<西念寺の六地蔵>
[改訂版] 歩いて巡る中山道六十九宿(第8回):第2日目(3):岩村田宿
(五十三次洛遊会)
2010年6月12日(土)~14日(月)
※本稿の初出は2010年7月3日である.
初稿の地図の差し替え,本文の誤字脱字転換ミスの修正と加除訂正を行った.
第2日目:6月13日(土) (つづき)
<ルート地図>
<岩村田宿>
■岩村田宿の概要
私たちはいよいよ岩村田宿の核心部に到着する.
資料5によると,岩村田宿の概要は,以下の通りである(「・・である」調に書き換えた).
「岩村田は内藤氏15000石の城下町.中山道では珍しく城下町であり商業都市であった.宿内には本陣も脇本陣もなく,大名家は寺院で休泊した.旅籠が8軒と極めて少なく,住民たちは商業で生計を立てていた.佐久鯉料理が名物.佐久甲州街道,善光寺道,下仁田道の分去れがある.
江戸時代,中山道の宿場町であった信州岩村田(現在の長野県佐久市岩村田)は,岩村田藩(内藤家)16000石の城下町でもあった.岩村田藩の政庁は,「城」ではなく「陣屋」だった.1864年(元治元年),岩村田藩最後の藩主内藤正誠は,岩村田宿東南の高台に城郭の建設を計画し,工事をはじめた.しかし,工事開始後間もなく,徳川幕府は大政奉還.岩村田藩も廃藩となり,城は完成を見ずして取り壊された.
城跡地は,岩村田小学校を中心とした地域で宅地化されている.小学校の北側に,道を隔てて小さな2つの神社(西側が招魂社,東側が藤城神社)が並んでいて,招魂社の鳥居の脇には「上の城址」の看板が,藤城神社の境内には「岩村田城址」の石碑が,それぞれ建っている.」
■龍雲寺
住吉神社のご神木を見学した後,再び中山道を南下する.ごく緩やかな下り坂である.ときどき自動車は通るが,人影は殆どない.
10時25分,進行方向左手の民家の間から,お寺らしい建物が見える.龍雲寺である.直ぐ先で右折して狭い道に入る.そして,10時26分,曹洞宗太田山龍雲寺に到着する.風格を感じる大寺院のようである.
境内にある説明板によると,この寺院は「鎌倉時代の初めに,地頭大井氏(甲斐源氏)の菩提寺(臨済宗)として創建.その後戦火で荒れ果てた.そして現在地に移った.1560年(永禄3年),武田信玄が中興開基した」ようである.
広い境内を散策する.大きな本堂に圧倒される.境内には人気が全くない.
資料6(ウィキペディア)には,龍雲寺について,次のような記事がある.
「鎌倉時代の1312年(正和元年)大井玄慶を開基、浄学天仲を開山として臨済宗の寺院として建立されたのに始まる。その後兵火にあって衰退していたが,文明年間(1469年 - 1487年)曹洞宗の僧天英祥貞によって復興され,曹洞宗の寺院に改められた.
戦国時代には甲斐国守護の武田氏が信虎期から佐久郡へ進出し,晴信(信玄)期には信濃侵攻を本格化させ天文年間には佐久郡を掌握する.晴信が拡大した領国内の曹洞宗寺院の支配拠点とするため越後から北高全祝を招聘して中興しているが,その時期に関しては龍雲寺の記録である『太田山実録』によれば弘治年間とされているが,龍雲寺所蔵の北高筆由緒書によれば永禄4年(1561年)の川中島の戦いに際した復興と記されたとしており,『太田山実録』には北高の経歴に相違があり作為が想定されていることから後者の永禄年間(1558年 - 1570年)中興であると考えられている(柴辻俊六による).
北高の招聘に際しては,甲斐国内の竜華院(山梨県甲府市、旧東八代郡中道町)と永昌院(同山梨市)の住職が当たっている.永禄10年には信玄から寺領を寄進されており,川中島合戦を契機に西上野への侵攻を開始すると龍雲寺へも末寺を寄進している.
