中高年の山旅三昧(その2)

■登山遍歴と鎌倉散策の記録■
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歩いて巡る中山道六十九宿(第13回):第3日目(3);七曲がり

2012年07月19日 03時40分20秒 | 中山道六十九宿

                                 <ソバ屋で昼食>

   歩いて巡る中山道六十九宿(第13回):第3日目(3);七曲がり
              (五十三次洛遊会)
          2012年6月22日(金)~24日(日)

2012年6月24日(日) 
(つづき

<赤坂周辺地図>



<長閑な田園地帯を西へ>

■中山道三回り半
道標

 平野井川の左岸沿い輪中堤の上を歩き続ける.やがて進行方向右手から南西に川を渡る橋と立体交差する.資料3(p.299)によると,この道は大垣道である.また,
資料4(p.55)によると,この辺りの堤防は大垣輪中堤と呼ばれているようである.
 堤は川の流れに沿って,右に大きなカーブを描きながら次第に北西に向きを変える.
 10時45分頃,赤花町という集落に到着する.堤に沿って数軒の民家が並んでいる.そろそろこの辺りで堤から下へ降りる場所がある筈である.地図を注意深く見ながら,堤を降りる場所を通り過ぎないように注意しながら,ソロソロと歩き続ける.
 そのとき,とある民家から,男性が出てきて,
 「もう少し先だよ・・・」
と頼みもしないのに勝手に教えてくれる.
 教えていただくのは有り難いが,探し歩く楽しさがなくなるので痛し痒しでもある.何だか推理小説を読んでいる最中に,ポンと結末を教えられたような気分である.
 ほどなく,「中山道三回り半」と隷書体の字で刻字してある立派な道標を見付ける.私たちは,この道標を斜め左に,堤から下に降りる.

<中山道三回り半道標>

■素戔嗚神社
 堤から平野に降りて,赤花町の集落に入る.
 10時47分,素戔嗚神社の前を通過する.小規模な神社だが,参道入口に立派な常夜灯が1対置かれている.
 この神社の由来は調べていないが,神社の名前から推察して,素戔嗚尊を祀っている神社に違いないだろう.


<素戔嗚神社>

■岐阜経済大学遠望
 赤花町の集落を抜けると,一面の田んぼである.実に広々とした田園風景が広がる.10時50分頃,進行方向右手の遙か先に岐阜経済大学のキャンパスが見え始める.
 私は関東在住の人間なので,岐阜経済大学がどんな大学なのか全く分からないが,ホームページで調べると,経済学部と経営学部の2学部からなる小規模な文化系大学のようである.周囲を田んぼで囲まれていて,とても長閑な雰囲気の大学である.このような素晴らしい環境で,のびのびとキャンパスライフを楽しめる学生が羨ましい.

<岐阜経済大学>

■長徳寺で一休み
 10時58分,長徳寺に到着する.
 少し蒸し暑い中を歩き続けたので,長徳寺の境内を拝借して,日陰に入って休憩をとる.
 長徳寺の由来が気になるので,帰宅してからインターネットで調べてみる.しかし,所在地や墓地案内の情報以外に,これといった情報は,今のところ見当たらない.
 それにしても,なかなか立派なお寺である.

<長徳寺本堂>


<長徳寺境内で休憩>

■聖観音道標
 11時05分,休憩を終えて長徳寺から再び歩き出す.
 11時09分,聖観音道標に到着する.ここは谷汲山道の分岐点でもある.谷汲参道が,一体,どこに繋がる道なのか,私には分からない.
 資料4(p.55)には,この道標には「右ぜんこうじ道 左谷汲山 ごうど いび近道」と書いてあるらしい.ここから約4里離れたところに谷汲山華厳寺があるらしい.華厳寺は西国三十三箇所札止めの観音霊場のようである.
 あいかわらず長閑な田園風景が続く.私たちは西へ向かって歩き続ける.遙か前方には伊吹山と思われる山が聳えている.
 
