最近地震が多いですね。日本はいつどこで大地震が発生してもおかしくないというのはご存じですね。
日本では歴史上大地震が何度も起きています。
【地震】『マグニチュード9.3!?』南海トラフ地震よりも恐ろしい地震【気をつけよう!】
日本の地震年表 M8以上 M7以下は省略
869年 7月9日(7月13日)(貞観11年5月26日夜) 貞観地震 - M8.3 - 8.6(Mw >8.7)、陸奥国地大震動、地震に伴う津波(貞観津波)の被害が甚大で死者約1,000人(『日本三代実録』)。多賀城損壊。津波堆積物調査から震源域が岩手県沖〜福島県沖、または茨城県沖の連動型超巨大地震の可能性も指摘される。東北地方太平洋側で繰り返し発生していると推定されるM9クラスの地震の候補とされる
887年 8月22日(8月26日)(仁和3年7月30日) 仁和地震(南海トラフ全域が震源域とする説あり) - M8 - 8.5、五畿七道諸国大震、京都・摂津を中心に死者多数。津波あり(『日本三代実録』)。南海道沖の地震の記録だが地質調査によればほぼ同時期に東海道沖も震源域となった可能性あり。津波堆積物からM9クラスであったとする説もある(津波堆積物は仁和地震と特定はされていない)。石橋克彦は、この地震によって八ヶ岳が山体崩壊を起こし、形成された堰止湖が888年6月20日(仁和4年5月8日)に決壊したとの仮説を唱えた
1096年12月11日(12月17日)(嘉保3年11月24日) 永長地震(嘉保地震、東海道沖の地震または南海トラフ全域) - M8 - 8.5、死者1万人以上と推定。東大寺の鐘が落下、伊勢・駿河で津波による大きな被害など。1099年康和地震が南海道沖の地震でないなら本地震が南海道沖の地震も含むものであった可能性がある
1293年5月20日(5月27日)(正応6年4月13日) 鎌倉大地震(永仁鎌倉地震) - M8クラスの相模トラフ巨大地震との説がある。建長寺などで火災発生、死者2万3,000人あまり、余震多発。
- 1360年11月13・14日(11月21・22日)(正平15年、延文5年10月4日・5日) 紀伊・摂津地震(東南海地震?) ※ - M7.5 - 8.0、死者多数。津波あり。記録は疑わしく地震の存在は疑問視される]。
- 1361年7月26日(8月3日)(正平16年、康安元年6月24日) 正平・康安地震(南海トラフの地震、震源域諸説あり) - M8 1⁄4 - 8.5、死者多数。摂津・阿波・土佐で津波により大きな被害。
- 1408年1月12日(1月21日)(応永14年12月14日) 応永地震 - M7 - 8。紀伊・伊勢で地震。熊野本宮の温泉湧1454年
12月12日(12月21日)(享徳3年11月23日夜半)享徳地震 - Mw >8.4会津で強震、奥州海岸に大津波で人が多く流される(『王代記』)。15世紀ごろと見られる津波堆積物との関連性が指摘されている出が、80日間止まる - 1495年9月3日(9月12日)(明応4年8月15日) - 鎌倉大仏殿が津波で破壊されたと記録されている(『鎌倉大日記』)。この記録が明応7年の明応地震の混同として扱われて、「理科年表」には記載がない。地層や史料
- の調査から、相模トラフを震源とする関東地震の可能性が疑われている
- 9月11日(9月20日)(明応7年8月25日) 明応地震(東海道沖の巨大地震) - M8.2 - 8.4、死者3万 - 4万人以上と推定。伊勢・駿河などで津波により大きな被害、浜名湖が海と繋がる、鎌倉高徳院の大仏殿が押し流されるなど ※。地質調査によればほぼ同時期に南海道沖が震源域となった可能性もあるが疑問。南海トラフ沖にある長さ約300 kmの海底活断層による地震の可能性がある
- 1586年1月18日(天正13年11月29日) 天正地震(東海東山道地震、飛騨・美濃・近江地震) - M7.8 - 8.1(8クラスの地震と6クラスの地震が接近して立て続けに発生した可能性あり)、死者多数。飛騨・越中などで山崩れ多発、白川郷で民家数百軒が埋まる。内ヶ島氏、帰雲城もろとも滅亡。余震が1年以上続く。三河湾と若狭湾という日本海・太平洋両岸での大津波記録が複数あり、複数の巨大地震の同日発生の可能性がある。少なくとも養老断層(愛知県)、阿寺断層(岐阜県)の2つの断層の活動(いずれもM8クラスか)の可能性が高い。さらに若狭湾に津波をもたらした断層も活動したと考えられ、3つのセグメントでのM8クラス地震が同日に少なくとも3つ以上発生した可能性が高い
- 1596年 以下の3つは連動型地震の可能性がある。