龍雲寺は分国内曹洞宗派の僧録所となり,僧録司となった北高は元亀元年(1570年)には宗派統制を目的に定められた曹洞宗新法度の制定にも携わっている.元亀3年(1572年)4月11日には西上作戦に際して僧録司である北高の立場を分国内外へと示すため千人法幢会を実施し,正親町天皇から扁額を下賜された。
信玄は翌元亀4年(1573年)に西上作戦の途上で死去しているが,龍雲寺は各地に点在する信玄の火葬地であったとする伝承があり,実際に遺骨が出土していることから分骨された可能性も考えられている.これは1931年(昭和6年)5月に庭園から遺骨と遺品の納められた茶釜が出土し,遺骨(信玄遺骨)や短刀や銘文のある袈裟環など遺品の鑑定を巡り論争が起こり,史跡指定を却下した国と住職の間で訴訟が発生する騒動となった.
江戸時代には江戸幕府から朱印状が与えられている.「龍雲寺文書」は『信濃史料』に収録されている.」
<龍雲寺> <西念寺>
■西念寺
10時30分,龍雲寺を出発する.
途中に,小諸道分去れの復元道標があるはずだが,不注意で見落としてしまうが,いよいよ岩村田の市街地に入る.旧岩村田町の中心街である.前方にアーケードの付いた商店街が見えてくる.地図を見ながら,交差点を右折する.
西念寺の本堂が見えるところで左折する.ところが曲がるのが1本道筋が早すぎたようで,西念寺の境内にそのまま突き当たる.面倒なので,脇から境内に入ってしまう.10時37分である.
何人かの仲間が,丁度本堂前で鉢合わせした寺の住職から,この寺の話を伺うことになる.私たちは参道入口で,彼らが話を伺っている間,ジッと待っている.和尚さんは話し好きらしくて,なかなかお話が終わらない.
この寺の大きくて立派な本堂が印象的である.佐久市のホームページ(資料7)によると,「旧岩村田領主仙石秀久,内藤正国の菩提寺.苔むした五輪塔が400余年の歴史を偲ばせる.江戸中期の国学者,吉沢好謙の墓と句碑がある.本尊阿弥陀如来座像が県宝に指定されている.」という説明がある.
<阿弥陀像の説明板>
■吉田好謙の歌碑
吉沢好謙という人物のことは知らないが,境内にある佐久市教育委員会の説明文によると雅号は鶏山というらしい.昭和52年に書かれた説明文は,すでに半分消えかけていて読みづらくなっている.
“世を乱髪に陰侍りて
籬などおふがくどさに
野菊かな”
と読める句がしるされている.浅学な私には,この句の意味は全く分からない.
資料8によると,吉沢好謙は,「よしざわ-たかあき.1710-1777江戸時代中期の郷土史家,俳人.宝永7年2月8日生まれ.江戸で賀茂真淵,加藤美樹(うまき)に国学を,建部綾足(たけべ-あやたり)に俳諧(はいかい)をまなぶ.郷里信濃(しなの)(長野県)の山河・村落などを実地に調査し「信濃地名考」をあらわした.和歌,書画にもすぐれた.安永6年1月1日死去.68歳.通称は清右衛門.号は鶏山」ということである.
<吉田好謙歌碑>
■佐久甲州街道分去れ
10時42分,西念寺を出る.
再び岩村田の中心街に戻る.アーケード付の商店街を南に下る.日曜日なのに過半数の商店はシャッターを下ろしたままである.
もう,50年以上も前のことになるが,小諸で生まれ育った私は,幼少の頃から,何回も岩村田を訪れたことがある.あの頃は,岩村田も小諸も地方商業都市として随分と栄えていた.今,シャッター通化した岩村田の現状を見ると,何とかならないものかと誰かに縋り付きたくなる.
度々,帰郷する小諸の寂れ方も寂しいが,岩村田の寂れようは,小諸よりも,もっと厳しいように思える.まあ,そうは言っても,同じ佐久市内のJR佐久平駅周辺が急速に発展したのだから,いいじゃないかとも思えるが,複雑である.
