家づくり、行ったり来たり

ヘンなコダワリを持った家づくりの記録。詳しくは「はじめに」を参照のほど。ログハウスのことやレザークラフトのことも。

最上級昼寝空間

2007年10月28日 | 山小屋・ログハウス
 
初夏から中秋にかけて山小屋にいったとき、必ずすることがある。
それは「昼寝」。

昼寝をする場所は2階の屋根裏風の12畳の和室である。
窓を開けると、ここちよい風が通り抜ける。きょうはあたたかかったので3方を開け放した。
空気がうまいのがいいのか、滝の音がいいのか、琉球畳がいいのか、ぐっすりと眠ることが出来る。
自分ちながら、「金を払ってもいい」なんて思う。

犬走り

2007年09月17日 | 山小屋・ログハウス
 
ここのところ、雨がよく降る。
我が山小屋は雨どいをつけていないが、軒を深くとってあることもあって雨だれが外壁にあたることはまずない。
ただ、雨だれをそのまま地面に落とすと土がえぐれてしまうので、写真のように砂利を敷いた犬走りを設けてある。
これで泥もはねず、軒下で雨宿りもできる。
昔ながらの知恵というのは面白い。

「緑のオーナー制度」のしょうもなさ

2007年08月08日 | 山小屋・ログハウス
数日前の話題だが…
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「緑のオーナー制度」9割元本割れ、林野庁リスク説明せず
8月4日0時32分配信 読売新聞
国有林のスギ、ヒノキの育成に出資して伐採時に配分金を受け取る林野庁の「緑のオーナー(分収育林)制度」を巡り、満期を迎えた個人、団体の契約1万件のうち9割以上が契約時の払込額を下回る「元本割れ」となっていることがわかった。
 同庁では年3%の利回りを想定していたが、輸入木材に押され、国産木材の価格が低迷しており、今後満期を迎える約7万6000件についても、見通しが立っていない。
 公募当初、同庁は、金融商品ではないなどとして元本割れのリスクは説明していなかった。
 同制度は1口50万円か25万円を出して国有林の樹木の共有者となり、満期(最短で15年)を迎えた後に伐採、販売代金を配分する。公募は1984~98年度に行われ、個人・団体から計約8万6000件の出資で約500億円を調達した。
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国がやる商売はなんともずさんである。
今回もそれを証明してしまった。

この件につき、いろいろ考えてみた。
私はそもそも、この制度が出てきたとき、元本保証でないことは明らかだと直感的に思った。いわば「立木の先物買い」なのだから元本が保証できるわけはないのだ。半ば寄付感覚で参加するものかとも思ったが、今回の問題化でそういう人ばかりではなかったことが分かった。
「緑のオーナー制度」を利殖手段として提供したというならば、まさにずさんだ。国がやる事業だから安心だ、というような思わせぶりな広報をしていたとしたら一層罪深い。
マスコミもいまになって騒いでいるが、発足当時、なぜリスクについて突っ込まなかったのかを批判したい。「緑の」という耳障りの良い言葉のせいか、むしろ好意的記事が目立っていたと記憶している。
これは前述したように「先物買い」なのである。しかも転売も途中解約もできないリスクの高さ。素人の利殖手段として適しているはずがない。そんなことも見抜けなかった記者のことを考えると、やっぱり「投資教育」は必要だなあと思う。林野庁は糾弾されるべきだが、マスコミ自身も反省を要する。

さて、私は「緑のオーナー制度」には参加しなかったが、数年前に小面積ながらも山林は購入している。そして、山林を購入してよかったと思っている。その違いは何か。
そもそも山林購入はログハウスをセルフビルドするための土地と材を調達するのが目的。
立木を自家消費したことで、一般の市場価格より安く仕入れることができた(※注)という満足感がある。
山林購入ならば、どの木が自分のものかわからないような制度と違って、リアルに自分の木を実感できる。山林としては狭いが宅地に比べたらかなり広い面積を相当に安い値段で占有できることも、そこはかとなくうれしい(笑)。
また、満期などというものが存在しないので、残った立木はいつでも処分できる。いつでも処分できるのであれば、株式よろしく「塩漬け」で持ち続けることも可能だ。もちろん将来はリカバリーするという根拠の無い「夢」を持ちながら…(笑)。
満期があるとその時点で清算することになり、取引価格が値下がりしていたら確実に売却損が発生する。

