーデーマーチ発祥の地
       内閣総理大臣 中曽根康弘
日本スリーデーマーチの発祥
 毎年7月, オランダの田園都市ナイメーヘンを中心に「歩けオリンピック」と愛称される世界最大の歩け歩け大会が開催されています。1977年に初めて日本選手団を派遣した私達は, 同大会の素晴らしさに感動しました。その感動の波が共に参加した群馬県新町の村山兼吉, 荒井猪一郎両氏によって丸茂義人氏を中心とする新町歩く会に伝わり, 全国の歩く仲間達に呼びかけ, 1978年11月, この地において「全日本スリーデーマーチ」を開催し, ふれ合いの輪を大きく拡げました。
 そして今, 同大会は「歩け歩け国際大会, 日本スリーデーマーチ」として埼玉県東松山市に拠点を移し, 名実共にアジア最大の歩け歩けの祭典として, 本年第7回の記念大会を迎えました。この時に当たり, 私達全国の歩く仲間は, この地に記念碑を建立し「歩く時代」に先駆けた新町歩く会の栄光を称えたいと思います。
 碑文は中曽根康弘総理大臣にご揮毫いただき, 遠くナイメーヘン市長より贈られた花崗岩にはオランダ語で同市長の「日本国民とオランダ国民との友情は共に歩くことを通してより深く結ばれています」とのメッセージをはめこみました。この碑は, 全国の歩く仲間達の協力によって, わが国初の「歩け歩け運動の碑」として建立されました。
    1984年11月吉日
        発祥記念碑建立委員会
        社団法人日本歩け歩け協会
            会長 金子智一
  *****************************



<弁天島公園>




<スリーデーズマーチ発祥の碑>

<烏川沿いの散策路>

■伊勢嶋神社
 川の名前は良く分からないが,小さな川を渡る.進路が西の方向に少し曲がる.私たちは立石新田という所を歩いているようである.辺りは何となく長閑である.
 13時12分,伊勢嶋神社に到着する.閑静で広い境内が広がっている.この神社の由来は,t調査不足で分からないが,村社なのだろう.デジカメで参道を撮っただけで先を急ぐ.
 
<伊勢嶋神社>

■川端家住宅
 13時13分,川端家住宅の前に到着する.立派な白壁の塀が続く.
 資料8によると,川端家住宅は,「川端家は旧中山道沿いにある豪農の屋敷。主屋・別荘と呼ぶ居住用の建物のほか、倉や門、塀、湯殿などが残されている。主屋は内部は造り替えられているが、江戸時代後期の建築。その他の建物も明治~昭和初期の建物で建設当時の状態で残されている。
名称 :川端家住宅 (カワバタケジュウタク)
所在地 :〒375-0003群馬県藤岡市立石新田391
交通アクセス :
 (1) 上信越自動車道藤岡インターから車で
 (2)JR高崎線新町駅から車で
その他:: 非公開
文化財 :登録有形文化財、国登録有形文化財(登録年:平成13年)
問合わせ :0274-22-1211 (市文化財保護課)」

<川端家住宅>

■高崎伊勢崎サイクリングロード
 13時17分に長い関越自動車道のガード下を潜りぬける,そして,左斜めに続く細い道を辿る.曲がりくねった道である.進むにつれて,周囲の風景が次第に田園風になりはじめる.気温はやや高めだが,さわやかな風が吹いていて,とても心地がよい.
 すぐに烏川右岸の堤防沿いの道に出る.踏み跡をたどって堤防の上に出る.見晴らしが開けて,開放感に浸る.この堤防道は高崎伊勢佐木サイクリングロードの一部らしい.
 資料9によると,「利根川支流の広瀬川から利根川本流,同じく利根川支流の烏川そして井野川と,何本もの川をつないで延びる高崎伊勢崎自転車道.それぞれの川は規模も周囲の景色も異なっていて,川沿いの自転車道にありがちな単調さはない.起点と中間地点の2カ所で別の自転車道とつながっているから,つないで走ることもできる」ようである.

<ガードを潜る>

■複雑な旧中山道
 堤防の上から堤防沿いの道を見下ろすと,リュックを背負った女性が1人,足早に歩いている.どうやら中山道を一人旅しているようである.気儘旅のようである.何となく羨ましい.
 堤防道の進行方向左手の土手に,「中山道」と書いた小さな案内板が立っている.ウッカリすると見落としそうである.この案内板の所から堤防を降りて,長閑な住宅地の中に入る.所々に「旧中山道」と書いた案内板が建っているので,案内板を見落とさないようにして,右折,左折,右折,左折を繰り返す.そして再び堤防上に出る.

