中高年の山旅三昧(その2)

■登山遍歴と鎌倉散策の記録■
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歩いて巡る中山道六十九宿(第13回):第3日目(1);美江寺宿

2012年07月17日 02時09分43秒 | 中山道六十九宿

                    <美江寺宿から揖斐川を目指して

 歩いて巡る中山道六十九宿(第13回):第3日目(1);美江寺宿
              (五十三次洛遊会)
          2012年6月22日(金)~24日(日)

2012年6月24日(日)


<第3日目の行程全体図>

 第3日目の行程は,美江寺から垂井までの水平距離15.5キロメートル.
 途中美江寺宿(55),赤坂宿(56),および垂井宿(57)を見物する予定である.
 全行程に殆ど登り下りはなく,累積登攀高度44メートル,累積下降高度25メートルに過ぎない.
 いよいよ.双六で言えば「上がり」の京都三条大橋も,いよいよ射程距離に入った感じである.



■美江寺の地図


<第3日目の出発点へ>

■素晴らしい朝焼け
 何時ものように,4時頃起床する.
 室内は冷房が利いていて,何となく気分が良くない.平素,冷房など使わないから,冷房に馴れていない.昨夜の内に冷房をオフにしておけば良かったが,冷房が入っていることに気がついていなかった.もう遅いが室内を見回して冷房のスイッチをオフにする.するとどこからともなく聞こえていた連続ノイズがぱたりと聞こえなくなる.室内は,やけに静かになる.
 朝食まで時間があるが,特段やることもない.退屈紛れに窓のカーテンを開けると,東の空が紅色に染まり始めている.見事な朝焼けである.
 「朝焼けが綺麗な日は,天気が下り坂」と聞いたような,聞いていないような・・・まあ,良く分からないが,折角だから,今日一日も天気が持って欲しいなと思う.
 退屈しのぎにテレビを見る.NHKだろうか,何か法話を放送している.「声々掛応」というのが今日のテーマのようである.聞き応えのある立派なお話しで感銘を受ける.


<ホテルの部屋から朝焼けを望む>

■ホテルロビーで朝食
 6時30分からホテルロビーで朝食である.
 6時10分,私は少し早めにロビーに下りる.そして,ロビーにあるパソコンを使って,自分のホームページ,メールにアクセスして,何か変わったことがないかをチェックする.共用のパソコンから自分のページにアクセスするのも結構七面倒くさい.そろそろアンドロイドを使わないとダメかなと,また,また,迷い出す.まあ,私が使い出すもの時間の問題だとは思うが・・・

 6時30分から朝食.
 ここはバイキング形式ではなく,写真のようにオーソドックスな朝食である.
 食い意地の張った私は,バイキング形式だと,ついつい食べ過ぎる傾向があるので,このようなお仕着せ型の食事の方が気が休まる.大いに結構と,心の中で同感しながら,美味しく戴く.
 朝食を終えて,7時頃,一旦,自室に戻る.

<ベストイン大垣の朝食>

■樽見鉄道で美江寺へ
 7時42分,ホテルを出発して大垣駅へ向かう.
 JRのホームの先っぽに,付け足したような樽見鉄道のホームがある.ホームに停車中の列車に乗車する.レールバスなので1両編成.昨日乗車した車両と違って,立派なボックス席が並んでいる.素晴らしい車両である.
 私たちが乗車した列車は,定刻,8時12分に大垣駅を発車する.

<樽見鉄道の車内>

■美江寺駅に到着
 列車は,ガーガーゴーゴーと少々うるさい音を出すが,電車ではないので,やむを得ない.
 列車は定刻8時18分に美江寺駅に到着する.レールバスに乗車するのは,昨日に続いて2回目.今度はレールバスの乗り方も分かったので,なんの戸惑いもなく,運転手に切符を渡して,前方の乗降口から下車する.

<美江寺駅に到着>

<美江寺宿>

■美江寺宿の概要
 美江寺宿は江戸日本橋から55番目の宿場である.現在の岐阜県瑞穂市美江寺.美濃国本巣郡.
 資料3(p.296)によれば宿内人口582人.内,男302人,女,280人.宿内惣家数136軒.内,本陣1軒,旅籠11軒.
 資料1(p.144)によると,ここには美江寺という大寺院があったので宿名になったが,この寺は岐阜に移転され,地名だけが残ったという,この辺りは濃尾地震の震源地に最も近かったために,集落は1軒を残してすべて全壊したようである.

■美江寺宿案内板
 8時20分,私たちは美江寺駅から,昨日の続きを歩き出す.
 駅の近くに「美江寺宿名所・遺跡跡」という案内板が立っている.大いに参考になる.
 案内板の説明によると,美江寺には,1589年(天正17年),豊臣秀吉の下知によって,問屋場が設けられ,往還の荷物中継ぎ業務に当たっていたが,江戸時代になって,中山道が整備されると,近世宿場制による駅伝業務を担当する宿場となったようである. 
 1637年(寛永14年)4月,伝馬役家と歩行役家各々25軒を定めて,問屋の支配下に置き,交通業務に当たったのが美江寺宿の公式開設である.本陣は1669年(寛文9年),加納藩戸田丹波守光永によって建設され,問屋山本金兵衛が管理した.以後,山本家が世襲した(以上案内板の要約).

