最後の観光地中尊寺、ガイドさんについて歩く観光コースの境内はとても広く、特に帰りの下り坂はえんえんと?続き、もうガイドさんの説明もないので休む暇もなく、途中からは、右手に杖、左側にfujipa の腕を持って歩きました。
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見あぐれば彼方に見ゆるヤマモミジ
ぶら下がってるつもりはないのですが、こんなに楽になるということは、その重みが、腕を通して左側に流れていると言うことでしょうね~^^。
撮ったビデオにチラチラ写りこんでいる自分を見ると、10年前のタイ旅行のときに比べて、かなり足が悪くなってる様子にびっくりします。 あんなに悪くなってるんだー!(まるで他人ごと^^)
股関節症の足は、使えばだんだん悪くなります。 使わないで寝ていれば悪くなりません。 さぁ、どっちを選びますか。
私はいつも二者択一、アッチかコッチか、自分がいいと思う方を選んで進みます。 それだと、あとで「しまったー!」と思うようなことがあっても、いいと思ったコッチの方でこれだから、アッチの方だったら、もっとよくないことになってたに違いない、、と、思い切りよく思えるからです。 だから私の通った道は最善のはずだし、、そう、うぬぼれも強いのですよ~^^。
「・・・皆金色の阿弥陀堂は、荘厳(しょうごん)の限りが尽くされ、まさに極楽浄土を現世にあらわしています。・・・」とパンフレットにあるように、金色堂阿弥陀堂は、阿弥陀如来、観音菩薩をはじめ最前列の仏界を守護する四天王、柱、長押までキンピカ。
これを「極楽浄土とはこんなにキンピカなんだ」と思ってしまうと、ちょっと違和感がありますよね。 単に金色のキラキラ世界が最上のものといってるのではなく、たぶん、言葉では言い尽くせない空間世界を、敬意をもって、この世の最上のもので現そうとした、ということなんでしょう。 (わざわざ、あらためて言うほどのことではないんですけど、、、、 )
紺紙に丁寧に、金字と銀字と1行ずつ交互に書かれた写経にも、その時代の方々の思いを見るようでした。 中尊寺は「写経の寺」で、「法華経一日頓写経会」が行われているようですが、これは、二代基衡公の善行に倣ったものだそうです。
中尊寺のパンフレットです
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見あぐれば彼方に見ゆるヤマモミジ
そぞろ歩きならまだある程度いけるのですが、トットトットと歩くのは、下り坂だとしてもかなり堪えます。 左側にちょっと腕を貸してもらって、両方に杖、支えがあるとこんなに楽になるのかーと知りましたよ。 (私は左の足が悪いので、杖は右手に持ちます。 杖一本のときに、左手に持ったのでは、杖になりません。) | (カーソルを写真の上におくと、写真が変わります。) < |
撮ったビデオにチラチラ写りこんでいる自分を見ると、10年前のタイ旅行のときに比べて、かなり足が悪くなってる様子にびっくりします。 あんなに悪くなってるんだー!(まるで他人ごと^^)
股関節症の足は、使えばだんだん悪くなります。 使わないで寝ていれば悪くなりません。 さぁ、どっちを選びますか。
私はいつも二者択一、アッチかコッチか、自分がいいと思う方を選んで進みます。 それだと、あとで「しまったー!」と思うようなことがあっても、いいと思ったコッチの方でこれだから、アッチの方だったら、もっとよくないことになってたに違いない、、と、思い切りよく思えるからです。 だから私の通った道は最善のはずだし、、そう、うぬぼれも強いのですよ~^^。
「・・・皆金色の阿弥陀堂は、荘厳(しょうごん)の限りが尽くされ、まさに極楽浄土を現世にあらわしています。・・・」とパンフレットにあるように、金色堂阿弥陀堂は、阿弥陀如来、観音菩薩をはじめ最前列の仏界を守護する四天王、柱、長押までキンピカ。
これを「極楽浄土とはこんなにキンピカなんだ」と思ってしまうと、ちょっと違和感がありますよね。 単に金色のキラキラ世界が最上のものといってるのではなく、たぶん、言葉では言い尽くせない空間世界を、敬意をもって、この世の最上のもので現そうとした、ということなんでしょう。 (わざわざ、あらためて言うほどのことではないんですけど、、、、 )