<細い道を辿って堤防下に出る>


<堤防を歩く>


<この案内板のところから堤防を降りる>


<集落の中の複雑な道;道標だけが頼り>

■渡し場の痕跡を探索
 堤防には,染みるように黄色い菜の花が一面に咲いている.素晴らしく広い眺望である.広い河川敷の向こうに烏川がゆったりと流れている.
 地図を見ると,今,私たちが堤防に登った場所から対岸まで,昔は“渡し”があったらしい.
 一行の誰かが,
 「川岸に“渡し場”の痕跡があるはずです・・」
という.
 それでは,折角だから渡し場の跡を探そうということになり,私の他2名で,雑草がびっしりと繁茂している河川敷を通り抜けて,川岸まで出てみる.しかし,辺りを見回しても,それらしい痕跡は見当たらない.

<渡し場があったかもしれない場所>
 
<倉賀野宿へ>

■倉賀野宿の概要
 資料12江戸から数えて12番目の宿場である.日光へ向かう日光例幣使街道が分岐している。かつては江戸時代,烏川を利用した舟運搬の河岸があった.天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば,倉賀野宿の宿内家数は297軒,うち本陣1軒,脇本陣2軒,旅籠32軒で宿内人口は2,032人であった.資料3(p.82)によれば,内,男1047人,女985人.

■日光例幣使街道
 資料13には,「徳川家康の没後,東照宮に幣帛を奉献するための勅使(日光例幣使)が通った道である.倉賀野宿を起点として,楡木(にれぎ)宿にて壬生通り(日光西街道)と合流して日光坊中へと至る.
なお、楡木より今市(栃木県日光市)までは壬生通り(日光西街道)と共通である.現在、栃木県日光市から鹿沼市,栃木市,佐野市,下都賀郡岩舟町,佐野市,足利市,群馬県太田市,伊勢崎市,高崎市に至る路線が「日光例幣使街道」または「例幣使街道」と呼ばれている.特に日光市から鹿沼市にかけての区間には日光杉並木が現存する.」という説明がある.

■柳瀬橋を渡る
 13時48分に柳瀬橋を渡り始める.長い橋である.橋の上からの眺望が,実に広々としていて気持ちがよい.13時53分に橋を渡り終える.橋を渡るのに5分も掛かったことになる.
 序でに,昔の渡し場があったと思われる場所を探すことになる.
 烏川の左岸の堤防沿いに,周囲に注意しながら,下流に向かって数百メートル下るが,それらしい痕跡はやっぱり見当たらない.

<橋を渡って岩鼻の集落に入る> 

■赤城神社
 渡し場があったと思われるところで鋭角に左折する.元の道に戻る手前にある赤城神社に到着する(14時10分).広い境内に立派な社殿がある.神社境内には全く人気がない.資料10によれば,「赤城神社(あかぎじんじゃ)は、群馬県の赤城山の神を祀る神社である。その本源は、赤城山を神体とする、山岳信仰に端を発する神社である」.どうやら関東一円に沢山分布している神社のようである.
 

■観音寺
 赤城神社を出て,旧中山道に戻る.道路の反対側にある観音寺を詣でる(14時20分).
 大分歩いたので,観音寺の境内を借りて,数分休憩を取る.資料11によると,「この観音寺の裏側一帯は幕府の岩鼻代官所(陣屋)のあったところである.高崎藩や厩橋藩の領地であったこともあったが、幕府直轄領となり代官を常駐させた.明治になって一時、岩鼻県の県庁がここに置かれた.その後群馬県となり県庁は高崎に移されている」とのことである.

<観音寺>


<観音寺本堂>

[加除修正]

2013/2/22  ルート地図の変更と本文の加除修正を行った.

[参考資料]

資料1;岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料2;ウエスト・パブリッシング(編),2008,『中山道を歩く旅』山と渓谷社
資料3;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料4;五街道ウォーク事務局,発行年不詳,『ちゃんと歩ける中山道六十七次』五街道ウォーク事務局
資料5:http://himalchuli7893m.web.fc2.com/nakasendo13.htm
資料6:http://himalchuli7893m.web.fc2.com/nakasendo13.htm
資料7:http://hamadayori.com/hass-col/sports/ThreeDayMarch.htm
資料8:http://www.jalan.net/kankou/spt_10209ae2182019734.html
資料9:http://www.cyclesports.jp/jitenshado/015/index.html
資料10:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E5%9F%8E%E7%A5%9E%E7%A4%BE
資料11:http://tthitosh.hp.infoseek.co.jp/nakasendo1/06takasaki.html
資料12;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%89%E8%B3%80%E9%87%8E%E5%AE%BF
資料13; http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%85%89%E4%BE%8B%E5%B9%A3%E4%BD%BF%E8%A1%97%E9%81%93                                                                            (つづく)

「中山道六十九宿」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/2f47f35909dca6dd9c9b59b5a3fdb74e
「中山道六十九宿」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/dd9d07e5503212d47b30e6583cbe4563

「中山道六十九宿」の索引
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/b0fff7ecf75b54c3f443aa58cfa9424e

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