中高年の山旅三昧(その2)

■登山遍歴と鎌倉散策の記録■
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秋の信濃路:北国街道・浅間山・海野宿を巡る(6):晩霞記念館・海野宿(1)

2009年11月08日 10時59分33秒 | 関東・伊豆箱根・上信越

                <法善寺を見上げる息子一家>

 秋の信濃路:北国街道・浅間山・海野宿を巡る(6):晩霞記念館・海野宿(1)
             (単独および家族旅行)
         2009年10月9日(金)~12日(月)

第3日目:2009年10月11日(日)

<家族を出迎える>

■弟の別荘へ
 
浅間山登山
終えた私と息子は,小諸にある弟の家に泊まった.
 もう何年も前に,妻に先立たれた弟は,何時も1人で朝食を摂っている.今日は私と息子が加わって,3人の男だけの朝食である.弟が腕を振るってネーベンを作る.音だけの朝食も結構楽しいものである.
 朝食後,小諸から自動車で約10分のところにある弟の別荘に移動する.昨日と同じように,弟と息子の2台の車である.
 9時13分,弟の別荘に到着する.別荘は,長い間,使っていないという.別荘の中を一通りチェックした後,弟から別荘の鍵を預かる.弟は,そのまま小諸の自宅に引き上げる.息子と私は,とりあえず,寝具を日の当たるところに広げる.家の中全体に,かび臭さを感じるので,暫くの間,すべての窓を開けて,風を通す.

■佐久平駅へ
 10時過ぎに,息子の車に乗って,佐久平駅に向かう.そして,家内,息子の家族(嫁と娘)の3人の到着を待つ.列車は定刻に佐久平駅に到着する.やがて一行が現れる.
 母親と手を繋いだ孫娘が改札口に近づいてくる.孫娘は遠くから私を見つけて,
 「あっ・・おじいちゃんだ!」
と言いながら,ピョン,ピョン跳ねている.
 「孫って,なんて可愛いんだろう」
私は口には出さなかったが,孫のかわいさにほだされる.
 一旦,弟の別荘に戻る.
 今日は,小諸市の隣にある東御(とみ)市の観光スポットを一回りする予定である.

<丸山晩霞記念館>

■東御市へ

 11時43分,家内,息子,息子の嫁,孫,それに私の5人が,息子の車に乗る.
 私たちは,小諸市を国道17号線に沿って通過し,西へ向かう.車窓からは,昨日登った浅間山が青空の下にクッキリと見えている.
 西原,滋野を通過して,12時11分,今日の最初の観光目的地,丸山晩霞記念館のあるサンテラスホールに到着する.今日は,ホールで,何かのイベントがあるらしく,沢山の中学生が集まっている.


■丸山晩霞記念館
 サンテラスホールの一角にある丸山晩霞記念館に入る.
 丸山晩霞は東御市(元:根津村)の出身で,明治中期から昭和初期に掛けて活躍した水彩画家である.日本水彩画会創立のときに,発起人の1人にもなったという.
 館内には,丸山晩霞がヨーロッパを歴訪していた頃の絵画が多数展示されている.展示室の説明資料を眺めていると,丸山晩霞は,実に繊細な画を,何の変哲もないたった3本の筆で描いていたことが分かる.これは驚きである.
 繊細なタッチで描かれている絵を,1枚1枚丁寧に拝見する.



      <館内には沢山のスケッチが並ぶ:係員の了承を得てノーフラッシュで撮影>

       
        <島崎藤村と丸山晩霞が,一緒にキノコ取りをしたときの写真


■同じ建物のレストランで昼食
 13時20分頃,休憩と昼食を兼ねて,丸山晩霞記念館と同じ建物の中にあるレストランに入る.私はカレーライスとコーヒーを注文する.

               <館内の軽食堂のカレーライス>

■法善寺
 丸山晩霞の画が,この近くの法善寺にもあるらしい.そこで,私たちも法善寺を尋ねる.
 あいにく,本堂の扉が閉まっているので,外からガラス戸越しに見るしかないが,欄間の絵は確かに丸山晩霞が書いた絵である.
 寺の住職に頼んで,本堂の中に入れて貰い,ゆっくりと拝見したいなとも思ったが,それも面倒.
 まあ,ガラス越しにでも見たからいいかで,境内を一回りする.寺の由来は分からないが,随分と大きな寺である.

               <法善寺の欄間の絵:丸山晩霞作といわれる>


                     <法善寺の立派な本堂>

<北国街道海野宿>

■海野へ向かう

 14時11分,丸山晩霞記念館の駐車場に戻る.
 直ぐに発車.往路を少し戻って,国道18号線との交差点を右折して,上田方面に数分向かう.そして海野宿入口の交差点で左折,14時18分に海野宿市営駐車場に到着する.かなり広い駐車場だが,休日とあって沢山の観光客が訪れていて満車である.結局,駐車場に入るまでに,5分ほど待つ.

■海野宿の概要
 観光資料によると,海野宿は,1625年(寛永2年),北国街道の宿駅として開設された.北国街道は,中山道と北陸道を結ぶ重要な街道で,佐渡で採掘された金の輸送や,北陸の諸大名が参勤交代で通った道である.江戸との交通も頻繁であり,善光寺への参詣客も多くあったという.
 海野は,中世の豪族,海野氏の城下町でもある.
 伝馬の仕事は,半月交替でつとめ,人足25人と25頭の馬が常備されていたらしい.
 海野宿の延長は約6町(約650メートル),街道の真ん中に用水を引き,北屋敷,中屋敷の両側に家並みがつづき,上宿,中宿,下宿に分かれていた.
 1742年(寛永2年),大洪水が起きて,隣接する田中宿が大きな被害を受けた.そこで,田中宿の本陣は海野宿に移された.享和3年の記録では,伝馬屋敷59軒,旅籠23軒,大変賑わっていた.
 昭和61年,日本の道100選に選ばれた.つづいて,昭和62年には重要伝統的建造物群保存地区に選定された.



■良く保存されている宿場町
 駐車場から歩き出す.最初に白鳥神社の境内を抜ける.この地方の豪族海野氏の祖先,貞保親王,善淵王が祭神.海野氏,真田氏の氏神であった.1624年(寛永元年),真田幸村の兄,真田信之が松代にも分祀されたという.
 境内を抜けると,道の中央に用水が流れる海野宿の建物が並んでいる.沢山の観光客に混じって,宿場町の風情を楽しむ.
 途中,私以外の家族は疲れたと言って.宿内のコーヒー店に入るが,私はせっかくの機会なので,宿場町の隅から隅まで見て歩く.
 遠い,遠い昔,私がまだ旧制上田中学の生徒だった頃,この海野宿に住んでいる友人宅を訪れたことがある.友人の名前も忘れたが,あの友人の家は,一体どの辺りにあったのだろうかと探してみるが,どこだったか見当も付かない.かすかに思い出すことは,広い天井の大きな家だったということである.

                       <白鳥神社>
                               (つづく)
「関東・上信越の山旅」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/8a3b78df7004a1335b312d74c4fb270b
「関東・上信越の山旅」の次回の記事
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