今にして思えば、緑のオーナー制度もしっかり証券化して金融商品にするべきだったろう。
せめてクローズド期間(例えば5年)のようなものを設けておいて、期間開けに現金で清算する以外に、立木のまま持ち続けることや、現物(伐採した丸太)での受け渡し(現渡し)を認めればよかったのではないか。
持ち続ければ含み損はあるが前述した「塩漬け」で気分的に楽になれる。
現物での受け渡しを認めるのならば、我が家が自家消費したようにこれから家を建てる人が木材を施主支給する、なんてこともできたかもしれない。自前の木で家を建てるなんてそれはそれでちょっとロマンもある(関連エントリ→)。

この制度が発足してから、材木価格は下がり続けていた
結果的に儲けるチャンスはなかったと言える。ところがここへきて徐々に潮目が変わってきている。国際的に資材の価格が上昇しているからだ。
国産木材の上昇がすぐに本格化するとまでは思わないが、儲けようとしたらこれからかもしれない。しかし、これまでの緑のオーナーは最安値近辺で無理やり清算させられる。ここからさらに新規購入する気力もおきまい。投資家層の育成をむしろ大きく阻害したわけで、つくづく林野庁はしょうがないことをしでかしたとしか言いようがない。

これから仕切り直すなら、しっかり証券化した上で、CO2排出権ビジネス(この場合はCO2吸収源ビジネスか)、税制優遇などと絡めて魅力的な金融商品に組み立てるようなことをしてほしい。それはそれで林野庁の手に負えるものではなく、金融庁から国税庁、政府、はては京都議定書を管轄する国連まで巻き込んで調整する必要があり、実現させるには相当な労力がいりそうだ。

林野庁はとりあえず、「緑のオーナー」などというまどろっこしいことをあきらめて単に国有林を売るのがいいかもしれない。伐採と転売に関するルールを定め、管理コストを林野庁に支払うことを条件にして。
そうなればできれば販売代理店をやらせてもらいたいくらいである。個人から見た山林の魅力を知っているから、いいセールスマンになる自信がある(笑)。
私に貯金ができれば購入する気もある。それどころか年をとって死にそうになったらそれまでに貯まった財産の大半を国有林購入に充ててもいいくらいだ。他の資産より相続税は安くあげられそうだし、「子孫に美林を残す」なんてかっこいいじゃないか。


(※注)ただし購入後、伐採に時間を要し、さらに1年は乾燥のために寝かせていたため、その間の値下がりはある。結果的にどの程度コストが安くなったのかは検証していない。


わらしべ露天風呂

2007年06月26日 | 山小屋・ログハウス
 
6月26日は語呂合わせで「露天風呂の日」だそうである。

そこで我が山小屋の露天風呂を紹介する。
露天風呂というと、岩を配置した姿を想像するだろうが、我が家のは風呂桶(バスタブ)ごと地面に置いてある形式である。
大人4人くらい苦もなく入れる大きさがある。そんな風呂桶ならさぞかし値段も、と思われるかもしれないが、驚くほど安く手に入れている。

そもそもこんなに大きな風呂桶ってどこで売っているんだという話になる。
どこから手に入れたかというと地元の農家からである。
農家から手に入れたといっても、もともとは港にあったものである。
実は風呂桶ではなく、マグロの解凍用の桶だったものだ。使わなくなったその桶を農家が手に入れて、農作業用の貯水桶につかおうとしていたようだ。両親が車で移動中、農地にこれが2つ転がっているのを発見し、持ち主の農家に頼んで1つを譲ってもらった。
それを近所の塗装屋に出して表面処理してもらい、外側を発砲スチロールで包んで、山林で間伐したヒノキの樹皮を巻いて、さらにヒノキで作った木枠をのせて出来上がりである。桧皮葺の屋根状の蓋も作ってある。
土台につかったブロック、湯を引っ張るホースを含め総コストで約10万円にとどまる。

投資額から考えたらそのパフォーマンスはすこぶる高い。
これまでこの風呂で、蛍風呂、雪見風呂、星見風呂を楽しんだ。今年は両親が知人家族などを招待し蛍風呂を堪能してもらった。いいもてなしができたことだと思う。
今年はもみじが育ってきたので紅葉風呂を楽しむつもり。

