マコちゃんですヨロシク

天明3年(1783年)年7月8日(旧暦)の浅間山大噴火で発生した火砕流と大規模な岩屑なだれ。
鎌原村(現在の嬬恋村鎌原地区)では1村152戸が飲み込まれて477名
(供養碑に刻まれる数)が死亡したほか、上野国(現在の群馬県)で1624名を超す犠牲者を出しました。
爆発で流下した溶岩は、大きな火砕流(岩屑なだれ、さらに熱泥流)となって山腹を走ります。
これは本場のポンペイにあるヴェスヴィオ火山も浅間山も同じです。
北東の大笹方面に流下したものは、大前で吾妻川に流れ込み、中央を北流したものは、
旧鎌原村を直撃。さらに現在のJR吾妻線万座・鹿沢口駅東側で吾妻川に流下します。
中央に流下した「鎌原火砕流」が最大で、流下した量は1億立方メートルにも及びます。
鎌原観音堂奉仕会調べでは災害当時の鎌原村の人口は570人で、477名が死に、生存者は93名
(鎌原観音堂奉仕会調べ)だったと推測されています。
「七月六日、八ッ時より頻りに鳴立、きびしき天も砕け地も裂かと皆てんとうす。
先西は京・大阪辺、北は佐渡ヶ嶋、東えぞがしま松前、南は八丈、みあけ島迄ひびき渡り物淋しき有様なり」
(無量院住職『浅間大変覚書』)
鎌原村には観音堂があり、ここに参拝していた人、必死に逃げ登った人は幸いにして九死に一生を得ています。
浅間山噴火前には観音堂に上る参道に50段の石段があったのですが、現在はすっかり埋まって15段だけ残っています。
これが俗にいう「天明の 生死を分けた 十五段」。
昭和54年の調査で、埋没した石段の最下部で女性2名の遺体が発見されています。
若い女性が年配の女性を背負うような格好で見つかり、娘が母を背負って逃げる途中で
火砕流に襲われたものだと推測されています。
背負われていた方の推定年齢は45歳~65歳で、身長は140cm~145cm。背負っていた方は推定30歳~35歳で、
身長は134cm~139cm。2人とも女性で、骨の状態から、農作業に従事していた村人だったと考えられています。
この観音堂、大同元年(806年)創建されたという古刹で、天明の大噴火の危機から村民を救ったことにより
厄除け祈願の寺にもなっています。
同じ群馬県では昭和57年に発掘された黒井峯遺跡(群馬県渋川市中郷)が
「日本のポンペイ」と話題を呼びました。
榛名山の噴火で吹き出された軽石にすっぽり埋まってしまった古墳時代後期(6世紀前期)、
つまりは1500年前の村。
秋のジャズ🍂 リラックスできるジャズコーヒー音楽とボサノバピアノで一日をスムーズにスタート
1920(大正9)年、当時の松室致・本学学長は、
群馬県吾妻郡長野原町大字応桑(現・北軽井沢)
の273ヘクタールの土地を草津軽便鉄道株式会社
より取得しました。
この土地は北白川宮家の牧場を民間に
払い下げたものでした。
草津軽便鉄道は後に草軽電気鉄道と
社名を変え、軽井沢~草津間を運行しますが
1962(昭和37)年に廃線となります。
大正時代末、松室学長は、ここに法政大学の
教職員と学生を中心とした理想的な教育と
共同生活の場「法政大学村」をつくろう
と思い立ち、教職員への土地分譲を計画します。
話を聞いた野上豊一郎教授(当時の予科長、
後の学長・総長)は、春休みに数名の同僚教員を誘い
実地検分におもむきます。
ところが、雪の消えたばかりの寒々とした高原は
一面の枯れ野原。同僚教員はタダでもこんな土地は
ごめんだと、早々に帰京してしまいました。
同じ年の夏、野上教授が家族を連れて
再びこの地を訪れてみると、見渡す限り草花が
咲き乱れ、小鳥がさえずる素晴らしい
高原だったのです。
帰京した野上教授は教職員に土地分譲をすすめ、
1928(昭和3)年夏、第1区40戸の山荘が
建てられました。
ここに「法政大学村」が誕生したのです。
分譲地価は坪1円、原則として1人1区画500坪とし、
2区画まで所有が認められました。
村の管理・運営のため自治的組織として村会制をとる
ことにし、初代村長に松室学長が就任、
選挙によって村会議員を選び、
野上教授が村会議長となりました。
村民は本学文科系の教員が中心でしたが、
野上教授の山荘を訪れた岩波茂雄氏
(岩波書店創業者)がこの地をひと目見て
気に入って村民となり、
岩波氏の勧誘で本学以外の学者・
芸術家も多く参加しました。
初期の村民には、安倍能成、谷川徹三、野上弥生子
(豊一郎夫人)、田辺元、津田左右吉、小泉信三、
岸田国士らが名を連ねています。
翌29年、第2区を開発して40人に分譲。
この年、村の手で最寄りの地蔵川駅の駅舎を新築し
草津電気鉄道に寄付しました。
これが今も駅舎が残る「北軽井沢駅」です。
さらに翌年には第3区が開発され、
法政大学村の輪郭が整いました。
村には条例や罰則はなく、村民相互の生活を尊重し、
他を侵さず侵されず、のんびりと高原の夏を楽しみ、
落ち着いて仕事をしようという自然憲法のような
約束事ができていました。
しかし1931(昭和6)年に松室村長が逝去。
その後も村民数は増加していきましたが、
村民構成は次第に大学関係者中心ではなくなり、
法政大学との関係も薄れていきました。
そして、日中戦争が始まる1937(昭和12)年、
開村10周年を機に村会制を組合制度に改め、
法政大学村は「大学村」と改称されて
新たな歩みを始めるのです。
【参考資料】
『大学村五十年誌』1980年・北軽井沢大学村組合、
『大学村七十年誌』1999年・北軽井沢大学村組合
長野県側(長坂~八千穂)?