紺紙に丁寧に、金字と銀字と1行ずつ交互に書かれた写経にも、その時代の方々の思いを見るようでした。 中尊寺は「写経の寺」で、「法華経一日頓写経会」が行われているようですが、これは、二代基衡公の善行に倣ったものだそうです。
ちょっとちょっと 見あぐれば彼方に見ゆるヤマモミジって、 もしもし、「見ゆる」は要らないんでないの? 「見あぐれば」見ゆるに決まってんだからさ。 じゃあ、吹く風見ゆる、、見えず、、見上ぐれど吹く風見えじヤマモミジ、、そんなことを凡人が言ってもわざとらしいでしょうに。 だいたいナンに興を感じたか、感銘したかですよ。 おおすごいな~と、、見上げる振りしてちょっと立ち止まって休んだんですよ。 土手から斜めに生えてんですよ~。 それがずーっとしばらく目で追わないと届かないくらい上の方で、すごい大きさに拡がってるんですよ~。 おーっ、と見上げるだけですよ。 ここにきて見上げるのみのヤマモミジ? ヤマモミジ見上げる振りの一休み? 中尊寺下りて見上ぐる山もみじ?、下り来て見上ぐる先の山もみじ?、 フフフ子規さんでさえあれだけ、違うような似たような句を、柿を食べてお腹が痛くなったまで、いろいろ作ってみてルンですよ。 ましてワタシラおやですよ、フフフ、、、 う~んここってどこ? 中尊寺、下り坂、ホントは上り坂かもしれん。 緑の天井が出来てるんですよ。 空に透けて、緑の濃淡に引き込まれそうですよ。 いつからここで下界を見下ろしてきたんだろう。 なんでも見てきたけど、何にも動じませんって感じですよ。 春になれば芽を吹き、秋になればみんなが見上げてみるけど、ひょっとしたら私の気持はそこにはないかもよ。 もっともっと高くと、まだまだ上を向いてるかもしれないよ、、、 こりゃあダメだわ、、、写真だって、黒い瓦に真っ赤なもみじのアップとか、古~い木戸の向こうに枝振りのいいモミジが見えるとかサァ、鐘楼だって、格子のアップとかぁ、写せなかったのー? 写せま・せ・ん・、立ち止まらないんですっ。 ツアーなんですからっ。 そんナン写したかったら、個人旅行で、行って頂戴。 ふふん、個人で行っても結局同じくせに、、、フフフ |
fu姉、その通りだよ。fu姉がこっちにしようと決めた事が正解なんだよ。
みんなの期待を背に紅葉狩りして、命の洗濯しながらみんなの期待にも御つりが来るほど十分応えてfu姉長女の鑑だよ。ここでは、長女降りたかった? 末っ子の甘えんぼさんになりたかった?
それは、fujipaにあまえてね。
この世のものではない空間のfujimさんの説明がぴったりだね。金が、(私は、自然の方が美しいと思うよ。金やダイヤモンドって興味ないもん)
金が、庶民の手の届かない高価なものだから、それで飾り尽くすことは、絶対見ることの出来ない極楽浄土の見本を見せることと権力の力を見せつけることの二つの意味があるよね。
そこでは、高い精神性と現実の支配者の威風堂々を両方を見せつけている。この事が、支配階級の存在を安定化させると同時に庶民から服従という諦観をひきだしている。後者が北の国の人の律儀さや、『涙の遺書』、あそこにも『幸七とっあんのいうことなら』があったね。リーダーに従う気質に繋がっているんだと思う。
で、fujimさん、又、頼むよ。
fujimさんが行きたい、したいことをみんなブログで見せてよ。写真も記事も素敵だよ。
あっとと、忘れるとこだった。
Somchanが忙しくて皆さんのとこ回り切れないから、代表で私のとこにタイの伝統行事の舟のビデオと写真をコメに書いてくれました。
「皆さんに」って、照れまんや離心円さんも是非見てあげてください。
最近の秋のツァーは豪華なんですねーえ!
いやいや素晴らしい東北の旅!ねぶたの里、奥入瀬渓流、白神山地等、さらに中尊寺のフォトは宝物などはなくとも自然のフォトの数々圧巻でした!
流石、サスガ!芭蕉もクサャミしそうな紅葉吟行!いずれにしても浄土ならぬ”浮世の世界遺産”の旅数々、とくと拝見しました。お疲れ様でした。
素晴らしい沢山のフォトは、KENの好奇心を少しくすぐられましたかな?