<美江寺宿案内板>


<三重寺宿古地図;三重寺宿案内板より>

■瑞光寺
 地図を見ると,この近くに瑞光寺という寺があるようだ.
 今回は,この寺が街道から離れているので,時間の都合もあってパスする.
 資料6には,瑞光寺について次のような説明がある.「美江寺宿の本陣兼問屋だった山本家の山本友左坊の菩提寺.1843年(天保14年),本陣当主「友左坊」が近所の俳人数人と芭蕉の句碑”旅人と我名呼べる初時雨”をたてて以来,多くの句碑が建てられた」と紹介している.

■美江寺一里塚跡と自然居士之墓
 8時35分,美江寺一里塚跡に到着する.ここには全く遺構はないが,進行方向右手に「美江寺一里塚跡」と刻字した立派な案内杭が立っている.江戸日本橋から108番目の一里塚である.
 道路を挟んで,一里塚跡の反対側には美江寺城趾があるようだが,今は小学校になっている.道路に面して「自然居士之墓」と書いた立派な案内杭が立っている.資料6によると,自然居士は
和泉国(大坂府)生まれの鎌倉後期の禅僧で美江寺に滞在し、千躰仏を作り、この地で没した」人物のようである
 
<美江寺一里塚跡>                 <自然居士之墓>

■高札場跡
 8時39分,高札場跡に到着する.残念ながら,ここには遺構らしい物はなく,案内板が立っているだけである.この案内板によれば美江神社の境内に復元した高札場があるという.

<高札場跡>

■美江神社
 8時38分,美江神社に到着する.ここで,中山道は直角に左折して南へ向かう.
 資料3(p.297)によれば,この境内に秋葉神社があるらしい.その後ろに小さな観音堂が,宿の名の起こりになった美江廃寺旧地にあたる.
 資料1(p.160)によると,斎藤道三が城下町繁栄のために,この寺を稲葉山城下(岐阜)に移したとのことである.



<美江神社>


■高札場
 美江神社前の曲がり角に,復元された高札場がある.


<高札場>

■美江寺宿の石碑
 復元高札場のすぐ近くに「中山道美江寺宿跡」と刻字された大きな石碑が立っている.傍らに岐阜県知事の名前が彫ってある.

<美江寺の石碑>

■山本本陣跡
 8時44分,山本本陣跡に到着.美江神社から150メートルほど南に位置している.
 資料1(p.160)に「英国人クロウの紀行文に明治初期の本陣の様子が記述されている」と解説されているが,肝心のクロウがどのような人物だったかは,手許の資料では分からない.さらにインターネットで「クロウ」を調べてみたが,“ピン”と来る記事は今のところ見当たらない.


<山本本陣跡>

■開蒙学校跡

 8時44分,開蒙学校跡に到着する.立派な石柱を見て,「開蒙学校って何?」と気になり始める.
 帰宅後,インターネットで調べるが,どうもハッキリしない.ただ,資料7に,「
1879年(明治12年). 月盛学校と開蒙学校が合併し、船木学校になる。なお、当時は船来学校とも呼んでいたという。 」という記事があるだけである.要するに,史跡としてどのような価値があるのか良く分からない.

<開蒙学校跡>

■墨俣道分岐
 8時46分,大垣へ向かう墨俣道との分岐に立つ道標の前を通過する.私たちは,ここで直角に右折して,犀川の支流に架かる新月橋を渡る.

<墨俣道分岐の道標>

<揖斐川を目指して>

■美江寺千手観世音堂と千躰寺
 新月橋を渡って,美江寺宿の外に出る.
 8時48分,千手観世音堂に到着する.
 近くの三叉路の突き当たりが千躰寺である.千躰寺前に案内板が立っている.この案内板によると,千躰寺は浄土宗西山派.養老郡にある円満寺の末寺である.
 千躰寺には高さ12~23センチメートルの阿弥陀如来立像1000体が8段に並べて祀られている.これらは自然居士の作である.

<千手観世音堂>


<千躰寺と千躰佛>

■神明神社
 8時54分,神明神社に到着する.傍らの案内板の説明によると,祭神は天照大神.脇社は秋葉神社(火の守り神)と猿田彦神社(土地の守り神)である.村の守り神である.


<神明神社>

                                    (つづく)
[参考資料]


資料1;岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料2;ウエスト・パブリッシング(編),2008,『中山道を歩く旅』山と渓谷社
資料3;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料4;五街道ウォーク事務局,発行年不詳,『ちゃんと歩ける中山道六十七次』五街道ウォーク事務局
資料5;「岐阜県十七宿散策ガイド」日本歴史街道美濃中山道連合・岐阜県
資料6;http://mori70nakasendo2.dousetsu.com/23mino121.htm
資料7;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%91%9E%E7%A9%82%E5%B8%82%E7%AB%8B%E4%B8%AD%E5%B0%8F%E5%AD%A6%E6%A0%A1

「中山道六十九宿」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/d1f135ddc962137cc86afa8c150cee3c
「中山道六十九宿」の次回の記事

http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/fa0e64136f6cd3e007e8e30536679140

※この記事は白内障の手術前に書き置きしたものです.
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