<七曲がりのPR>
新緑の鎌倉:大船地区社寺史跡巡り(3)
(トドさんチームと仙人)
2009年4月13日(月)(つづき)
※地図とプロフィールマップは前々回の記事(↓)参照
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/40175dfe0ca199c3fea5f2684e39d36b
(つづき)
<諏訪神社で昼食>
■再び龍宝寺の裏山へ
11時35分,龍宝寺を出発する.
龍宝寺境内の玉縄幼稚園脇の路地を辿る.新井白石の碑を見た後,龍宝寺裏山へ登る.途中,道路の脇におびただしい数の五輪塔や石碑がならんでいる.これを見ただけで,龍宝寺の歴史の深さが忍ばれる.
裏山の尾根に出てから,尾根の反対側に下る.そして,間もなく諏訪神社境内に到着する.
<五輪塔や石碑が沢山並んでいる>
■諏訪神社で昼食
11時42分,尾根道から飛び出るようにして,三方を山に囲まれた諏訪神社の境内に到着する.下山して直ぐの所に能舞台のような建物が建っている.この建物の反対側に神社の拝殿がある.鬱蒼とした木立が神社の三方を囲んでいる.
私達は諏訪神社の境内で昼食を摂ることにする.例によって主婦の皆様からは,色々な食べ物が供給される.有り難いことである.燃えるような新緑の下で食べる昼食は,どんな料理よりも美味しく感じる.食事をしながら,体中,何処にも痛い所もなく,こうして外で美味しく食事ができるのは,何よりも幸せなことだなと思い続ける.
私は大船駅前のコンビニで買い求めた冷し中華,オニギリ2個を膝元に広げる.これが私の昼食である.
諏訪神社は,玉縄城主北条綱茂が,軍神として知られる建御名方神(たけむなかたのかみ)を,玉縄城の守護神として勧請したものである.1619年(元和5年),玉縄城が廃止されたときに,ここに移された(小林,1996,p.125).当時,関谷にあった鎌倉権五郎景正を祭神とする御霊社も合祀された.
<諏訪神社>
<ささやかな昼食:でも野外だと美味しい>
■植木の長屋門
昼食を終えて,そろそろ出発しようとしていると,1人の女性が参道を登ってくる.そして私に,
「北条三代の墓のある所は,何処でしょうか・・?」
と聞いてくる.ここは,普通の観光客など滅多に来ない所である.このような辺鄙な所を,女性が1人で探索しているのには恐れ入る.
私は,先ほど私達が下ってきた道を教える.すると,この女性は,危なっかしい足裁きで,躓きながら坂道を登っていく.
昼食を終えた私達は,12時18分,諏訪神社を出発する.
参道を出て,自動車の往来が多い広い道に出る.この道を南南東に進めば,大船フラワーセンター前に出ることができる.私達は参道から左折して,ほんの少し大船フラワーセンターの方へ歩き,またすぐに右折する.ここはアパートや一軒家の住宅が建ち並ぶ植木の住宅地である.
又直ぐに右折する.最近開発された道幅の広い道に入る.左手には珍しい長屋門が残っている.
<立派な長屋門>
<玉縄城址>
■七曲り
さらに,この路を奥に進むと,右手に大きなマンションが見え出す.一見すると,建物の一部が山の中にめり込んでいるように見えるから面白い.この辺りは,数年前に,随分長い年月を掛けて工事をしていた.以前は,辺り一面に梅林が広がっていたが,今は住宅地に変わり,風景も一変した.梅が見られなくなったのは残念だが,これも時代の流れだから仕方がない.
やがて,道路は山に突き当たる.ここからは,玉縄城址に向かう細い坂道になる.玉縄城址に向かってクネクネと曲がりながら登っていくので,「七曲り」という名がついた.この坂道を登り切った所の両側は土塁になっていて,下から登ってくる敵を,ここで迎え撃つような構造になっている.ここは玉縄城の大手口に当たる.三代目城主北条氏繁の奥方は,この近くに住んでいたので,「七曲殿」と呼ばれていたらしい(小林,1996,p.125).
<七曲りを登ると両側に土塁がある>
■玉縄城址に沿って
坂を登りきると,せせこましい感じがする住宅街の中に出る.狭い道路の両側に,住宅が密集している.この道路の進行方向右手の小高い所に本丸があった.今は清泉女学院のキャンパスになっているので入ることができない.
玉縄城は,北条早雲の小田原城の支城で,1512年(永世9年),相模国三浦を支配するために築いた.その規模は,城廻(しろめぐり),植木,打越,関谷に跨っていた.横浜の長尾台,藤沢の大鋸(だいぎり),高谷,渡内にも砦があったという(小林,1996,p.125).
■玉縄城址の概要
今は清泉女学院のキャンパスになってしまった玉縄城址の写真である(鎌倉市教育研究所,2000,p.128).
(引用)鎌倉市教育研究所,2000,p.128
■玉縄城址の碑
住宅地の中の平らな道を,ほんの数分歩くと三叉路に突き当たる.左側へ曲がるとかなり急な下り坂が続く.一方,右に曲がると,ほぼ水平な道が続く.三叉路には,玉縄城址の説明文が彫ってある石碑が立っている.城趾の碑である.石碑は高い石垣の上にあるので,急な石段を十数段登らないと見学することができない.
私は,石段を登るのが面倒なので,下からカメラで見上げるだけで済ませてしまう.