モノが交換されていったわけではないが、粗大ゴミになりかかっていた出発点から考えると、価値の膨らみ方が、わらしべ長者のような風呂なのである。
一人で入ったときはまさに「長者気分」だ(笑)。



<補足>
このエントリを読めば、先日のエントリ「家が含む『無形資産』」でいいたいことがイメージしやすいかも。
この風呂の価値はバランスシートにあらわれない部分のほうがはるかに大きい。けっこうばかにならない「無形資産」が付随しているというわけである。

東屋計画進行中

2007年06月03日 | 山小屋・ログハウス
 
父の普請道楽につきあって山小屋で作業した。
かねて計画していた東屋の建築が徐々に進行しているのである。
この日は間伐された杉、檜を運搬する作業だったが、建築現場をみると礎石が加工されていたので写真に収める。
平らな面のある石に鏨で穴を開け丸い石をはめ込んでコンクリで固めてある。
以前、物置でやったのと同じ立柱方式である。
ここに中央部分を凹ませた柱を立てる。柱材はもらってあった地松をつかう。
さてさてどんなものができあがるのやら。





オトシブミ

2007年05月06日 | 山小屋・ログハウス
 
山小屋の周囲に植えてあるコナラを見てみたら、「オトシブミ」を発見した。
山道を歩いているとこのように葉を巻物状にした小さな包みが落ちているのを見かけることがある。直接渡しにくい文(恋文など)を読んでもらいたい人に見つけてもらうためにわざと落としておく「落とし文」のようであることから、この包みを作る虫を「オトシブミ」と名づけたようだ。
この包み自体は「オトシブミ」のゆりかごである。

ハンミョウを「道教え(ミチオシエ)」というのも面白いと思ったが、これもファンタジックで好きなネーミングである。

タイツリソウ

2007年04月30日 | 山小屋・ログハウス
  
山小屋の周囲には母がいろいろな花を植えている。
おかげで園芸オンチの私でも少しずつ、花の名前を覚えてきた。
写真の花は「タイツリソウ」という。
鯛を釣っているように見えることからこの名前がついたらしい。
実際こんなに一度に鯛が釣れたらすばらしい。
まさにおめでたい感じがいい。

多すぎるたけのこ

2007年04月21日 | 山小屋・ログハウス
 
この季節、両親はたけのこ掘りに精を出す。
竹かんむりに旬と書く筍は、当然、旬なもの好きの私の好物であるのだが、この時期に我が家にもたらされる量はいささか多すぎる。

現在、日本の山林においては竹林の侵攻が著しく、ただでさえ手を入れられずに荒れている山林をさらに荒れさせている。山林主の中には竹林の勢力を抑えるために「たけのこ掘り」を歓迎する人もいる。
そんなこともあって、両親が掘るのは我が家が山林を購入したときに知人となった山林主の竹林で、掘り放題なのである。
貧乏性の血筋からか、両親は消費量も考えずに掘ってくるので、量がはんぱじゃない。
以前は業務用ガスコンロに大きな釜をのせてそれをゆでていたが、去年、さらに大きな釜を購入し、山小屋のほうで薪を使ってゆでている有様(冒頭の写真がそれ)。
いまやそのへんの農家に負けないくらい「ゆでたけのこ」を生産しているのではないか。

そのようにできたものは1軒の家で消費するような量ではなく、親戚、友人、知人、隣人に配って回る。
掘って、運んで(たけのこは結構重い)、ゆでて、送って、という一連の作業はけっこう手がかかっている。何の報酬もないが、両親は嬉々としてやっている。
実はこの地域のたけのこは知る人ぞ知るうまいたけのこという話もあり(高級料亭にも出荷しているというウワサもある)、送った相手からは感謝の言葉が寄せられる。人が喜ぶ姿がうれしいようだ。


ふと思ったのは、全国のたけのこ自慢がたけのこを交換しあうネットワークがないだろうか、ということ。そういうものができれば、利き酒ならぬ「利きたけのこ」とか「全国たけのこ選手権」なんていうイベントもやれそうだ。
あれっ、一層たけのこが増えそうな話になってしまった。

