近世初頭,大名家に付きものと言えばお家騒動です。
幕府にとって,格好の外様大名取り潰し(改易)の口実となりました。
我が藩でも『伽蘿先代萩』(めいぼく せんだいはぎ)の題材となった伊達騒動がありまして,加賀騒動,黒田騒動とともに三大お家騒動と呼ばれています。
但し,この三家は何とか幕末まで大藩として命脈を保つことが出来たのですが,前日から述べている最上家の場合は,命取りになってしまったのですかすら,目も当てられません。
芽は,山形藩初代義光の代から既にありました。
義光は秀吉在世中から抜け目なく家康に近侍し(秀次に嫁す予定だった駒姫を,助命嘆願虚しく斬られて秀吉を恨んでいたとも言いますが,小田原参陣のことといい,先を見る確かな目を持っていたのは間違いないでしょう),二男家親を家康の元に送っています。
家康は大層この家親を気に入り,義光としてもお家の安泰を図るためにも長男の義康ではなく,家親に家督を譲ろうと思ったことでしょう・・・。
父子の仲は以来険悪になっていきます。
慶長16(1611)年,義康が何者かに暗殺されます。
義光が手を下したとも,家臣が単独でやったとも言われ,今尚謎となっています。
義光は,義康が和解を図っていたことを知って大層嘆き悲しみ,3年後に失意の内に世を去ります。
後を継いだ家親は幕府との連携強化を図り,かつて豊臣家に仕えた経緯のある弟清水義親父子を大坂の役直前に誅殺します。
ところが大坂の役後の元和3(1617)年,家親が37歳で頓死。
猿楽を見ている最中のことだったようで,毒殺説が流れたと言います。
その結果,家親唯一の子である義俊が三代目の山形藩主となるのですが,若年にして文弱のきらいがあり,家臣が義光四男の山野辺義忠を擁立する派と義俊派に分裂するに至ったのです。
元和8(1622)年,義光の甥にあたる松根光広(義俊派)が老中酒井忠世に「家親の死は楯岡光直の犯行による毒殺である」と訴え出たため,忠世は訴えに基づいて楯岡を調べたが証拠は全くなく,騒動は一層激化しました。
騒動を重く見た幕府は,一旦最上領を収公し義俊には新たに6万石を与え、義俊成長の後に本領に還すという決定を下します。
しかし上記山野辺義忠と歴戦の士である鮭延秀綱は納得せず,「松根を重用する義俊に従うことは出来ない」と言上したことで幕府の態度は硬化。
同年,山形藩最上家57万石は改易となります。
義俊には新たに近江大森(現滋賀県八日市市-もとい東近江市-何で訳分からん町村合併するんか・・・怒)で1万石の所領を与えられました(後5000石に減封し高家となる)。
子孫は今尚大森に居られるということを,歴史ボランティアのご老人にうかがいました。それがせめてもの救いでしょうか・・・。
上記,山野辺義忠は岡山藩にお預けになった後で,水戸藩に仕官して家老となり,三大藩主となる光圀の教育係となりました。
また,松根光広の子孫は宇和島藩の家老に,楯岡光直は熊本藩に仕えました。
主君と家臣が一枚岩となっていなかった点が,最上氏の大名としてのアキレス腱になったようで,それは既に義光の時代からの特徴だったと思われます。
最上氏は村山郡から最上郡にかけて(丁度山形県中央部)根を張り,天童,東根,山野辺(山辺),楯岡,中野,上山・・・といった現在も残る地名から支族を排出しましたが,それら同族+地元豪族の集合体という中世的・室町幕府的な支配体系が殿様の権威を弱めることになったのでは・・・と思われます。
最上家か去った後の山形には,鳥居忠政(関ヶ原前哨戦の伏見城攻防戦で討死した元忠の子)が平藩より転封となりましたが,二代で改易。
次が会津藩祖となる保科正之,そして越前松平,奥平,堀田,大給(おぎゅう)松平,水野,秋元等,多くの譜代・親藩大名が山形藩主として,それこそぱっぱかぱっぱか移り変わっていきました。
そういうこともあって,山形市の街割りをした最上家は今尚市民に親しまれているのでしょう。
考えてみたら,東に伊達,南に上杉,北に佐竹と,外様の雄藩が控えているので,幕府としてもこの山形城を重く見たのでしょう・・・。
・・・ということで,本文とは全く関係ないのですが,斯波氏の祖である斯波家兼の菩提寺である光明寺と駒姫の墓所である専称寺を見てきました。
折しもお盆の中日で,墓参の真っ最中であり,迷惑だったことでしょう・・・(反省)。
特に専称寺界隈は寺町で,交通整理が出ていました・・・。
隣町のことなのに,意外と知らなかった最上氏のことが少し分かって,何となくお利口になった気分です(現金な奴・・・)。
次回は番外編となるのか,それとも相変わらずこのような駄文を垂れ流す(汚い・・・)ことになるのか・・・ 。
一応続きます・・・。
斯波家兼墓所光明寺
何と一遍上人像が・・・。時宗か・・・だとしたら多分初めてだ・・・。
光明寺本堂
斯波家兼墓所
専称寺の堂々たる山門。
立派な本堂。少々痛んでいるのが惜しい・・・
駒姫墓所へ。御殿堰が流れる。
駒姫は寺域の一番奥に静かに眠る・・・
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