10時50分,信号相生町の角にある西宮大神を回り込むようにして右折する.ここが「佐久甲州街道分去れ」である.なお,ここの西宮大神の故事来歴は,インターネットでザッと調べたが,あまりハッキリしない.
<西宮大神> <道祖神>
<塩名田宿へ向けて>
■小海線踏切を渡る
いずれにしても,私たちは岩村田宿を後にして,5.6キロメートル先の次の宿場,塩名田宿を目指して歩き続ける.
10時52分,小海線の踏切を渡る.
<小海線踏切を渡る>
■御嶽若宮神社
前方にはこんもりとした森が見えている.踏切を渡ると,すぐにY字型の三叉路に突き当たる.ここを右へ大きくカーブしながら右側の分岐を進む.
10時56分,御嶽若宮神社に到着する.広い境内.荘厳な雰囲気の神社である.境内には大きな石碑が立ち並んでいる.どうやら由緒のある神社らしいが,説明板がないので社歴は分からない.
境内を通り抜けて,境内の反対側まで行ってみる.深い緑の木陰で,近所の子ども達が遊んでいる.
境内には荘厳なお社が数棟経っている.
<御嶽宮神社> <立派なお社>
■岩村田高校
11時05分,御嶽若宮社を出発する.
ほんの少し歩くと,進行方向右側にある岩村田高校前を通過する.ここは旧制中学校だった所.同じく佐久市内には,進学校として地元では有名な野沢高校もある.共に長野県立の高校である.
コンクリート製の立派な校舎が建ち並んでいる.木造のオンボロ校舎で中学・新制高校を過ごした私にはとても羨ましい.
<岩村田高校>
■浅間病院と相生松
道なりに進む.道路は大きな弧を描きながら左へカーブしていく.進行方向左手に大きな病院が見えてくる.浅間病院である.もの凄く大きな病院.その規模にビックリする.
浅間病院には,確か私の親戚の医師が勤務していたような気がするが,今,どうしているんだろう.そんなことを連想しながら,病院の脇を通過する.
浅間病院を過ぎてから,道路が突き当たるように右へ曲がる.その曲がり角に相生松が生えている.
資料9によると,「相生の松とは,黒松と赤松がひとつの根から生えた松で,縁結び,和合,長寿の象徴とされている.佐久市岩村田にある現在の松は3代目.この地区では,シンボル的な存在である.相生町という地名の由来になっている.皇女「和宮」の東下りの際,ここで輿を留め,御野立小休をとった.当時は,結婚のため江戸に下る姫君が中仙道を通る際には,「相生の松」の名が縁起が良いということで,休むのが習わしだったといわれている」ようである,
<浅間病院> <相生松>
■道祖神
11時17分,国道141号線と交差,横断する.
11時21分,しめ縄が張ってある立派な道祖神の前を通過する.この手前に水神碑と砂田用水碑があったはずだが見落とした.残念.
<道祖神>
(つづく)
[参考資料]
資料1;岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料2;ウエスト・パブリッシング(編),2008,『中山道を歩く旅』山と渓谷社
資料3;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料4;五街道ウォーク事務局,発行年不詳,『ちゃんと歩ける中山道六十七次』五街道ウォーク事務局
資料5:http://saku.kazetabi.net/01-2-14.htm
資料6:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%8D%E9%9B%B2%E5%AF%BA_(%E4%BD%90%E4%B9%85%E5%B8%82)
資料7:http://www.city.saku.nagano.jp/cms/html/entry/769/257.html
資料8:http://kotobank.jp/word/%E5%90%89%E6%B2%A2%E5%A5%BD%E8%AC%99
資料9:http://www.pref.nagano.jp/xtihou/saku/shokan/shuns_md.htm
資料10:http://home.b05.itscom.net/kaidou/nakasendo/7basyokuhi/basyoukuhi1.html
[加除修正]
2013/7/6 地図の修正.誤字脱字転換ミスの修正,加除訂正, 推敲を行った.
「中山道六十九宿」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/2ba6577b1988add63f3cdffceb8404bd
「中山道六十九宿」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/76748e5b5b21fe9b70584f49cef72044
「中山道六十九宿」の索引
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/b0fff7ecf75b54c3f443aa58cfa9424e
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