仕事で市内東部へ。
職場のある旧市内(昭和末期の合併以前の市域)西端を出立し,市街地中心部を抜け,走ること40分。
本日の午後の仕事場の隣には,何と巨大な古墳が鎮座していた。
遠見塚古墳。
県内第2位,東北地方では第5位の面積を誇る前方後円墳である。
存在自体は小学生の頃から知っており,となりの国道を幾度も通過する度に見ていたのだが,近くで見たのは初めてとなる。
4~6世紀頃のものと推定されるが,有名な仁徳陵(本当に仁徳帝のものか真実は分からないという理由から,今は教科書には大仙古墳と表記されるそうだ。別に伝承でも構わないと思うのだが・・・)や応神陵等の百舌鳥古墳群(堺市)に代表されるような巨大古墳の時代が終わり,より現実的・実用的な墳丘になった時代のものと推定される。
つまり大和朝廷末期のものではないかと思われ,多くの出土品があるようだ。
この時代,中央政府(勿論大和朝廷)の権力がどこまで及んでいたかはっきりしないが,同時代に権勢をふるった会津国造の例もあるので,もしかすると大王(おおきみ)の力が,十把一絡げに蝦夷と呼ばれていた現在の東北地方にも及んでいたのかもしれない。
南に隣接する旧名取郡には,さらに巨大な雷神山古墳も存在するし,彼の地を収めていた豪族の権勢に対する思いは深まる・・・。
ま,史跡などというものは,何気なしに見ていれば何とも思わない代物だろうが,要はその時代に思いを馳せるという言わば思い入れの有無の問題だと思う。
重機など無い時代に,古代人が血と汗で購った古墳に対峙して,私としてはえも言えぬ感慨に耽った・・・。
ま,古代史に対しては興味関心は範疇外と思ってきたし,知識も乏しいのでこれ以上書けないのだが,ちょいと予備知識を入れるだけで,目の前の変哲もない風景が,俄然魅力的な色彩を放つ様を見るのは,大きな喜びとなる。
聖徳太子以前の時代,我が町に大いに権勢をふるった豪族が存在した・・・と考えると,何となく心楽しいものがある。
海岸まで程遠からぬ平地に存在する古墳こそ,稲作の伝来や農耕文化を象徴するものなのだろう。
我が街の縄文遺跡が,市内南部を貫く名取川の段丘に沿って,西部の山岳地帯に数多く見られることと正反対の事実7でもあるし・・・。
奥が墳丘。
読むと楽しい・・・。
墳丘を下から・・・
歩道橋の上から。人と車と比較・・・。手前が「前方」だ。進駐軍が向かいの飛行場拡張の為に崩したとは言語道断・・
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