もみじ葉を 透かして見れば・・・・・?
ええ、ええ、私は甘えられないんですよ、下手なんですよ。
女性は可愛くなくッチャって言うでしょ。なのに可愛くないんですよ。 もっと甘え上手なら、人生変わってたかも、、^^。
金色堂を紹介するのに、「まさに極楽浄土を現世にあらわしています。」なんて書くのはイヤだなと思ったんですよ。
ともすればこのキンピカが最高の状態なんですと言ってるように聞こえます。 極楽浄土って案外無色かもしれないし、無色でもそこにはとても安らかな空気が満たされ(空気もない?^^)、空気はなくても厳としてあるもの、包まれているものがあり、それはあたかもきらきら輝いているように見えるということだろうと思いました。
でもそしたら、それをこの世で現わして見せるにはどうすればいいかと考えたときに、うーん、やっぱりこういうことになるのかなぁ、、、^^他にいい案が浮かばない。
金じゃけばけばしいから、白っぽい銀にするか、、と変えたとしてもそんなに受ける感じは変わらないでしょうしね。
それに、Pu'uwaiさん言うように権力を見せ付ける意味もあったでしょうから。 見学する受け手が間違えないように受け取らなければと言うことですよね。
見てくださってありがとうございます。
今回はチャーター便でしたので、羽田で乗り換えということがなくて、直通だったので、観光時間が多くとれたと思います。
芭蕉もクサャミをしたでしょうかねぇ、、^^
浮世の世界遺産をみて歩いたんですが、石見銀山が登録されて、そちら行きのツアーがどっと増えたそうですね。
山陰地方も多少変わってくるんでしょうか。 あまり悪い方には変わって欲しくないです。
写真も、光と影を透かしてみたり、うまく取り入れればいい写真になるんでしょうけど、なかなか、、、です。
「見あぐれば彼方に見ゆるヤマモミジ」
いい句ですねー、また腕を上げましたねー。
コラコラ、両手を挙げて、ぶら下がり健康器にぶらさがって、何してまんの?意味がちがうでしょー。
見あぐれば、でいいと思いますよ。深い山とか山峡の地とか谷あいとかの感じが出ていて、これは抜群ですよ。山が迫っている感じとか、峡谷の感じは読み手がそれぞれ自分のイメージする映像を思い浮かべて読んでくれるのではないでしょうか。これこれ、これですよ。作った感じでなくて、自然に出来てますよね。自分で圧倒されるような感動が、そのまま句になっていますよ。これは珍しく・・・、いやっ、これは失敬、いい句ですよ。本当にいい句です。
Fujim さんに座布団一枚!
この次は、きっとFujipa がおぶってくれると思います。
「たはむれに妻を背負ひてそのあまり重きに転げ三つ骨折る」
Fujipa がんばってくださいよ。体を鍛える??ぶら下がり健康器で懸垂ですよー。
さて、金色の極楽浄土。 キンピカと思うと変なのですが、コンジキと思うと何とな~くありがたい感じがします。 「天のいと高きところ」をイメージする時、まぶしく太陽の光のようにきらきらと照り映える何かが、目に浮かびます。
ちょっと心配していましたよ~、大丈夫ですか、無理していませんか。
こんな素直なだけが取得の句を、丁寧に読んでくださってありがとうございます。
時々手をとってもらって歩いてるのをハタからみると、たぶん特別な感じに見えるんでしょうけど、ウチでは既に、ごく普通の感じになっています。
娘が一緒のときは娘がスッと横に来ます。
ちょっとした崖を登るとき、上にいる人が、自然にちょっと手を差し出すでしょ。 それと一緒ですよー^^。
ハイハイ、おおいばりで腕を借りています。^^
fujipa 一人ではなかなか旅行も行こうとしませんし、二人で行ける間は、行って楽しみましょう、と、そんな気分になれる年になったと言うことですね。
こ~んなキンピカと、思ってしまうからいけないんですね~。^^
どうやら私の出番のようなので、ちょっとお邪魔します。
阿弥陀堂っていいですね。この阿弥陀堂っていったい
何なのか、ですよね。そこで、ちょっと説明してみます。
人間と言うのは頭がいいんです。誰でも自分が一番頭が言いと思っています。ところが。その頭を悪い方にばかりに使ってしまうんです。