暖冬の被害

2007年03月04日 | 山小屋・ログハウス

 
のんびりするために山小屋に出向いた。
食後の運動をかねて、川の上流にふきのとう狩りに出かけた。
ふきのとうは私の好物である。

途中、ライバルたちが摘んだ痕(あと)を見つけつつも、「秘密の場所があるもんね」と足取りも軽い。

ところが・・・

気候が良すぎて、みんな「花」になってしまっていた。
こんなシーン↓に遭遇し、「なぜもう少し待っていてくれなかったんだ」と嘆くばかり。

       

やっぱり暖冬は考え物である。


ブルーベリーの紅葉

2006年12月27日 | 山小屋・ログハウス
 
今日は会社を休んで山小屋行き。
我が家恒例の餅つきをするためだ。昨年に続き、暖かく無風で絶好の餅つき日和
普段使わない筋肉を使ってへとへとになったが、ふと横に目をやると、娘の木「ブルーベリー」が紅葉していて、ちょっとうれしくなった。

ブルーベリーを植えたという報告をしているaiaiさんにトラックバック。

東屋計画――普請道楽は終わらない

2006年12月02日 | 山小屋・ログハウス

 
山小屋に行ったら、材木が転がしてあった。
松である。
そういえば父が、遠縁の親戚筋の改築にともなって切り倒した庭木をもらうというようなことを話していたのを思い出した。
見れば結構な太さがあり、そのまま捨てられるのは忍びなく、もらって正解だったと思う。
それに地松というものは購入しようとしたら高い。ほくほく顔でもらってきたようだ。

ここにある皮をむいた丸太のほかに、一部は製材屋に板に引いてもらっているという。
父にどうするのか聞いたところ、「今度は東屋(あずまや)をつくる」とうれしそうにのたまった。
松は梁にするのにむいている材であるが、柱その他にも使うそうである。
普請道楽は一向に終わる気配はない。


辛味と苦味を知る

2006年11月24日 | 山小屋・ログハウス

前日はウチの子供の友達を何人か連れて山小屋に行った。

私一人で連れて行ったので、昼ごはんは手のかかることはせず、途中、スーパーで弁当や惣菜を買った。
皿に盛り付けるとき、子供の一人がヤキソバに付いていた紅しょうがを「どけてください」と言ってきた。
「なんだ? コレうまいんだぞ~」と言いつつ、人の子なので「食べよ」と強制もせず、脇によけて盛り付けた。
そこでちょっとした食べ物の話となった。

その子が「辛いから食べたくない」と言う。
私は「そうか、それは残念だなあ。大人になると辛いものがうまくなるんだぞ。早くそうなると楽しくないか?」と返した。
きょとんとしているその子に、「それどころか苦いものもうまくなる。うらやましいだろう」と言葉を重ねた。

年齢的に「苦いもの」イコール「悪」という固定観念がある時期なので、その「うらやましさ」は実感できないようだった。
私は、例えば、あの「ふきのとう」のほろ苦いうまさを知らないまま死ぬのは不幸だと思っている人間だ。
「甘いものはうまいけど、しょっぱいものだってうまいよね。そのうち辛いものだって苦いものだってうまく感じるようになれる。旨いものが多いほうが得なんだよ。食べなくてずっと嫌いなままでいると損しちゃうかもしれない」そんな話をした。

別の子が紅しょうがをちょっとつまんで「これ、そんなに辛くない。食べられるぞ」というと、その子もちょっと食べ「ほんとだ」と同意した。ヤキソバと一緒に食べるともっと旨いのだが、ひとまず口にする気になったことがうれしかった。

「嫌いなものは食べなくていい/食べたくない」というのはその時点において自然な心情で、それを主張するのもいたしかたないが、子供には「今は嫌いなものもうまくなってくることがある」ということだけは知っていてほしいと思う。
「嫌いなものが多い大人もいるけどなぜ?」と問いかけるので、「そういう人は舌べらがまだ子供のままなんだよ」と言っておいた。

食べ物だけではない。大人になると楽しいことがあるということを教えておきたい。例えば、自分の子供が生まれる喜びは自身が子供のうちは経験できない。家を建てる本当の楽しさだって子供の立場で経験できるものではない。

世の中には大人にしか味わえない楽しいことがある。
そのようなことを教えていけば子供の「自殺」をある程度抑止できるのではないかなどということまで考えた。


  
  山小屋のテラスからの紅葉

  

 紅葉をより楽しめるのも大人のほうだろう。写真を撮っているとき、子供達は飛び跳ねていた。