<玉縄城址の碑:陣屋坂の下り口にある>
■ふわん坂
当初は,左折して坂道を下るつもりだった.この道は陣屋坂という.陣屋坂の両側には玉縄城の陣屋が並んでいた.私達は,当初,陣屋坂を下って,円光寺,二伝寺,久成寺を見学してから,ふわん坂を登り返して,玉縄城址付近に戻る予定だったが,これまで余りに道草をしすぎたことと,是非,田谷の洞窟を見学したいという強い希望があったので,残念ながら,このコースは諦めて,三叉路を右折することにする.
暫くの間は,郊外風の住宅地の中を,淡々とした足取りで,ただただ歩き続ける.途中で,ふわん坂の入口を通過する.
ふわん坂の入口には,何の標識もないので,地図を良く見ていないと,ついつい見落としてしまう.
ふわん坂という地名の由来は明らかではないようだが,多分,不安坂が鈍ったのだろうという説がある(小林,1996.p.125).この坂を通って,玉縄城を攻め落とすことは困難である.一方,守るのには好都合だったろう.今回は残念ながら通らなかったが,ふわん坂の入口には「左従是鎌倉道」と刻まれた石の道標がある.これは円光寺手前の四辻から移されたもので,3基の内2基がここに,残りの1基は龍宝寺境内に移された.今日,龍宝寺を訪れたときに,この1基を見るはずだったが,うっかり忘れてしまった.
(引用) 鎌倉市教育研究所,2000,p.133.
<関谷地蔵堂から小雀浄水場へ>
■関谷地蔵堂
如何にも田舎風の道が淡々と続く.歩き続けると,何となく蒸し暑く感じてくる.同じような所を,歩いていると,大分,飽きてくる.私は,これまで,何回もこのコースを通っているが,この辺りが一番飽きてくる所である.
やがて,前方に,自動車が頻りに往来する道路が見えてくる.私は,心の中で「やれやれ・・やっとここまで来たか」と,ホッとする.
広い自動車道路に出る.平素,全くと言って良いほど,自動車に乗らない私には,自動車道路の名前は分からないが,笠間十字路から藤沢へ向かう自動車道路である.私達は,この自動車道路とT字形に突き当たる.ここを左折する.
12時56分,T字型の三叉路から,ほんの少々歩いた所の路肩にある関谷地蔵堂に到着する.小振りだが立派な地蔵堂である.創建年代は不明だが江戸時代前期に建立されたらしい(小林,1996,p.130).かつては鎌倉街道に近い関谷村の辻にあり,貞宗寺の所有だったらしい.堂内には漆塗り金箔地蔵菩薩立像(木像)が白木の厨子に納められ,左右に石造りの地蔵菩薩像と弘法大師像が安置されているという.
関谷地蔵堂脇に「相模国・準四国・八十八所内・十八番札阿波国,恩山寺,地・関谷打越中,薬師如来」と刻まれている.
資料(小林,1996,p.130)によると,「『準四国八十八ヶ所』は,文政年間(1818~1829年),鵠沼堀川の浅場太郎左右エ門が鵠沼普門寺の住職と相談,四国八十八ヶ所へ僧を派遣し,持ち帰らせた砂土を相模川以東の堂宇や寺院八十八所に埋め,八十八体の大師像を安置した.関谷地蔵堂は,その十八番目に当たる」という.
<関谷地蔵堂>
■がっくり橋跡
広い自動車道路を反対側に渡る.そして,自動車道路に沿って,笠間十字路の方へ向かって,200メートルほど進む.なだらかな下り坂になっている.辺りは緑一杯の郊外だが,大きな敷地の農家やお店が結構並んでいる.やがて,関谷から城廻に抜ける大きな道と立体交差になる.この立体交差のガード下付近に「がっくり橋(あるいは,がっかり橋)」があった.
玉縄城が豊臣勢に包囲され,龍宝寺の住職の説得で,北条勢は城を明け渡した.北条勢はあまりに力を落としたので,この橋を渡ることもできないほどだったという(鎌倉市教育研究所,2000,p.145).
<竹林の中を登る>
■小雀浄水場に到着
立体交差の自動車道路下を潜って,谷戸沿いの農道を北に向かって歩く.進行方向左側は自動車道,右側には数軒の農家が並ぶ.やがて舗装が途絶えて,轍が残る土の道になる.そして住宅が途絶えて,農地が広がるようになる.辺りには誰も居ない.進むにつれて道幅が段々と狭くなる.
私は,この辺りに,何回も来ているが,今回は2年ぶりぐらいである.細かい記憶は忘れているので,途中で少々戸惑うが,とにかく,前へ前へと歩き続ける.
やがて,小さな沼地に到着する.ここで,以前,ここを訪れたことを思い出す.
道は大きく右にカーブして,急な上り勾配になる.そして広い竹林の中に入り込む.ほんの数分,竹林の中の小径を登り詰めると,一寸した広場に到着する.目の前に広い敷地の横浜市水道局小雀浄水場が見えている.ここで休憩を取ることにする.
(つづく)
[参考文献]
鎌倉市教育研究所2000『かまくら子ども風土記(中巻)』鎌倉市教育委員会
小林伸男,1996『神奈川ぶらりいウォーキング』神奈川図書
[加除修正]
2009/4/19 転換ミス訂正
「鎌倉あれこれ」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/e6aa12c727d71f9bc209898ed95867ef
「鎌倉あれこれ」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/3970188c08d3ec9744f9dc6be43addca
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