<聖観音道標>                    <前方に伊吹山が見え始める>

■中山道七曲り道標
 広い道との十字路を渡って,すぐに右折する.そして,次の十字路を左折する.さらに,11時12分,三叉路に突き当たる.ここに中山道七曲り道標が立っている.この三叉路を直角に右折する.
 次の十字路に薬師道標が立っている.なかなか複雑なルートである.

<中山道七曲り道標>

■伊吹山が大きく見える
 田んぼの中の道を,地図と案内杭を頼りに,左右に曲がりながら歩き続ける.
 遙か前方に聳える伊吹山を仰ぎ見ながら,案内標に従って,田んぼの中の三叉路を右折する.

<田んぼの中を右へ左へと曲がる>

<赤坂宿に入る>

■赤坂宿の概要
 赤坂宿の所在地は大垣市赤坂町.第56次の宿場である.
 資料1(p.146)によると,関ヶ原合戦の前夜まで東軍が陣を張った所である.皇女和宮降嫁に合わせて54軒が新築され,嫁入普請と呼ばれていた.そのとき建てられた家屋の一部が残っているという.
 資料3(p.)301によると宿内人口は1129人.内,男576人,女,553人.宿内惣家数292軒.内,本陣1軒,脇本陣1軒,旅籠17軒の規模である.

■加納薬師如来道標
 11時21分,加納薬師如来を通過する.小さなお堂の前に加納薬師如来道標が立っている.
 ここで直角に左折して,進行方向が西になる.

<加納薬師如来お道標>

■近鉄養老線の踏切を渡る
 11時24分,近鉄養老線の踏切を渡る.
 踏切のすぐ北側に「ひがしあかさか」駅がある.
 何時の間にか,田んぼがなくなり,かなり大きな集落の中を歩いている.私たちはいよいよ赤坂宿に到着したようである.

<近鉄養老線の日見切りを渡る>

■閑静な集落
 「菅野」というところで三叉路を左折して,1本南側の道路に入る.回りは閑静な住宅地である.地図を見ると「枝郷」という所らしい.
 人の気配は全くないが,純日本風の大きなお屋敷が続く.

<閑静な集落を行く>

■白山神社
 11時33分,杭瀬川に架かる小さな橋を渡る.橋を渡った左手に白山神社の立派な鳥居とお社がある.

<赤坂大橋と白山神社>

■一里塚跡
 11時35分,一里塚跡の案内杭を通過する.ここには何の説明もないが,多分,江戸日本橋から110里目の一里塚である.

<一里塚跡>

■少々早めの昼食
 11時35分,進行方向左手に,「蕎麦茶房えだの郷」というソバ屋があるのを見付ける.
 「ここから先,どこに食堂があるか分からないので,ここで昼食にしましょう」
とリーダーが言う.勿論異論はない.
 店先には「山形」とか「月山」とか,山形県を強調するPRが目を引く.
 一行の中に山形県出身の方が居られる.この方が小躍りする.
 私は「ナントカ蕎麦」というのを注文する.注文した途端に名称を忘れるが,盛り蕎麦のようなものである.
 これが,喉越しも良くとても美味しい.
 サービスに山菜の天ぷらが付く.揚げたての天ぷらは実に美味しい.
 こうして,第3日目の前半は終わった.

<蕎麦茶房えだの豪>


<注文したナントカ蕎麦>


<山菜の天ぷら>
                                     (つづく)

[参考資料]

資料1;岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料2;ウエスト・パブリッシング(編),2008,『中山道を歩く旅』山と渓谷社
資料3;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料4;五街道ウォーク事務局,発行年不詳,『ちゃんと歩ける中山道六十七次』五街道ウォーク事務局
資料5;「岐阜県十七宿散策ガイド」日本歴史街道美濃中山道連合・岐阜県

「中山道六十九宿」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/fa0e64136f6cd3e007e8e30536679140
「中山道六十九宿」の次回の記事

http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/0b0112186bf6b2b987ed189f333fcf6b

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