賞味期限の改ざんや、牛肉にうさぎの肉を混ぜたり、中国産を日本産にしてみたり、秘書給与をネコババしたり、事務所費を誤魔化したり、接待を受けたり。そのほか、パチンコがしたくて子供を車の中で死なせたり、、親が厳しいので家に火を点けてみたり、子が夜中に泣くので殺したり、イジメを繰り帰し相手が自殺するまで追い込んだり、強盗に入ったり、万引きしたり、気に入らんと言うだけで人を殺したり、強盗に入って人を殺したり、などなど、毎日殺人事件のニュースが絶えませんよね。世の中は悪人だらけ、いい人間なんて一人もいないのです。こういう人間はみんな地獄へ落ちるしかないのです。
私はまともだ、何も悪いことをしていない、と言う人でも人を妬んだり、悪口言ったり、誹ったり、スピード違反や駐車違反や、喫茶店の灰皿を持ち帰ったり、などは誰でもしているのです。
「えっ、喫茶店の灰皿は持ち帰ったことが無い?」これは喩えですーっ。
今生きている人はみんな地獄へ落ちるしかないのです。でも、悪い心も持っているが、半分はいい心を持っている人もいるのです。そういう人まで地獄に落ちるのではちと可哀想。そこで、お釈迦様がお呼びになるのです。
「阿弥陀さん、あんたの出番でっせー、ちょっと来とくなはれー。」
「はいはい、阿弥陀だす。ワテにまかしとくなはれー。」と言うわけです。
阿弥陀如来というのはちょっと変わった如来さんで、自分の名前を呼べば、誰でも極楽浄土に往生させてあげますよー、と言うありがたい如来さん。でも、そんなことをしたら、極楽浄土が悪人ばかりになってしまいますよね。
でも大丈夫。阿弥陀如来さんの他に、菩薩さんや弟子がいますので、その人たちの正しい指導の下に修行をし、悟りを開いて仏になれるわけです。だから、極楽浄土で仏になるのです。南無阿弥陀仏の念仏はそういう意味があるのです。したがって、他のお題目とはちょっと性格が違います。
阿弥陀如来の持つ世界、極楽浄土と言っても一般の人にはどの様な世界か解りませんよね。みんな、自分勝手な自分に都合のいい世界を思い浮かべてしまいます。
そこで、平安時代に阿弥陀堂というのが作られ始め、其処に極楽浄土の世界が再現されるようになって来ました。それまでは、阿弥陀如来の世界は注目されませんでしたが、平安時代後期頃から徐々に浸透し始め、鎌倉時代に爆発的に信仰が増えることになります。
それまでの寺院は、国家や権力者が自分の力を誇示する為、僧侶だけが修行する為だけのものでした。それが浄土信仰が広まるにつけ、民衆が自分達の手でお寺を建て、自分達の信仰の場にしていきます。それで浄土信仰のお寺は町の中にあるものが多いいのです。元々お寺は修行の場ですから、辺鄙な所や山の中に作られることが多かったのです。
浄土教思想も、元々は比叡山の天台宗の中から起きてきたもので、鎌倉時代以降に独立したものが多いのです。中尊寺も元々は天台宗ではなかったかと思います。その後、藤原氏が滅んだり、権力者が変わったりで、一時は荒れ果てた時もあったようです。おそらく、芭蕉が訪ねた時もかなり荒れ果てていたのではないでしょうか。今は素晴しく復興されてますよね。
あの煌びやかな極楽浄土の世界を目の当たりにしますと、みんな悪いことが出来なくなりますよね。こんな世界に行きたい。人の物を盗もうとしても、阿弥陀様の顔が浮かび、やっぱり極楽に行きたいから止めとこうということになります。そういう抑止力にもなるわけです。
極楽浄土の世界を再現しているもので、平安時代の人が考えた最高のものが、宇治の平等院鳳凰堂です。あれが現存している平安時代の阿弥陀堂です。京都の藤原貴族が建てた建物です。
あのー、まだまだ続きがあるんですがー。
えーっ、まだあるの??
あまり長くなるので、きょうの所はひとまずこれで・・・・。
「二休さん」はーい。ちょっときゅうけいしまーす。
今日はちょっと時間がないから、うちのはやまはぜ、fujimさんとこはきっとかいの木だと思う。あのHPにかいの木で載っているから見てね。
照れまんさん
阿弥陀さんの続きは、照れまんさんのブログ記事で読みたいな。そっちの方が慣れているから書き易いのでは、、、、。