おはようございます。マコです
天正10年(1582)の武田・織田両氏の相次ぐ減亡による混乱の中で
真田昌幸は、周辺の上杉・北条・徳川という強豪はざまにあって
目覚しい働きをみせ、その勢力をさらに拡大し、
天正11年には上田築城にとりかかり、
上田盆地を中心とする小県郡一帯をもその支配下におさめました。
こうして成立した真田領は石高10万石たらずですが、上杉2国にまたがり、
上田沼田間だけでも約100kmもあるという広大ものでした。
上田城と真田氏の名は、天正13年(1585)と慶長5年(1600)の二度にわたる
徳川の大軍の攻撃を退けた事で、知られることとなりました。
上田城址は天守閣もありませんし、石垣も少なく決して見栄えのする城ではありません。しかし戦いにはそなえるだけでなく、領国統冶の中心としても築かれた近世城郭としての
平城でありながら、二度もの実戦の経験があって、しかも小よく大を制した
この上田城のような戦歴をもつ城は全国でもほかに例がありません。
注:上田・城下町活性会(上田商工会議所内)パンフレットより引用
上田市役所観光課
よろしかったらポチっとお願いします
天正10年(1582)の武田・織田両氏の相次ぐ減亡による混乱の中で
真田昌幸は、周辺の上杉・北条・徳川という強豪はざまにあって
目覚しい働きをみせ、その勢力をさらに拡大し、
天正11年には上田築城にとりかかり、
上田盆地を中心とする小県郡一帯をもその支配下におさめました。
こうして成立した真田領は石高10万石たらずですが、上杉2国にまたがり、
上田沼田間だけでも約100kmもあるという広大ものでした。
上田城と真田氏の名は、天正13年(1585)と慶長5年(1600)の二度にわたる
徳川の大軍の攻撃を退けた事で、知られることとなりました。
上田城址は天守閣もありませんし、石垣も少なく決して見栄えのする城ではありません。しかし戦いにはそなえるだけでなく、領国統冶の中心としても築かれた近世城郭としての
平城でありながら、二度もの実戦の経験があって、しかも小よく大を制した
この上田城のような戦歴をもつ城は全国でもほかに例がありません。
注:上田・城下町活性会(上田商工会議所内)パンフレットより引用
上田市役所観光課
よろしかったらポチっとお願いします