寛政七年には大関に昇進し、実に十六年二十七場所の長きにわたり大関の栄位を保持し、
九割六分二厘という古今最高の勝率をあげた。雷電には禁じられた手が三つあった。
「張り手」「かんぬき」「突っ張り」である。
これを使えば必ず相手に怪我をさせるからというので封じられていた。
なお、雷電は文化八年(1811)惜しまれつつ引退した。
お抱え力士
山陰地方の親藩松江藩の殿様松平冶郷(不味公)は、
雷電の力と技と学徳の傑出していることを見て取り天明八年(1788)松江藩に召抱えた。
雷電は、八石に三人扶持をあたえられ、お抱え力士として活躍したのであつた。
松江市にある松平家の霊廟の一隅に雷電の墓が今も残っている。
雷電は、文政八年(1825)妻にみとられながら五十九才で没した。
死後その遺骨は分骨され故郷大石村の関家墓地に葬られているが、
雷電の力にあやかろうという参詣者が絶えない。
生家の復元
三十三才の時故郷大石村に帰った雷電は五十両で生家を建て直した。昭和五十九年、雷電が建てたという
その家も老朽化したので、関係者の協力で復元ができた。この家は、土間に土表が作られていることと、
二階が桟敷席になっており、相撲ぶりが観覧できるのが特徴である。
雷電の没後牧家一里塚のかたわらに、徳をしのんで碑が建立された。
明治維新の英傑 佐久間象山は、雷電のために自ら文を選ぶと同時に雄渾な文字で書いている、
この雷電碑は全国でも名碑に数えられている。
道の駅雷電くるみの里雷電展示館(浅間サンライン道の駅)
〒389-0512
長野県東御市滋野乙4524-1 電話0268-63-0963
力士雷電の生家 〒389-0512
長野県東御市滋野乙1981-2
地元東御市夏祭りは(雷電祭り)現在は東御市、市民祭りとなり来る8月 1日(土曜日)に開催
毎年大相撲のあずま関親方(高見山関)、定年後(渡辺大五郎)さんが弟子を連れ参加
また子供相撲ために土俵も作られる。
信州・東御市観光協会
たりたり
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千曲川の対岸の長瀬村に上原源五右衛門という庄屋がいた。その庄屋は、学問好きで
寺子屋師匠をする傍ら、石尊の辻をつくって相撲好きな若者の世話にも余念がなかった。
このことを知った太郎吉は、上原源五右衛門方に寄食して学と技を磨いた。
折りしも、江戸相撲の浦風林右衛門一行が地方巡業で上原家を訪れた。
そのとき、太郎吉は、浦風に相撲とりとしての才幹を見込まれ、天明四年(1784)
十七才で出府、江戸相撲に入ることとなった。恵まれた天与の素質に加えて、
熱心に稽古にはげんだ甲斐あって、寛政二年(1790)には関脇に付出され優勝した。
信州・東御市観光協会
ときどきまも
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雷電為右衛門
(生いたち)天下無双の大力士雷電為右衛門は、明和四年(1767)
信濃国小県郡大石村(現在の東御市滋野乙)に生まれた。
父は半右衛門、母は「けん」といった。幼名を太郎吉と称した。太郎吉が少年だったある夏の午後、母が庭で
据風呂に入っていた。ところが急に雷鳴とともに激しい夕立がしてきた。太郎吉は母を風呂桶ごと
かかええて、家の土間運びこんだという親孝行な逸話が伝えられている。
また、細く険しい碓氷峠の山道を荷物をつんだ馬をひいてきたところ、加賀百万石の殿様の行列に
出会ってしまた。狭い道、よけることもできず困った太郎吉は、荷物をつんだ馬の足をもって目よりも
高くさしあげ、無事行列をお通しし、「あっぱれじゃ」と殿様からお褒めにあずかった。という逸話も。
(資料)「道の駅雷電くるみの里雷電展示館」
信州・東御市観光協会
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