中高年の山旅三昧(その2)

■登山遍歴と鎌倉散策の記録■
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新緑の鎌倉:大船地区社寺史跡巡り(2)

2009年04月15日 08時43分38秒 | 鎌倉あれこれ

                                       <龍宝寺の境内>

                 鎌倉:大船地区社寺史跡巡り(2)
                   (トドさんチームと仙人)
                 2009年4月13日(月)
(つづき)

            ※地図とプロフィールマップは前回の記事(↓)参照
      http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/40175dfe0ca199c3fea5f2684e39d36b
 

(つづき)

<岡本神社から旧参道を行く>

■岡本神社

 10時42分頃,子育地蔵堂を出発する.住宅地の閑静な道を,ほんの100メートルほど南西に歩いて,交通量の多いバス通りに出る.この道路は,大船駅前から大船観音の崖下を通って関谷に向かっている幹線道路である.栄光学園,清泉女学院の生徒を乗せたバスが通っている.
 バス通りをわたって,大船フラワーセンターの方に,数百メートル歩いたところで右折して,ごく狭い路地に入る.入口には何の目印もないので,この入口を見付けるのは大変,ついつい通り越しそうになる. 路地を100メートルほど進むと,崖に突き当たる.そこで右折して,崖下の石段を数十段登る.すると,小さな山の山頂に出る.山頂は100平方メートル程の平地になっている.そこに小さいけれども素晴らしい社殿が建っている.これが岡本神社である.10時52分に岡本神社に到着する.

                      <岡本神社の社殿>

■岡本神社の由来
 社殿の脇に岡本神社の由来を記した案内板が立っている.この案内板には次のようなことが書かれている.

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 平安時代,今から約1000年前,天慶1年(西暦938年頃)村岡城主,平良文の一門であった,角田家は,約3万坪の所領を提供し,村本神社(別称)お伊勢山神明社を,建立しました.
 その後,室町時代に入り,今から,約500年前,永正9年(西暦1512年頃),この地の侵攻して来た,玉縄城主らによって,岡本神社は,解体されました.この神社は,当時,岡本村の鎮守様でありました.
 同時に,亀田家も,岡本(玉縄)地域等で,約20万坪の所領を,玉縄城主らに,奪われました.当時,角田家は,三浦一族に属しておりました.
 この度,約500年ぶりに,岡本神社(別称)お伊勢山神明社の(下社)が,復元し,完成しました.
 下社復元にあたり,佐藤慶春氏に御尽力していただきました.
                          合掌
  天照皇大神
  産土神
                  復元建立者
                       角田 寿久
  平成十年一月吉日

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


               <美しい谷戸に建つ岡本神社>

■新緑の中の旧参道
 10時55分,岡本神社を出発する.一旦石段を降りて,龍宝寺方面に向かう尾根道に出る.尾根道は,輝くような新緑で一杯の谷戸を回り込むようにして続く.なだらかな登り坂を辿ると,やがて切通になる.切通は密林に覆われていて薄暗い.この道は,平安時代から室町時代まで,岡本神社への参道だったという.
 切通の道は,やがて小さな峠に達する.この峠を道なりに下れば,栄光学園方面に出る.私達は,峠から西側に盛り上がるように続く尾根に入る.短いけれども急な登り坂である.特に道はなく,ザレた斜面を,四つん這いになりそうな姿勢で這い上がる.この尾根は,やがてラクダの背のような山頂に達する.
  
             <岡本神社の旧参道:深い新緑の切通になっている>

■玉縄城主三代の墓
 11時07分,尾根の山頂に到着する.山頂には,玉縄城主三代の菩提を弔う墓がある.石作りの囲いの中に,大きな丸い石が三個並んでいる.その後に大きな墓柱が三本立てられている.それぞれに戒名が書かれているが,向かって一番右側の墓柱には「龍宝寺殿大応栄公大居士」と書かれている.これが玉縄城三代目城主北条氏繁の墓であろう.
 浅学の私には,余りよく分からないが,真ん中の柱には「瑞光院殿宝州宗心大居士」と書いてあるので,1503年(文亀3年),この近くに瑞光院という寺を建てた玉縄城主北条綱茂の墓のように思われる(間違っていたらご免なさいである).となると,一番左は北条氏時の墓ということになる.つまり,向かって左から,初代氏時,二代目綱茂,三代目氏繁と並んでいる.
 木々の間を抜けて,爽やかな風が吹いている.新緑に覆われた山頂は,とても気分がよい.私達は暫くの間,墓前で休憩を取る.

