中高年の山旅三昧(その2)

■登山遍歴と鎌倉散策の記録■
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歩いて巡る中山道六十九宿(第15回);第3日目(4);野路から瀬田の唐橋まで

2012年12月26日 03時56分16秒 | 中山道六十九宿

                                                               <野路の集落を行く>

歩いて巡る中山道六十九宿(第15回);第3日目(4);野路から瀬田の唐橋まで
            (五十三次洛遊会)
      2012年11月16日(金)~19日(月)

第3日目;2012年11月18日(日) (つづき)


<東海道草津宿地図>


※再掲



<名残の野路を行く>

■宿駅野路の概要
 現地の案内板の記事によると,野路の地名は既に平安時代末期には使われていたようである.平家物語をはじめ多くの紀行文にも野路の名前が出てくるという.
 鎌倉時代には,源頼朝が上洛に際し,野路で逗留するなど,宿駅として武将の戦略拠点ともなり,また瀬田川沿いを宇治方面へぬける回路の分岐点であることから交通の要衝として重視されていた.
 また,この辺りは瀬田川沿いに宇治方面に抜ける迂回路の分岐点でもある.
 野路の地で十禅寺川と東海道が交差することかあ,日本六玉川のひとつとして有名である.

六玉川って・・・何?
 では,“六玉川って・・・何?”
 浅学の私には全く分からない,東京には「玉川上水」があるが,これは六玉川に含まれるのかな? どうもこういう些細なことが気になって仕方がない.
 資料3には,次のような説明がある(要約引用;一部加筆).

 「玉川は川の名.六か所にあるので,六玉川(むたまがわ)と総称される.
(1)野田の玉川:宮城県多賀城市を流れていた川.
  
「陸奥(みちのく)の野田の―千鳥鳴くなり/新古今(冬)」
(2)調布(たつくり)の玉川:東京都を流れる多摩川.調布(たつくり)の玉川.
  
「―にさらす手作りさらさらに/万葉集 3373」
(3)野路の多摩川:滋賀県草津市老上町を流れる小川.
  
「明日もこむ野路の玉川萩こえて/千載和歌集(秋上)」
(4)井手の玉川:京都府井出町を流れる川.
  
「山ぶきの花の露そふ井手の玉川/新古今(春下)」
(5)高野の玉川;和歌山県高野山奥院大師廟畔の小川.
  「高野山奥の玉川の水
/風雅(雑中)」
(6)三島の玉川:大阪府高槻市を流れる川.
  
「卯の花咲ける玉川の里/後拾遺(夏)」」
     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 なるほど! そういうことだったのか!
 “六玉川をムタマガワ,調布がタツクリとは!”
 単純な私は,実に面白いなと思う.
[野路の玉川周辺地図] 

<野路周辺地図;少々写りが碓氷が「現在地」に注意>

■願林寺
 12時21分,願輪寺参道入口に到着する.浄土真宗大谷派の寺である.永正9年(1512年)に祐正が開基.本尊は阿弥陀如来.

<願林寺>

■野路の石柱
 12時28分,上掲地図の「現在地」付近で,古そうな石柱を見付ける.「野路■・・・■」という刻字が見えているが,殆ど判読不明である.
 ただ,私達がいよいよ古き宿駅野路に到着したことは確かである.

<野路の石柱>

野路の休憩所
 12時26分,ガードを潜る.
 ガードを抜けると水路脇の道路になる.水田と民家が点在する広い平野の中をノンビリと歩く.
 12時28分,小さな公園風の休憩所がある.ここで周囲の風景を眺めながら一呼吸入れる.傍らにある案内板には,野路の説明が描かれている.説明の内容は,この記事の冒頭の記述と同じである.

<野路の休憩所>

月倫池
 12時34分,月倫池に到着する.
 広々とした池である.池の中に小さな島がある.遙か向こうにはうねうねと続く低山が見えている.比叡山だろうか.
 小さな池には弁財天が祀られているが,残念ながら島は進入禁止である.
 
<弁天池>                                     <弁財天参道>

<大津に入る>

■ここから大津

 12時44分,「ここから大津」と描いてある常夜灯風の案内板の前に到着する.
 私達は,いよいよ53次(中山道換算で69次)の大津宿に近付いている.

<ここから大津の案内標識>

■月倫寺
 12時54分,月倫寺に到着する.珍しいことに曹洞宗の寺のようである.
 手許の資料では,月倫寺の由来などは不明.

<月倫寺>

■一里塚跡と道標
 13時07分,小さな橋を渡る.欄干にある筈の橋の名前が全く読めない.
 13時10分,「一里塚跡」とシッカリ刻字された大きな石碑に到着する.一里塚跡の石碑の直ぐ近くに,新しそうな案内石柱が立っている. 
 
<一里塚跡>                               <道標>

■浄光寺
 13時30分,浄光寺に到着する.
 資料4によると,この寺は真宗仏光寺派.徳治2年(1302年)証了開基.元亀元年(1571年)現在地に移転した.

<浄光寺>

和田一号橋
 13時38分,和田一号橋を渡る.小さな橋だが赤い欄干と烏帽子の洒落た橋である.
 橋を越えて直ぐ左手には古墳がある.

<和田一号橋>

<まもなく瀬田の唐橋>

■横尾山一号墳
 13時39分,古墳群の中の横尾山一号墳に到着する.
 古墳の入口なのだろうか,小さなトンネルのような穴が開いている.石室が露出しているのかな・・・私には良く分からない.
 傍らの案内板の説明によると,瀬田川に向かって延びる丘陵の南斜面に古墳が分布しているという.これらの古墳は何れも7世紀前半に作られたもので,横穴式石室と呼ばれる種類の古墳らしい.
 古墳は心地よい樹木で覆われている.私達は古墳の前で立ち休憩を取る.
 
<横尾山一号古墳>                                                          <古墳の木陰で立ち休憩>

檜山神社
 13時48分,檜山神社に到着する.ここは建部大社の末社のようである.鳥居の先には深い森の中の参道がある.
 祭神は日本武尊のようだが,この神社の由来は,手許の資料では不明.

<檜山神社>

■正法寺
 13時52分,正法寺に到着する.山号は八景山.
 手許の資料では,この寺の由来は良く分からない.

<正法寺>
 
■ネコの道標
 13時52分,四つ角でネコの道標を見付ける.面白いので写真を撮る.
 台座に「右瀬田の唐橋 左旧東海道」と書いてある.いよいよ瀬田の唐橋も間近なようである.
 ”もう一息で,瀬田の唐橋だぞ”
と自分自身を勇気付ける.

<ネコの道標>

<瀬田の唐橋が見えたぞ>

■周辺の地図
 私達も,いよいよ瀬田の唐橋に近付いているなと実感する.
 13時56分,この付近の案内図の前に到着する.この案内図を見ると,瀬田の唐橋も,もうすぐの所にあるようだ.
 今,私達は,この地図の「現在地」と言うところに立っている.

<瀬田の唐橋付近の地図>

あそこが瀬田の唐橋だ
 13時59分,目の前に立派な橋が見え始める.瀬田の唐橋である.
 “あの橋を渡ったら,いよいよ石山だ・・・!”
 いよいよ京都も間近になったと実感で分かる.さあ,もう一息だ!

<瀬田の唐橋が見え始める>

[参考資料]

資料1;岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料2;ウエスト・パブリッシング(編),2008,『中山道を歩く旅』山と渓谷社
資料3;http://www.weblio.jp/content/%E7%8E%89%E5%B7%9D
資料4;http://kokokujitanbo.com/ootu-c-10-1.htm                                          
                                         (つづく)

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