9月1日(文禄5年閏7月9日) 慶長伊予地震(慶長伊予国地震)- M7.0、寺社倒壊等。同年同月に発生した一連の内陸地震のさきがけとなる。四国を走る中央構造線断層帯での地震と考えられている。
9月4日(文禄5年閏7月12日) 慶長豊後地震(大分地震) - M7.0 - 7.8、死者710人、地震によって瓜生島と久光島の2つの島が沈んだとされている。大分県を走る別府-万年山断層帯(べっぷ-はねやま だんそうたい)での正断層型地震と考えられている。
9月5日(文禄5年閏7月13日) 慶長伏見地震(慶長伏見大地震、文禄の大地震) - M7 1⁄2±1⁄4、京都や堺で死者合計1,000人以上。伏見城の天守閣や石垣が損壊、余震が翌年春まで続く。淡路島 - 神戸 - 大阪北を走る六甲・淡路島断層帯や有馬-高槻断層帯での地震と考えられている。 - 17世紀[編集]
江戸時代(1603年ごろ - 1868年ごろ)
17世紀前半……津波堆積物の分析から、この時期に千島海溝南部(十勝沖から根室沖まで)を震源とするM8.6クラスの地震が発生したと推定されている(17世紀型の地震)。1611年または1635年説あり。
1605年2月3日(慶長9年12月16日) 慶長地震(南海トラフ津波地震説、東海はるか沖地震説、または房総沖と南海沖の二元地震説、伊豆・小笠原海溝地震説あり) - M7.9 - 8、関東から九州までの太平洋岸に津波、紀伊・阿波・土佐などで大きな被害。八丈島でも津波による死者数十人。死者1万 - 2万人と推定されるが、津波以外の被害はほとんどなかった。 - 1611年 12月2日(慶長16年10月28日) 慶長三陸地震 - M8.1 (Mw >8.5)。三陸沖(日本海溝付近)の地震と考えられてきたが、十勝・根室沖(千島海溝)のM9クラスとする説もある。一方、東北地方太平洋側で繰り返し発生していると推定されるM9クラスの地震の候補ともされる[47][80]。伊達領で大津波による死者約2,000 - 5,000人。
- 1677年
4月13日(延宝5年3月12日) 延宝八戸沖地震 - 陸奥、陸中、八戸沖(青森県東方沖)で地震 - M7 1⁄4 - 8.0、津波あり、三陸沖北部の固有地震[91]。
11月4日(延宝5年10月9日) 延宝房総沖地震(延宝地震) - M8.0前後(Mw8.5)、死者500 - 600人。福島県 - 千葉県に津波(茨城県地方史上最大の津波被害[92])。 - 1703年
12月31日(元禄16年11月23日) 元禄地震(元禄関東地震) - M8.1 - 8.2 (Mw8.1 - 8.5[98])、関東南部に津波。死者6,700人、潰家、流家約28000軒(『楽只堂年録』)(死者20万人とも『鸚鵡籠中記』)。
同日、豊後で地震 - M6.5±1⁄4、元禄地震とほぼ同刻に発生。府内領で潰家273軒、死者1人、由布院でも潰家。 - 1707年
10月28日(宝永4年10月4日) 宝永地震(南海トラフ全域が震源域) - M8.4 - 8.6(Mw8.7〜9.3)、死者4,900 - 2万人以上、倒潰・流出家屋6万 - 8万軒。関東から九州までの太平洋岸に津波、東海道宿場町・伊豆・伊勢・紀伊・阿波・土佐沿岸各地が亡所となるなど大きな被害(『楽只堂年録』、『谷陵記』)。地震から49日後に富士山の宝永大噴火。道後温泉の湧出が数か月間止まる。 - 3人。
1793年 2月17日(寛政5年1月7日) 寛政地震(連動型宮城県沖地震) - M8.0 - 8.4、死者100人程度、陸中から常陸にかけて津波。 - 1843年4月25日(天保14年3月26日) 天保十勝沖地震 - M7.5 - 8.0、死者46人。厚岸に津波。
- 1854年
7月9日(嘉永7年6月15日) 伊賀上野地震(伊賀・伊勢・大和地震) - M7 1⁄4±1⁄4、死者約1,800人。
12月23日(嘉永7年11月4日) 安政東海地震(東海道沖の巨大地震) - M8.4 (Mw8.6、死者2,000 - 3,000人。房総半島から四国に津波、特に伊豆から熊野にかけて大きな被害。ロシア船ディアナ号(プチャーチン提督来航)沈没。
12月24日(嘉永7年11月5日) 安政南海地震(南海道沖の巨大地震) - M8.4 (Mw8.7[注 16])、死者1,000 - 3,000人。紀伊・土佐などで津波により大きな被害(串本で最大波高11 m)。大坂湾に注ぐいくつかの川が逆流。道後温泉の湧出が数か月間止まる。稲むらの火のモデルとなった津波。 - 1856年8月23日(安政3年7月23日) 安政八戸沖地震 - M7.5 - 8.0 (Mw8.3)、三陸および北海道に津波。死者29人。三陸沖北部の固有地震。