                  <玉縄城三代の墓>

<龍宝寺>

■龍宝寺境内に下山

 11時18分,山頂から急傾斜の斜面を下って,龍宝寺の墓地に向かって下山する.墓地の手前から,新緑が映える林の中の小径に入り込む.無数の若葉が私達の頭上を覆っている.明るい太陽が,若葉を光らせながら頭上から降り注いでいる.これが,何とも心地良い.
 林を抜けると,龍宝寺本堂の横手に出る.
 龍宝寺の山号は,陽谷山である.曹洞宗のお寺である.
 玉縄城主北条氏綱が,1503年(文亀3年)に,現在の栄光学園のある場所に瑞光院を建立したのが,龍宝寺の始まりだという(鎌倉市教育研究所,2000,pp.121-124).宗栄禅師が開山.4代目玉縄城主北条氏勝が先代氏繁の菩提を弔うために瑞光院を,ここに移転して龍宝寺と改めた.

              <心地よい新緑のトンネルを抜ける>

■龍宝寺由来
 1590年(天正18年),豊臣秀吉が小田原城を攻めたときに,氏勝は玉縄城に立て籠もって応戦した.このとき,徳川家康の命令を受けた龍宝寺住職良達などが氏勝を説得して,開城,降伏させた.その後,小田原北条氏が滅んだために,氏勝は家康の家臣になる.そして,下総富里1万石の大名となる.
 その後,龍宝寺は衰えるが,江戸時代には従前のように再建されたという.
 1887年(明治10年),貞宗寺の玉縄学校が龍宝寺に移される.これが,現在の玉縄小学校の前身だという.
 1951年(昭和26年),火災で龍宝寺の建物の大半が焼失する.そして,1960年(昭和35年)に現在の建物が再建されたという.

                 <龍宝寺本堂:1960年に再建された>

■石井家住宅
 石造りの立派な参道を歩いて山門に向かう.参道の両側には多種多様な草花が丹誠込めて植えられている.花オンチの私には,どれが何という花か全く分からないが,花好きの同行者が歓声を上げながら,蘊蓄を披露している.
 参道を暫く進むと左手に石井家住宅が見えてくる.国指定重要文化財である.以前は無料で拝見することができたが,今は敷地の入口で100円也の参観料が必要である.僅かな金額だが,何となく支払う気にならないので,遠くから眺めるだけにする.
 説明文によると,石井家は,小田原北条氏の地侍で,江戸時代には名主の家柄だったようである.この建物は江戸時代初期のものとのことである.
 石井家住宅の隣には,玉縄民俗資料館があるが,何となく入りずらいので敬遠.

                  <石井家住宅>

■玉縄幼稚園
 玉縄民俗資料館と参道を挟んで反対側には玉縄幼稚園がある.玉縄小学校の前身は,この幼稚園の敷地に建てられていたようである.
 丁度,昼時である.幼稚園の庭では,沢山の子ども達が,元気に遊んでいる.屈託なく遊んでいる子ども達を見ていると,可愛さに思わず頬が緩む.子ども達の母親が三々五々と集まってくる.そろそろ,園児が自宅へ帰る時間なのだろうか.

            <玉縄幼稚園:玉縄小学校の前身があった場所>
 
■新井白石の碑
 幼稚園脇の小径に入り込む.お花畑を抜けると,山腹の崖に突き当たる.崖下の祠の中に新井白石の碑が建っている.石碑には朱子学者室鳩巣(むろ・きゅうそう)の著書から取った碑文が掘られているというが,激しく風化しているので,全く読めない.
 新井白石は,江戸時代の朱子学者.植木,城廻を領地として支配していた(小林,1994,pp.125-126).

               <新井白石の碑:風化していて字は読めない>

                            (つづく)

 [参考文献]
鎌倉市教育研究所2000『かまくら子ども風土記(中巻)』鎌倉市教育委員会
小林伸男,1996『神奈川ぶらりいウォーキング』神奈川図書

[加除修正]
2009/4/18 転換ミス訂正

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