中学生の頃だったと思う。
百人一首を買ってもらった。
当時学校で休み時間にやっていたからだが,高校生になると丸暗記させられ,実力テストはすべて百人一首から出題された(何の実力か分からんが)。
さすがにこの頃になると,歌の内容も分かって来るし,天智天皇に持統天皇,柿本人麻呂に大伴家持,阿倍仲麻呂,紫式部に清少納言,法性寺入道前関白太政大臣(藤原頼通),鎌倉右大臣(源実朝)といった歴史上の人物たちの歌も有ることに気づいた。
さらに,いまでは考えられないが(泣)思春期の少年だった私の心に響く歌も幾つか有った・・・。
でもって,題名の実方中将である。
正しくは藤原実方朝臣。
生年は不詳で999(長徳4)年没。
平安中期を代表する歌人で,清少納言を筆頭に20余人のおねいさんと関係があったとされる10世紀末のイケメンにして,光源氏のモデルの1人と目される人物である。
曾祖父は摂政関白忠平,祖父は小一条左大臣師尹,御堂関白道長とは又従兄弟ということになる。
摂関家の超貴種であり,侍従-左近少将-右近中将-左近衛中将と順調に昇進し,家柄・財力・権力に加えて,類い希なる容貌と卓越した和歌の技能によって,円融・花山両院の信頼と寵を一身に受けていた。
ある日のこと,殿上人がこぞって花見に出かけた際に俄雨にあったという。
その時,実方は少しも慌てず,
桜がり雨は降りきぬ 同じくは ぬるとも花の蔭にかくれむ
なる句を詠んで,降り来る雨に濡れながら装束の袖を搾ったという。
その風流心を人々は褒め称えたが,只1人藤原行成だけは,
「歌は面白し。実方はをこなり」
と批判(「をこ」とは,お莫迦といった意味だろう)。
怒った実方は,殿上にて行成と出合うなり,その冠を取って庭に投げつけたという。
これは当時として大変な恥辱になるとされる。
当時の公家は,洗髪時以外は冠や烏帽子を取らなかったくらいであるから,それを取られるということは,とんでもない辱めを受けたということになる。
このことは一条天皇の不興を買い,実方は陸奥の歌枕を見てくるように,という名目で陸奥守に任じられ,長徳元(995)年,都を離れて遥か奥州の地へ下向することになる。
奥州の国司となった実方は,当地の武士達に尊敬されたという。
任期の4年間,おそらく鎮守府のある多賀城に居て各地の歌枕を巡ったと思われるが,何故か出羽国千歳山阿古耶の松(現山形市)を見た帰りに,名取郡笠島道祖神の前を乗馬のまま通過しようとしたところ,馬が暴れて落馬。
その傷が元で病を発症。
当地にて帰らぬ人となったという。
享年は40と少しと伝わる・・・。
都への思いを残して無念にも異郷に果てたこの大宮人の墓は,名取郡笠島(現宮城県名取市愛島塩手)に今も伝わる。
20数年前,旧名取郡から柴田郡にかけて南北に走る通称愛島街道沿いにその表示を見つけて,一度は訪ねんと思っていたのだが,先日ようやく果たすことができた。
畑の中の道を少し北の丘陵に登ったところに墓所があり,土饅頭だけが残されていた。
異郷に果てた大宮人の無念さが図らずもよく伝わる・・・。
それにしても,行成に対してのような行為に出た背景には,清少納言を巡る三角関係があったとも言われる。
清少納言は,百人一首にある
夜をこめて 鳥のそらねははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ
なる歌は行成に送ったとも言われるらしい。
これはなかなか味わいのある歌だ。
何せ,妙齢の才色兼備のおねいさんに
「今夜は帰しませんよ」
と言わせているのだから・・・(羨・・・)。
血統正しき30代の実方と,はるかに若く多分イケメンの行成の二股をかけていたのかもしれない。
とんでもない話・・・と思うかも知れないが,これは名誉なことなのだろう・・・。
修羅場があったかどうかは分からないが・・・。
・・・ということで,古代史も範疇外なのだが,地元の史跡を訪ねて新たな発見をしてきた。
でもって,私が気に入った百人一首にある実方中将の歌は以下の通り。
かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを
どうやら奥州下向の後,清少納言とのやりとりで詠まれたという・・・。
で,かつて当時の彼女にこの歌を添えて・・・と思ったが,さすがに憚られて果たせぬまま終わってしまった・・・(泣)。
実方が没して189年後に西行がその地を訪れ,約700年後に芭蕉が訪れんとしたが荒天で果たせなかったという。
笠島はいずこか五月のぬかり道(芭蕉)・・・
俳聖芭蕉もまた,この地に無念を残して仙台へ,松島へと向かったのだろう・・・。
一読して,墓所へ・・・
墓所への入り口
木漏れ日の中を少し登る・・・
土饅頭のみ・・・
当日の画像はfacebookとmixiにも掲載してあります・・・。
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