診察室でのひとり言

日常の診察室で遭遇する疑問、難問、奇問を思いつくままに書き記したひとり言

嶋の大ばあちゃん

2019年03月12日 | 医療、健康

『 間もなく、心筋梗塞の患者さんが到着します。先生が主治医になります。』 と外来の看護婦(現 看護師)さんから連絡が入った。『 どこからの紹介? 』、『 芦屋市民病院です。』 と心筋梗塞の急患が頻繁に搬送されていた関西労災病院に勤務していた平成 5 年ごろの一幕である。当時の阪神間で、カテーテル検査・治療のできる心臓救急病院は関西労災病院と兵庫医大の 2 病院だけであり、しかしその殆どは関西労災病院に紹介搬送されてきた。本拠地とする尼崎市をはじめ、伊丹市、宝塚市、西宮市、芦屋市、神戸市の一部と非常に広範囲から心筋梗塞の救急を受付けていた。グループの方針で紹介された症例は絶対に受入れを拒否しないということで、たった 6 人の医者でフル回転していた。現在であれば救急外来で診察後、すぐにカテーテル室にストレッチャーで運ばれ、治療を開始。終了後は CCUや ICUといった設備の整った集中治療室で数日継続治療をし一般病棟に移されるわけであるのだが、当時の関西労災病院は心臓外科、脳外科もかなりの手術数をこなし、術後に ICUで数日経過を診ることが多かったため、ICUのベッドは取り合いであり、また重症の交通事故や傷害による患者搬送も受入れる特救部もあった為、たった 9 床のベッドはすぐに埋まってしまう。少しでも元気であれば(経過が良ければ)その患者さんは一般病棟に追い出されることもしばしばであった。当然、一般病棟といえども、その科の空室(ベッド)がうまい具合に空いているわけでもなく、予定手術ならまだしも、心筋梗塞のような救急患者に対しては、ベッドの保証もなく、常に ICUの婦長(現 師長)や病棟の婦長にベッドを空けてもらうように交渉したものだった。内科の一般病棟が全く空きが無いときは、外科病棟や泌尿器科病棟などにも交渉することも珍しくなかった。  救急車で搬送されて来たのは70歳台の女性だった。意識はしっかりしているものの、胸が痛いと何度も訴えていた。ストレッチャーに寝たままの患者さんに向かって、私は立ったままで、いくつかの問診と心筋梗塞を示す心電図を確認し、準備の整ったカテーテル室からの連絡をもらって移動した。治療はスムーズに行うことができ、心筋梗塞のダメージも小さく、ICUでの管理も不要と判断し、消化器内科病棟のリカバリー室(詰所隣)が空いていたのでそこで引き続き治療することとした。 間もなく、狭苦しく決して綺麗とはいえない当時の病棟の待合室が騒々しくなってきた。『 看護婦さん、何 あの人だかり? 』、『 嶋さん(この救急患者さん)の関係者の方々です。芦屋の市長や太陽神戸銀行の支店長やなんだか凄い人達が来てますよ。』、『 えっ! 嶋さんって何者なの?』、 『 さあ~ 』。経過は良好で、翌日にはトイレまで歩いて行くことを許可して欲しいとか 個室の部屋に替えて欲しいとか注文が多くなってきた。『 嶋さん、治療は上手く行きましたが、まだ心臓は落ち着いていません。安静にしていないと急変して死ぬかもしれませんよ。』 その翌日もまた翌日も同じことを繰り返し、やっと希望の個室に替わる日が来たときは非常に嬉しそうにしておられた。その後も順調に回復され、無事退院の日を迎えることができた。『 嶋さん、また来月、外来でお会いしましょう。』、『 先生のお陰で命を助けてもらった。あんたは凄いな~。 でも、あんたぐらいや!私に命令するの!はっはっは・・・。』 、『 えっ?・・・』 。入院した日と違って、綺麗に化粧をして綺麗に着飾って、杖を突いて長女の方を傍らに、上品に退院していかれた。何とも言えぬ人間としての凄味を感じ、なぜか病院玄関まで送って行ったことを覚えている。 私が玄関まで送ったのはこれが最初で最後であった。・・・ (つづく)