初夏から中秋にかけて山小屋にいったとき、必ずすることがある。
それは「昼寝」。
昼寝をする場所は2階の屋根裏風の12畳の和室である。
窓を開けると、ここちよい風が通り抜ける。きょうはあたたかかったので3方を開け放した。
空気がうまいのがいいのか、滝の音がいいのか、琉球畳がいいのか、ぐっすりと眠ることが出来る。
自分ちながら、「金を払ってもいい」なんて思う。
のんびりするために山小屋に出向いた。
食後の運動をかねて、川の上流にふきのとう狩りに出かけた。
ふきのとうは私の好物である。
途中、ライバルたちが摘んだ痕(あと)を見つけつつも、「秘密の場所があるもんね」と足取りも軽い。
ところが・・・
気候が良すぎて、みんな「花」になってしまっていた。
こんなシーン↓に遭遇し、「なぜもう少し待っていてくれなかったんだ」と嘆くばかり。
やっぱり暖冬は考え物である。
前日はウチの子供の友達を何人か連れて山小屋に行った。
私一人で連れて行ったので、昼ごはんは手のかかることはせず、途中、スーパーで弁当や惣菜を買った。
皿に盛り付けるとき、子供の一人がヤキソバに付いていた紅しょうがを「どけてください」と言ってきた。
「なんだ? コレうまいんだぞ~」と言いつつ、人の子なので「食べよ」と強制もせず、脇によけて盛り付けた。
そこでちょっとした食べ物の話となった。
その子が「辛いから食べたくない」と言う。
私は「そうか、それは残念だなあ。大人になると辛いものがうまくなるんだぞ。早くそうなると楽しくないか?」と返した。
きょとんとしているその子に、「それどころか苦いものもうまくなる。うらやましいだろう」と言葉を重ねた。
年齢的に「苦いもの」イコール「悪」という固定観念がある時期なので、その「うらやましさ」は実感できないようだった。
私は、例えば、あの「ふきのとう」のほろ苦いうまさを知らないまま死ぬのは不幸だと思っている人間だ。
「甘いものはうまいけど、しょっぱいものだってうまいよね。そのうち辛いものだって苦いものだってうまく感じるようになれる。旨いものが多いほうが得なんだよ。食べなくてずっと嫌いなままでいると損しちゃうかもしれない」そんな話をした。
別の子が紅しょうがをちょっとつまんで「これ、そんなに辛くない。食べられるぞ」というと、その子もちょっと食べ「ほんとだ」と同意した。ヤキソバと一緒に食べるともっと旨いのだが、ひとまず口にする気になったことがうれしかった。
「嫌いなものは食べなくていい/食べたくない」というのはその時点において自然な心情で、それを主張するのもいたしかたないが、子供には「今は嫌いなものもうまくなってくることがある」ということだけは知っていてほしいと思う。
「嫌いなものが多い大人もいるけどなぜ?」と問いかけるので、「そういう人は舌べらがまだ子供のままなんだよ」と言っておいた。
食べ物だけではない。大人になると楽しいことがあるということを教えておきたい。例えば、自分の子供が生まれる喜びは自身が子供のうちは経験できない。家を建てる本当の楽しさだって子供の立場で経験できるものではない。
世の中には大人にしか味わえない楽しいことがある。
そのようなことを教えていけば子供の「自殺」をある程度抑止できるのではないかなどということまで考えた。
山小屋のテラスからの紅葉
紅葉をより楽しめるのも大人のほうだろう。写真を撮っているとき、子供達は飛び跳ねていた。