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風雅庵の日々

園芸、屋上、近所の散策を中心に記録します

極楽寺

2011-10-01 14:51:59 | 鎌倉33観音
成就院から極楽寺の方へ歩きますと、
左手の路地の奥に上杉憲方の墓がありました。
七層の石塔が墓と言いますが、明月院にもお墓があるようです


桜橋を渡って右手の地蔵堂、導き地蔵さん。
このお地蔵様の睨みが効く範囲では悪いことはできない感じです



第22番 霊鷲山・感応院・極楽律寺(真言律宗)【如意輪観音】
写真もスケッチも一切禁止とありましたが、
仏像以外なら撮っても良いと許可をいただきましたので
周りの目を気にしながら少しだけ撮らせていただきました


本堂には北条氏の家紋がついてます。
開基は北条重時、極楽寺殿と称され、極楽寺流の祖となった人です。
開山は良観房・忍性菩薩、叡尊の弟子で真言律宗の最盛期を作りました。

ところで極楽寺は、最初は念仏系のお寺だったようです。
元のお寺の場所は不詳ですが、藤沢の遊行寺が極楽寺の
廃寺跡地にできた(1325年)とか、院号が同じ感応院というお寺が
大鋸にあったりするので、藤沢という噂もあるようです。

1255年(建長7)には、年号入の仏具に「極楽律寺」とあり、既に律宗化?
1259年(正元元)、このころ極楽寺は深沢(大仏のある所?)
にあったと言いますが、忍性の推薦で現在地に移転します
1261年(弘長元)には重時が死去、その子の長時、業時が極楽寺を整備
1262年(弘長二)、叡尊が来鎌、多くの念仏衆が真言律宗に改宗
1267年(文永4)には忍性が極楽寺に入山、極楽寺の黄金期です


製薬鉢と千服茶臼
律宗は戒律(釈迦の定めたという規範)を重視する教団です。
戒律護持がバリアとなると信じ、穢れに触れることを恐れず、
貧者や病者に対する施しや救済活動ができました


極楽寺境内絵図より、
かつては7堂伽藍に49の支院を持つ壮大な寺院だったといいます。

忍性は慈善救済事業と戒律護持などにより、鎌倉幕府の支持を受け、
道路や橋などの土木事業、漁業権の管理、港湾(和賀江島)の管理、
葬式、への施し、などの利権を一手に得ました。
幕府や院からの依頼で、異国調伏や祈雨を祈願したりもしています。


山門前を掘り起こしたときに発見されたという極楽寺の井


太師堂
札所本尊の如意輪観音さまを拝めました。
小さいながら、金色の像でした。細部は見えず、
ネットを探しても見つからずでした。


文殊菩薩、忍性さんは文殊信仰があったようです。
文殊の生まれ変わりと言われる行基を信仰し、後継者として活動しました。

また、聖徳太子が四天王寺に四箇院(敬田院、施薬院、療病院、悲田院)を
作ったのに深く感銘、聖徳太子信仰もあったとのこと


清涼寺式の木造釈迦如来立像、生前の釈迦の姿です


転法輪印をむすぶ釈迦如来坐像
釈迦が説法したときの印相、
釈迦への回帰をめざした真言律宗のシンボルです

花祭りの4月7~9日には本尊や忍性塔が公開されます。
本物を見てみたいものです

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